経営史講義  第8回      平成16年11月26日

化学・石油産業企業の競争戦略と組織


化学産業企業の競争戦略と組織》

     デュポン家を中心に

)化学産業の発達

●第1期 (―1870年代まで)工業薬品(硫酸、塩酸、ソーダ)の比較的単純で大規模な生産の時代
18世紀―19世紀 化学産業は繊維産業とともに発達。イギリスの優位。とくに石鹸、爆薬の製造の分野。
1746年 J.Roebuckの鉛室法による硫酸製造発明
1791年 フランスのルブランNicholas Leblanc(1742-1806)がソーダ灰(Na2Co3)の製造方法を発明。しかし有毒の塩酸が発生。ソーダ灰は繊維産業にとって洗浄剤や水石鹸として需要増大。
1823年 イギリスのMusprattがルブラン法から出る塩酸を利用して塩素の製造法を開発。これが当時の繊維業界で大きな需要あり。(1870年の最盛期は年産15万トンの生産)
1856年 イギリス人のH.パーキンがアニリンの発明。染料に利用。(しかし染料工業はその後のドイツで発展。1870年代、ドイツでアゾ染料の登場。1897年、ドイツのバスフ社とヘキスト社がインジゴー合成染料―の発売)
1861年 ベルギー人のSolvayがアンモニアを利用して、重炭酸アンモニアを合成し、ソーダ灰の生産方法を開発
1861年 L.Mond(ドイツから移住者がイギリスでソルヴェイ法に基づいてアンモニアソーダの製造を開始。
1862年 ノーベル父子がダイナマイトを発明。黒色火薬にニトログリセリンを混合。(さらに1888年に綿火薬にニトログリセリンを混合)。
注。Alfred Nobel(1833―1896年)。スウェーデンの発明家、企業家。1888年に世界各地に15の火薬工場を経営。900万ドルの遺産でノーベル賞。

●第2期 (1870年だ代―1914年)多種多様で複雑かつ特化されたタール系(石炭)合成化学製品の時代
1880年代頃 イギリスの優位崩れる。ドイツに主導権(1888年 ドイツ人のグリースハイムがセメント隔膜を利用して食塩水の電解ソーダ工場を建設)
1890年代 電機化学の発達とともにアメリカが主導権争いに参加。
1899年 アメリカ人のH.Y.カストナー(Castner)が水銀式電解法を発明
20世紀初頭 F.Harberによるハーバー法を発明(窒素と水素との高温高圧による直接合成法)。1910年にドイツ人のボッシュが企業化。
●第3期 (1914年以降)合成化学製品の登場(合成アンモニア、合成ゴム、
プラスチック、レイヨン等)
1926年 イギリスの有力化学メーカー4社の合併によってICI社(Imperial Chemical Industries)成立。ブラナー・モンド社、ノーベル社、ユナイテッド・アルカリ社、ブリティッシュ・ダイスタッフ社の4社。これは1925年にドイツでIGファルベン社が成立したことに対する対抗手段。(多角化戦略や積極的な発展のための合併というよりも消極的なもの)
ドイツの化学産業の発達。20世紀に入って銀行資本を背景にタール工業の分野で独占企業が成立。化学技術の分野では産学協同が行われる。爆薬工業、カリ工業―肥料製造原料―などへ多角化を推進。(イギリスの企業は多角化に消極的)
BASF、ヘキスト、バイエル、アグファなどが成立。
1925年にはそれらの企業の大合併が起こり、IGファルベン社が成立。

2)デュポンの発展

デュポン家のモットー。社長は在職中に売上を2倍に。しかし利益第1、安全第1.「売上高が利益よりも高く評価されるようになれば、それは企業ではない。官僚制度である」。(社長、コープランド)。自己金融中心。研究開発重視。年間1億ドル以上の研究開発費。年間1千以上の新製品の試み。海外戦略の積極化。(21国以上に61以上の工場。全体の20%が海外工場従業員。売上高の20%が海外売上高)、1500人以上がデュポン家族と言われる。同族経営であるが、事業部制の採用など経営の近代化には先進的役割を果たす。

○第1期(創立―100年間)アメリカ最大の火薬会社に発展
1771年、フランスのパリでE.I.デュポン・ド・ヌムールの創業者,イレネー・デュポン誕生。父は国務参事官、商務長官などを歴任。1789年フランス革命起こる。1790年国民議会議長になる。その後父東国。1798年 デュポン・ド・ヌムール父子商会を設立。1799年アメリカに亡命。
1801年 デュポン火薬会社を設立。イレネー(30歳)で社長に就任。資本金3万6千ドル。フランス革命が世界に飛び火し、爆薬販売が飛躍的に伸びる。
1804年 社名をE.I.デュポン・ド・ヌムール会社とする。
1812年 米英戦争でデュポンは多量の火薬を納入し、アメリカの勝利に導く。
1834年 イレネー死去。デュポン社は完全にアメリカの会社になる。それまでフランスにも拠点。
1837年 イレネーの長男、アルフレッドが第2代目の社長となる。
1850年 アルフレッドの弟、ヘンリーが第3代目の社長となる。
その後、メキシコ戦争(1846年)、南北戦争(1861-65年)で大きな利益。
1872年火薬トラストを設立。GTA。
1879年 アメリカで消費される火薬の61%をデュポンが支配。
1889年 ユージン・デュポンが4代目の社長となる。
1898年の米西戦争で巨大な利益を上げる。4ケ月で220万ポンドの火薬を政府に納入。生産力は一挙に9倍にアップ。
1899年 株式会社E.I.デュポン・ド・ヌムール社がデラウェアー州で成立。これが今日のデュポン社の創立の年とされる。

