きみはソーカル事件を知っているか?

堀 茂樹 (ほり しげき / フランス文化)

その1

平凡社『月刊百科』 1998年2月号 No.424、14-15頁より。

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本稿の執筆に取りかかろうとしている今、97年の年の瀬である。米国の思想界でアラ ン・ソーカルの「悪戯」が物議を醸してからそろそろ二年、フランスでソーカル教授 の本『知的ぺてん』 (Impostures intelectuelles) が刊行されてからでも、早くも 三ヶ月が経過しようとしている。それにもかかわらず、米英仏の論壇をあれほど騒が せているソーカル事件、わが日本では――もしかすると私が寡聞だというだけのこと かもしれないが――いっこうに話題にならない。論評はおろか、報道さえおこなわれ ない。なぜだろう? ニューヨークやパリの知的流行には聡いはずの「現代思想」フ リークたちは、本当にソーカル事件のことを知らないのか。それとも、知っていなが ら――党派的・戦術的に――黙殺しているのか。とにかく誰も何も言わないので、不 肖私がひと言、口出しすることにした。見下しておけばよい些事かどうか、以下、ご 判断願いたい。

米国では近年いわゆる「カルチュラル・スタディーズ」が隆盛であることはつとに知 られている。わが国にもどんどん浸透してきているこの知的流派を代表する人文科学 誌の一つに『ソーシャル・テキスト』というのがある。され、この『ソーシャル・テ キスト』の1996年春・夏号に、「境界線を侵犯すること――量子引力の変形解釈学へ 向けて――」という謎めいたタイトルの、長大かつ難解な寄稿論文が掲載された。内 容はというと、世間で大雑把にポスト・モダン思想と見做されている哲学者や精神分 析家の文献、とりわけカルチュラル・スタディーズを実践する米国知識人のあいだで 絶大なプレステージを有するフランス人現代思想家ラカン、ジル・ドゥルーズ、リオ タール等の文献からの引用をふんだんに散りばめつつ、自然科学の領域においてまで 客観的な外界や普遍的な真実の存在を否定し、認識論上のラディカルな相対主義を標 傍するものだった。曰く、「物理学的『現実』は社会的『現実』と同様に、基本的 に、言語学的・社会的構築物である」……。著者はアラン・ソーカル、ニューヨーク 大学の若き物理学教授であった。

ところが、ほんの数週間後、別の雑誌誌上でA・ソーカル本人が驚くべき告白をし た。『ソーシャル・テキスト』に受け入れられた彼の論文はカルチュラル・スタディ ーズ系の学者の言説のパロディであり、その中身たるや、物理を専攻する学生なら誰 でもすぐに指摘できるような数学・物理学上のでたらめの数々と、生半可な科学知識 からの短絡的一般化とをつなぎ合わせた粗雑なパッチワークにすぎない、と。つま り、彼は、大胆な「悪戯」によって、『ソーシャル・テキスト』のような先端的な大 学出版誌が、「断言調のかっこいいスタイルで書かれていさえすれば、そして『ウル トラ左翼』的なイデオロギーに迎合するものでありさえすれば」、無茶苦茶な「論 文」を掲載することを証明してみせたのだった。ただし、早合点をすべきではない。 このソーカル事件は、マイノリティーの視点を重視する多元文化主義的人文科学に対 して、保守主義的知識人がいささかルール違反の攻撃を仕掛けた、というようなもの ではない。A・ソーカルは、サンディニスト政権下のニカラグワに渡って国立大学で 数学を教えていたというほどの左翼知識人であり、自らフェミニストであるとも公言 している。彼はむしろ、米国の左翼がポストモダン的相対主義に誘惑されるあまり、 自らの思想的起源であるはずの「啓蒙」の精神を裏切っていると考え、そのことに苛 立ったからこそ、警鐘を鳴らすべく、意図的に「事件」を起こしたのだ。

しかし、思想に国境はない。啓蒙的理性の伝統に対するこの種の新たな「知識人の裏 切り」(J・バンダ)が最初に一般化したのは、奇しくも「啓蒙」の祖国フランスにお いてではなかったか。実際、A・ソーカルがパロディ論文に詰め込んだ数学・物理学上 のでたらめや短絡の大半は、フランスの名だたる現代思想家の著作からの正確かつ忠 実(!)な引用なのである。それならいったい、先に名を挙げた数人に加えて、クリス テヴァ、イリガライ、ボードリヤール、セール、ヴィリリオなお、米国同様わが国で も人気の高いこれらポスト構造主義時代の思想家たちは、生囓りの最新科学概念をひ けらかす衒学者なのか。彼らにそうした側面があることは否定できず、見逃すわけに いかないと考えるソーカル教授は、自らの起こした「事件」の波紋がヨーロッパにも 及んでいく中で、批判の戦線をフランスにまで拡大することにした。彼の立場に賛同 したベルギー人の理論物理学者ジャン・ブリックモンと共著の本『知的ぺてん』がパ リのオディール・ジャコブ社から世に出たのは、97年10月の初めだった。ただの告発 文書ではない。夥しい具体的事例を引き、予想される反論に備えて周到な布石を打っ た端倪すべからざる論争の書である。刊行と同時に、フランスの知識人界に激震が走 ったことはいうまでもない。

