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更新日 2018-01-27 | 作成日 2010-01-21

ゼミ論文のポイント

(過去のゼミ論文集の「講評」より抜粋・編集)

論文では公に議論を展開することが要求される。第一に、自分の考えを他者が理解・納得できるように論じる必要がある。それは、自分の考えをいったん自分から突き放し、あたかも第三者の視点に立って、「本当にそうなのか」、「他の可能性はないか」を事実・データ・資料を照らし合わせながら、試行錯誤し、検証するプロセスである。それは、様々な病状、状況証拠(問診)、検査結果から病名を確定し、病気の原因を検証する医師の姿勢に近いものである。「結論先にありき」の姿勢は、十分な診断を行わずに治療を行ったり、薬を処方したりする医師のように「誤診」を多発させる極めて危険な姿勢である。研究は真実を探求する試みであり、検証の結果、自分の主張が棄却されることに後悔してはならないのである。

第二に、論文では「なぜその問題を取り上げるのか」自問することが求められる。つまり、論文は「私小説」、「日記」、「随想」などと異なり、「自分が興味を持ったから」それについて書くということでは不十分なのである。言い換えると、他の人にも面白いと思える要素を多く持っていなければならない。これは論文の学術的意義、社会的意義の問題であり、これらに訴えかけるものが全くないような論文は無価値であると言っても過言ではない。自分の論文が対象とする問題(基本的疑問)に、一般的常識に反するような「驚き」、既存の学術的理解や理論を覆すような「発見」、これまで誰も深く分析しなかった「新規性」、重要な社会的課題に貢献できる要素つまり「社会的有益性」など(の少なくとも一つ)が含まれているかどうかよく検討する必要がある。こういった要素の有無は、書き出しの数ページを読めば分かるものである。つまり、書き出しの数ページを読んでみて、「意外だな」、「なぜなのかな」、「面白そうだな」、「役に立ちそうだな」などの言葉が出てくるような論文であれば、期待大の論文である。逆に書き出しの数ページを読んでみて、何とも感じないような論文はほとんど期待できない内容であることが多い(もちろん書くことになれていない学生の論文には例外も多いが)。

論文を書く上で行う作業、つまりいったん自分から離れて、第三者的な視点で、公の視点で、自分の考えや思いを客観的に問い直し、検証するという作業は、大学卒業後の生活(仕事、家庭など)でも見えない形でゼミ生を支援するはずである。その一つの例として「Aさん(♀)はなぜBさん(♂)と結婚したのか?」という問いに対して、現実主義、合理主義、社会構成主義などの知見に基づき試行錯誤しながら複数の仮説を探しだし、それぞれの仮説を模擬的に検証するという作業をゼミで行ったこともある。その際、打算(合理主義)による結婚のリスク、愛(社会構成主義)が「保険」の機能を果たし長期的には「生存」に有益であるという話をした。若さに満ちあふれた学生を前にしてやや浪漫に欠ける話であったが、それはともかくとして、学問を通じて身につけた能力は、いろいろな場面で本人が気づかないうちにその人を支えているのである。「学問は実社会では役に立たない」という言葉をよく耳にするが、それは学問を味う努力をしなかった人たちの戯言である。

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