in A House Built on Sand: Exposing Postmodernist Myths about Science, edited by Noretta Koertge (Oxford University Press, 1997)
(Original text: http://www.physics.nyu.edu/faculty/sokal/noretta.html )
Alan D. Sokal (April 8, 1997)
田崎 晴明 訳
Copyright: 1997 Oxford University Press.
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私がこの本を書いたのは、よく引用される古典ありのままの内容を正しく伝えるためだけではない。 私にとってのより大きなターゲットは、科学哲学の成果を身勝手に流用して、それらが到底あてはまらないような様々な社会的、政治的な主張の裏付けにするという試みを執拗にくり返す同時代の人々なのだ。 フェミニスト、(「創造説科学者」を含む)宗教の擁護者、カウンターカルチャリスト、新保守主義者、そして、その他諸々の物好きな同類たちは、たとえばパラダイムの通約不可能性や科学理論の非決定性といった考えが、彼らの立場を支持する重要な材料になると主張している。 事実と証拠こそが大切だという考えを捨てて、すべては結局のところ主観的な興味やものの見方に帰着してしまうという考えを取ることは、(アメリカの政治キャンペーンを除けば)今日もっとも顕著で危険な反知性主義の現れである。
--- Larry Laudan, Science and Relativism[1]
正直なところ、科学史、科学社会学、科学哲学についての批判的研究を集めたこの論文選集のイントロ的なエッセイを書くように頼まれて、さすがの私も少々とまどっている。 何と言おうと、私は、歴史家でも、社会学者でも、哲学者でもない。 私は、科学哲学に素人なりの興味をもっていて、 ひょっとするとものごとをきちんと考える技術を少しは身につけている一介の理論物理学者に過ぎないのだ。 ソーシャル・テクスト誌の共同創刊者のスタンリー・アロノヴィッツは、私のことを「半教養人の涜書家[2][訳注1]」と評したが、ああ哀しいかな、彼は完璧に正しかったのである。
読者もご存じだろうが、この分野への私の貢献は、一風変わった(そして、どう考えても制御の難しい)一つの実験から始まった。 私は「境界を侵犯すること --- 量子重力の変形解釈学に向けて」と題したポストモダンの科学批評のパロディーを書き、(もちろん編集者にはそれがパロディーだとは告げず)カルチュラル・スダディーズの雑誌ソーシャル・テクストに投稿したのだ。 ソーシャル・テクスト誌では、彼らのいう「サイエンス・ウォーズ」を特集した 1996 年春の特別号に、このパロディー論文を、まじめな学術論文として掲載した[3]。 その三週間後に、私はリンガ・フランカ誌に寄せた記事[4]で、このいたずらを暴露した。 かくして、どんちゃん騒ぎの幕が切って落とされたのだ[5]。
このエッセイでは、「ソーシャル・テクスト事件」から何がわかって、何がわからないかについての私の考えを簡単に議論したい。 だがその前に、私は自分の「縄張り」に社会学者が入ってくることを一切許さない傲慢な物理学者だという濡れ衣を着せられることのないように、私が科学の社会的研究から得られるだろうと思っているプラスの事柄をいくつか挙げておこう。 以下の点については、異論がないことを願っている。
1) 科学も人間の営みの一つであり、他の人間の営みと同じように、厳密な社会的分析を行う価値がある。 どのような研究テーマが大切だと考えられているのか、研究予算はどのように配分されているのか、誰が名声と権力を手に入れるのか、公共政策についての議論において科学の専門知識はどのような役割を果たすのか、科学知識はいかなる形で誰の利益のために科学技術として実現されるのか? これらすべての点は、科学の研究の内部での論理のみならず、政治的、経済的な、そしてある程度はイデオロギー的な要素に強く左右される。 これらの問題は、歴史学者、社会学者、政治科学者、経済学者による現実に即した研究の実り豊かな題材になるはずだ。
2) より微妙なレベルでは、どのような理論が発案され考察の対象にされ得るのか、競合する理論を比べるのにどのような基準を用いるべきなのかといった科学の論争の中身さえもが、部分的には、時代を支配する精神に縛られている。 そして、時代の精神というものは、部分的には、根深い歴史的な諸要因から生まれてくるものなのだ。 一つ一つの実例について、科学の発展の筋道が決まっていく段階で「外的な」要因と「内的な」要因が果たした役割を選り分けて吟味することは、科学史と科学社会学のテーマである。 このような問題を考えるとき、科学者は「内的な」要因を重視しがちで、社会学者は「外的な」要因を重視しがちになる。 科学者と社会学者が、お互いの考えをよく理解し合ってていないという理由だけからでも、そうなることは納得できるだろう。 しかし、こういった行き違いは、必ず合理的な論争によって解決を図ることができるはずだ。