次回、その激震のありようを報告してみたい。


その2

平凡社『月刊百科』 1998年3月号 No.425、42-43頁より。


さて、米国人アラン・ソーカルとベルギー人ジャン・ブリックモン、この二人の物理 学者の共著の書『知的ぺてん』は、科学的な知を「叙述」に還元したり、「社会的構 築」物と見做したりする認識論上の相対主義を批判しつつ、米国で優勢なポスト・モ ダニズムの言説の中で格別の敬意をもって引用されることの多い哲学者たち――ほかで もない1960年代フランス思想の代表者たち――による数学・物理学概念の濫用がいか に目に余るものであるかを示そうとした本である。1997年10月にこれが世に出るやい なや、『ル・モンド』をはじめとする日刊紙、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥ ール』のような週刊誌、また知的レベルの非常に高いラジオ放送局〈フランス・キュ ルチュール〉などのメディアがこぞって大きく紹介し、論議の対象とした。12月初旬 にはインターネット上に、同書についてのサイトが約600も流れていたという。『知 的ぺてん』の内容は確かに衝撃的なのである。

なにしろ、ソーカル&ブリックモンによれば、J・ラカンは自然科学の概念を居丈高 に、つまりいささかの説明もなく人文科学の領域に密輸したのであり、ボードリヤー ルは最近でも、意味のないフレーズを意味ありげに弄んで「言葉遊びに耽っている」 らしい。都市学者P・ヴィリリオも、難解な数理物理用語をでたらめに使い、「うわ べだけの博識を誇っている」らしい。J・クリステヴァはといえば、近年はともかく 1970年代前半まで、一知半解の科学概念をまったく不適切に援用していたという。し かも、その類のいい加減さと知ったかぶりは、あのジル・ドゥルーズとフェリック ス・ガタリの場合もまったく同断であるらしい……。あるテクストが晦渋だからとい って、そこに深遠な知的内容が盛り込まれているとはかぎらない、王様は裸だ、とい うわけである。

私はここで一応「らしい」を連発した。しかし実をいえば、ソーカル&ブリックモン は問題の思想家たちのテクストを断片的にではなく、これでもかというくらいに長々 と引用しているし、そのうえで間然とするところのない論証を展開しているので、私 を含めて彼らの本の読者は、「らしい」などという留保を結局は外さざるを得ない。 その証拠に、『知的ぺてん』の出版後、この本を貶したり、見下したりした論評は数 多く現れたけれども、事実誤認を指摘したり、著者の分析に合理的な反論を加えたり した者は一人もいない。では。攻撃された本人やその信奉者たちは、どんな反撃をお こなっているのか。列挙してみよう。 (1) やり玉にあげられた思想家たちは科学概 念をメタファーで使っているのだから、それを額面どおり受け取って批判するのは見 当違いだ。 (2) 言説の枝葉末節を批判しても、思想の批判にはならない。 (3) 哲学 に対して「科学的に正しい」ことを求めるのは、思想の冒険を封殺する検閲行為だ。 (4) フランス人思想家ばかりを標的にする『知的ぺてん』は、米国の一部の知識人の 「保護主義」を反映するアンチ・フランスの書だ。ほぼ、以上に尽きる (なお、正々 堂々と立ち向かうかわりに「論じるに足らぬ」といわんばかりの言辞を吐き、無視を 決め込もうとするJ・デリダその他のやり方は反撃の名に値しまい)。

しかしいったい、このような反撃に説得力があるだろうか。 (1) ソーカル&ブリッ クモンは「メタファーへの権利」を哲学者から奪おうとしてはいない。彼らの批判対 象は、論旨を照らし出すどころか読者を煙に巻くこと以外に何の意味もない「メタフ ァー」に限定されている。 (2) ソーカル&ブリックモンは、それぞれの思想家の思 想全体に判断を下すことはしないと明言したうえで、数物理学概念の濫用だけを咎め ている。 (3) 「科学的に正しい」という要請を嫌うなら、最新科学用語による言説 の権威づけなどしなければよいのだし、そもそも権威主義的スタイルは思想上の大胆 さと何の関係もない。 (4) このナショナリスティックな反論はクリステヴァらが憶 面もなくおこなっているものだが、いたずらに論点を逸らそうとするものでしかな い。そもそもソーカル&ブリックモンが標的にしたのは、フランス現代思想を担う一 部の思想家にすぎない。サルトルにも、リクールにも、レヴィナスにも、さらにデリ ダにも、そして近年フランス思想を刷新しつつある若い世代の一群の知識人たちに も、彼らは何らクレームをつけてない。そのうえ、このたびの著作をこう締めくくっ ている。

思い出そうではないか。ずいぶん昔のとだが、ある国では、思想家や哲学者たちが 豊かな科学的教養に触発されて明晰に思考し、明快に書き (・・・・)、かつ得た知識を 同国市民のあいだに広めようとしていた (・・・・)。その時代は啓蒙の時代であり、 その国はフランスであった。 (強調筆者)

『知的ぺてん』は、アンチ・フランスなどというレッテルを貼りつけて押し退けるこ とのできるような本ではない。

むろん、ソーカル事件などメディアが騒いでいるだけだ、フランスの第一戦の哲学者 たちは問題にしていない、と言い放つ方々がいらっしゃるにちがいない。が、私は賭 けてもいいと思う。この本の影響は5年後、10年後、フランスでじわじわと表面化 し、到底無視できないものとなるだろう。あの国では、思想の闘いはそんなふうに展 開する。ソーカル事件の激震は、現代のフランス思想界の地下にまた一つ亀裂を作っ た。


初出年月日からわかるように、これは一年以上前に書いた記事であるが、 田崎晴明氏と黒木玄氏のお勧めがあって、田崎氏の web page をお借りして公開することにした。 近い内に、フランスでの論争のその後を――場合によっては日本におけるそれと対照 しつつ――報告することを考えている。
1999 年 3 月  堀 茂樹