○第2期(20世紀初頭から1920年代末まで)火薬専業メーカーから買収合併を通じて化学製品の多角化に進んだ時代
1902年 T.コールマン・デュポンが5代目の社長となる。本部をウイルミントンに移す。競争相手のラフリン・アンド・ランド社を買収し、アメリカ火薬産業を独占的位置。その後、さらに多くの企業を合併し、アメリカ火薬生産の64-74%を生産。
1907年 シャーマン反独占禁止法により告発。
1911年有罪の判決。デュポン、アトラス火薬、ハーキュリーズ火薬の3社に分割。
1914年 第1次世界大戦。各国に10億ドルを上回る火薬を販売。
1915年 ピェール・サミュエル・デュポンが6代目の社長になる。
1919年 第1次世界大戦の終了。デュポンの従業員は8万5600人から1万8000人に削減。経営危機。イレネー・デュポンが7代目の社長。
1920年 GMを買収し、ピェール・SがGMの社長を兼ねる。

3)多角化と組織の変革

1902年 社長の死を契機に経営危機。以後、吸収合併を積極的に展開。集権的職能部組織を生み出す。ラインースタッフ組織の導入。各主要部門には副社長を配置。
1908年 火薬以外に進出。(過剰設備、過剰人員の有効利用として)。1910年頃より人工皮革、人造絹糸、セルロイドなどの生産を開始。但し、1913年では、火薬以外の売上はわずか3%であった。
第1次世界大戦中は、爆薬生産に集中。しかし戦後の過剰設備は深刻なることを予測。その対策としては、一層の多角化。1917年の経営委員会は以下の5分野に多角化を推進することを最終決定。1.染料および関連有機化学製品 2.植物性油脂 3.ペイントおよびワニス 4.水溶性化学製品 5.セルロースおよび綿精製事業。 
組織的には、集権的職能部組織をとり、集権化をより一層強めることで対処。
1919年 中央集権化の強化。全社の業務活動を生産、販売、開発、財務の4つの職能別部門に分ける。それぞれ副社長が担当。
1920-21年 深刻な戦後不況。業績の悪化。小委員会の設置。問題の分析。製品系列による分析。大口販売―半製品、染料など。トン単位で販売。小口販売―小口包装製品。この分野でとくに損失が多きことが判明。投下資本利益率が15%以下。
☆勧告。職能よりも製品を組織の基礎にすること。二つの事業部門に分割することを提案。しかしこの勧告は採択されず。
1920年 大赤字。危機認識強まる。火薬部門いがいですべて赤字。改革案。1.集権的職能部制を事業部制へ。2.経営委員会から現業管理者を排除。客観的経営分析の必要性。従来は経営委員会は各部長によって構成されていた。

☆組織改革案。
・ 5つの製品事業部―各担当事業部長はそれぞれの事業部で全面的な権限と責任をもつ。ライン的活動を遂行し、購買、製造、販売などに責任をもった。経営委員会の権限にのみ従う。
・ 8つのスタッフ的補助部門―総務部、開発部、施設部、化学部など。コンサルタントとしての機能。会社および各事業部のためにスタッフ的なサービスを行う。経営委員会に責任を負う。
・ 財務部―若干のライン権限をもち続けた。
このデュポンの組織改革はその後GMの組織改革に直接的な影響を及ぼす。

○第3期(1928年―1960年代初めまで)研究開発による発展時代。合成ゴムのネオプレン(1931年)、ナイロン(1935年)などの発明。独占商品による高収益時代。

○第4期(1962年以降―)GM株保有違反判決。独占体制が揺らぎ始める。競争激化、利益率低下。内部統合を図る。海外進出を積極化。世界企業へ発展。

石油産業企業の競争戦略と組織》

  ロックフェラーを中心にして
ロックフェラーは如何にして成功したのか?-アメリカ石油産業の発展―

. 石油産業とは
・ 石油産業としての特徴。生産の自然独占、製品の戦略的重要性。
・ 製品特性。製品の多様性。原油からの完成品までの生産調整。
・ 産油地。第2次世界大戦前は、アメリカ、ロシア(1880年代)、メキシコ(1910年代)、ヴェネゼラ(1920年代)。第2次世界大戦後は中東へ。現在では中東が世界の原油生産の半分以上を生産。
・ 製品としては、灯油、潤滑油、アスファルト。20世紀に入ってからガソリン需要が急増。
・ 石油産業の主要事業部門。探索、原油採掘、生産、精製、輸送(鉄道、パイプライン、タンカーなど)
・ 石油産業の技術革新。