3) 政治的な目標を実現するための研究も、その目標のために目がくらんで都合の悪い事実が見えなくなってしまうようなことがなければ、決して悪いものではない。 実際[6]、人類学風の疑似科学や優生学に対する反・人種差別主義の立場からの批判[7]や、心理学および医学と生物学の一部に対するフェミニストの立場からの批判[8]のような、科学への社会・政治的批判には、長く実りの多い歴史がある。 こういった批判は、一般に次のような決まった手順を踏んで行われる。 まず最初に、よい科学の満たすべき通常の基準に照らしたとき、問題にしている研究には欠点があることを、通常の科学的な議論によって示す。 それが終わった後で、というよりも、それが終わった後でのみ、もう一歩踏み込んで、その科学者たちが何らかの社会的な偏見(それは無意識のものかもしれない)をもっていたがために、よい科学の基準を破ることになってしまったことを説明しようとするのだ。 もちろん、そういった批判がうまくいくかどうかは、批判それ自身の真価から決まる。 よい政治的な意図をもっているからといって、よい科学、よい社会学、よい歴史学を生み出せるという保証はないのだ。 けれど、このような二段階のアプローチは、一般的にいって、正しいものだと私は思っている。 そして、現実に即したこのような研究を、十分な知的厳密さをもって行えば、どのような社会的条件のもとでよい科学(慣例に従って、この世界についての真実、あるいは近似的な真実の探究と定義することにしよう)の発展が助長され、あるいは阻害されるのかという問題に光をあてることができるはずだ[9]。
科学史や科学哲学の意義のある研究テーマが、これらの三点に尽きるなどというつもりはない。 けれど、これらが広範囲に及ぶ重要な研究分野だということは確かだろう。 それにも関わらず、この二十年ほどの間に、一部の社会学者や文芸理論家たちは、もっと欲張りになってきてしまった。 大まかにいってしまうと、彼らは、科学研究はこの世界についての真理や近似的真理の探究であるという大元の考えを攻撃したがっているのだ。 彼らは、科学は単なる社会的な営みの一つにすぎず、そこから産みだされる「物語」や「神話」は他の社会的な営みから産みだされるものに比べて特に正しいわけではないと考えたがっている。 一部の人々は、さらに踏み込んで、科学という社会的な営みには、ブルジョア的・西欧中心的、男性上位主義的な世界観が焼き付いていると主張しようとしている。 もちろん、短い要約の例にもれず、このようにまとめてしまうのは単純化のし過ぎではある。 いずれにせよ、「新しい」科学社会学をみたところで、明らかな指導原理があるわけではなく、いやになるほど多種多様な研究者がいて学派があるだけなのだ。 そして、もっと大切なこととしては、この分野の文献は、もっとも肝心な部分がどうしようもなく曖昧に書いてあることが多い(これは、後でラトゥールとバーンズ=ブルアの例でみることにしよう)ために、適切な要約をするのが難しくなっているという事情もある。 それでも、ほとんどの科学者や科学哲学者は、有名な社会学者ハリー・コリンズがいうように「科学知識の形成には、自然界はほとんど、あるいはまったく影響を及ぼさない[10]」ことや、ブルーノ・ラトゥールとスティーヴ・ウルガーのいうように「現実というものは」彼らのいう「事実の社会的構築」の「帰結であって、原因ではない[11]」ことを知れば、大いに驚くに違いない。
以上の前置きをした上で、「ソーシャル・テクスト事件」から(そもそも何かがわかるとして)何がわかるかを考えてみたい。 そして、私の熱心すぎる支持者が行き過ぎた主張をすることもあったので、この事件からは何がわからないかも考えたい。 このような分析をする際には、パロディー論文が出版されたという事実からわかることと、論文の内容からわかることを区別することが大切である。
パロディー論文が出版されたという事実だけからは、大したことはわからないと私は考えている。 それによって、カルチュラル・スタディーズ、あるいは、科学のカルチュラル・スタディーズという分野全体が無意味だとか、まして科学社会学に意味がないといったことが示されるわけではない。 また、これらの分野での知的水準が一般的にいって厳しさを欠くことが示されるわけでもない。 (実際にそうなのかもしれないが、それを示すためには別の根拠を持ち出さなくてはならない。) やや風変わりなたった一つの雑誌の編集者が、その知的な義務を怠ったことが示されるだけなのだ。 彼らは、単に(ソーシャル・テクスト誌の共同編集者ブルース・ロビンスが後に認めたように[12])「うまい具合に信用ある立場にいる味方」が書いたものであり、編集者たちのイデオロギー的な傾向にくすぐっていて、彼らの「敵」を攻撃しているというだけの理由で、自分たちには理解できないと認めている量子物理についての論文を、専門家の意見を一言も聞かずに、雑誌に掲載してしまったのである[13]。