<石油の成分と精製>

                 沸点           内容比率
ガス(メタン,エタン)       −89c以下
LPG(プロパン、ブタン)    −42cから1c
ガソリン               35cから180c     12.0%
灯油                170cから250c      9.4%
軽油                240cから350c      7.0%
残油                350c以上

粘度による分類         重油             52.5%               
A 重油
B 重油
C 重油              硫黄分多い
                   ナフサ           15.2%
廃ガスの利用により石油化学へ

. ロックフェラーの登場
1859年にペンシルヴェニアでDrakeが噴出油田を発見し、商業化する。
1863年 ロックフェラーが石油精製業に参入。
1870年 ロックフェラーがStandard of Ohioを設立。資本金100万ドル。差別運賃の導入。輸送コストの削減。輸送コストは販売        価格の4分の1を占めていた。
1872年 南部時開発会社を設立。全国の製油能力の20%を支配。
同年、Petroleum Refiners’ Associationを結成。会長にロックフェラー就任
1873年 この頃、Standardとペンシルヴェニア鉄道との間で激しい競争。Standardはトランク・ラインを建設(鉄道の代替)。
1875年 ロックフェラーはCentral Refiners’ Associationを結成。
1876年 この頃までにStandardはPennsylvania鉄道に勝利。
1878年 Standardの集中運動完成
1879年 この頃のStandardの精製能力は全国の90-95%を占める。
70年代に入って販売部門へ進出、Pipe Lineを支配。生産業者をも支配下に置く)
1882年にStandard Oil Trustの結成。
1890年 Sherman(反トラスト)法成立
1892年 trustが違法とされる。
1911年 Sherman 法によりStandard Oil Trustの解体。

.世界の石油
○国際石油資本(Majors or Seven Sisters)
Standard Oil of New Jersey(Esso、1998年にMobileとの合併を発表)、Standard of New York(Mobile)、Standard Of California、Royal Dutch Shell、Gulf Oil(1984年にソーカルに吸収され、シェブロンに社名変更)、 Texaco(1902年にテキサスに設立、1936年サウジアラビアから利権を獲得、ロイヤル・ダッチ・シェルと提携)、British Petroleum(1998年に米大手石油会社アモコと合併)。→1990年代は「スーパー・メジャー」と呼ばれ、3強時代へ。
○Majorsの戦略。
@企業内におけるバランスの取れた統合企業
A輸出市場における国際カルテル
B販売政策―特約店制度の利用。

4. 石油危機
1973年、第1次石油ショック>。10月に第4次中東戦争勃発。この時アラブ諸国は石油戦略を発動。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油の減産・禁輸を行い、OPEC(石油輸出国機構)は原油価格を一挙に4倍に引き上げた。原油価格は1972年末の約5倍に値上がり、世界経済は大打撃を受ける。
<1979年2月、第2次石油ショック>。イラン革命。王政が崩壊。原油再び価格急騰。翌年、イラン・イラク戦争発生。両国の石油輸出がストップしたため石油価格は第2次ショック以前の2倍半に上昇。また金銀など商品相場も高値を付け、ドルは急落。  1980年代前半、世界的大不況。物価上昇→高金利→景気後退の悪循環に陥る。石油1バーレル=20ドル時代を迎え、西側各国は石油消費の抑制とエネルギー源の多様化を図り、コスト削減が徹底された。

5. ロックフェラーの成功の理由とエネルギー産業の未来
<ロックフェラー財閥>
 デュポン家、メロン家とならぶアメリカ三大財閥の一つで、石油産業(エクソン社などスタンダード系石油会社)を中心に、鉱山、化学、銀行(チェイス・マンハッタン銀行)など多岐にわたる事業を展開している。同時にロックフェラー財団を通じて、特に医学、農業など自然科学の分野における篤志活動を行っている。とりわけ1960年代の発展途上国の慢性的な食料不足の克服に貢献のあった新種の種子開発によるグリーン・レボリューション(緑の革命)は、財団の業績として評価が高い。石油事業で巨万の富を築いたJ.D.ロックフェラーは、鉄のカーネギー、自動車のフォードとともに、アメリカ資本主義の代名詞ともなっている。しかし、その強引ともいえる競争者の排除による石油独占体の形成に対して19世紀の悪徳資本家と糾弾する評価もある。こうした傾向は第2次大戦後薄らいだとはいえ、最近に至っても程度の差はあれ残っており、アメリカの<影の支配者>として一族を捉える見方もある。