だから、どうしたの[14]? これだけの話なら、そう尋ねたくなるのももっともだろう。
パロディー論文の内容を検討すれば、このもっともな疑問への答えが得られる。 ここでいっておきたいのだが、私の論文についての議論の中で、一つの重要な点が見落とされていることが多い。 そう。 この論文は滅茶苦茶におもしろい。 私は控えめな人ではないし、この作品には誇りをもっている。 けれども、この論文の一番笑えるところを書いたのは、私ではないのだ。 もっともおもしろいところは、ポストモダンの大家の文章のそのままの引用であり、私はそれらに嘘の賛辞を浴びせたのだ。 実のところ、この論文の骨格は、フランスやアメリカの名高い知識人が数学や物理(及び数学や物理に関する哲学)について書いたものの中で、私がみつけた限りでは、最高に馬鹿馬鹿しいものの引用でできあがっている。 私がやったのは、これらの引用を結びつけ褒め讃えるための無意味な議論をねつ造することだけだった。 もちろん、その際には、脱構築流の文芸理論、ニュー・サイエンス風エコロジー、いわゆる「フェミニスト認識論[15]」、極端に社会構築主義的な科学哲学、さらにはラカン流の精神分析などの流行の思想のでたらめなごった混ぜも並べ立ててみせたのだが、これによってパロディー論文はいっそう笑えるものになった。 場合によっては、私自身がより穏健で正確な形で信じている考えの極端で曖昧なバージョンをパロディーに使いもした。
では、私が「馬鹿馬鹿しい」というのは、正確にはどういうことだろうか? ごく大ざっぱに二つの範疇に分類してみよう。 一つ目は、無意味な主張や馬鹿げた意見、知ったかぶり、まがい物の教養をひけらかすことなどである。 二つ目は、ずさんなものの考え方(sloppy thinking)と薄っぺらい哲学で、これら二つが軽薄な相対主義の形をとって同時に現れることが(いつもではないが)実に多い。
もしも量子力学やゲーデルの定理について論じたてて恥をかいている文学部の助教授あたりだけを相手にしているのなら、この一つ目の範疇はさして重要ではないだろう。 けれども、大学の書籍部のカルチュラル・スタディーズのコーナーに占める割合で測る限りにおいては重要な知識人とみなされる人たちを相手にしている以上は、この点もはるかに大切になってくるのだ。 たとえば、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリはカオス理論について次のように書いている。
減速するということは、すべての速度が超えない限界(リミット)をカオスの中に置くということであり、しかも結果的に、横座標(アプシス)[外延量]として規定されるひとつの変数を諸速度が形成し、同時に、超えることのできない普遍的定数を限界(リミット)が形成するということである(たとえば、収縮の最大値)。 したがって、第一のファンクティヴは、限界(リミット)と変数であり、そして準拠は、変数のもろもろの値のあいだの関係、あるいはもっと深く見るなら、諸速度の横座標(アプシス)としての変数と限界(リミット)との関係である[16]。これだけではない。 ジャック・ラカンとリュス・イリガライは微分幾何学について、ジャン-フランソワ・リオタールは宇宙論について、そしてミッシェル・セールは非線型な時間について書いている。 けれど、これらは読者のお楽しみに残しておこう[17]。 (ところで、私のパロディー論文の中の引用がもとの文脈を外れたものではないかと思うなら、脚注の文献リストをたどって元の文献をみてご自分で判断していただきたい。 これらの引用は、もとの文脈においた方がよりひどくみえることがわかるはずだ。)
無意味な引用がすべてフランス産というわけではない。 アメリカでの科学のカルチュラル・スタディーズの流行に通じていれば、もっとたくさん吟味すべきねたをみつけることができると思う。
「よろしい」 とサイエンス・スタディーズの代表は反論するだろう。 「確かに英文学科の我々の友人の一部は、ラカンやドゥルーズを真剣に読んでいるかもしれない。 しかし、我々の世界にはそんな研究者はいないのだ」と。 確かにそうだろう。 では、Social Studies of Science(科学の社会的研究)誌に掲載されたブルーノ・ラトゥールの相対性理論の記号論的分析をみてみよう。 ラトゥールは「アインシュタインのテクストを代表の派遣に関する社会学への貢献として読む[18]」という。 どうしてそんな話になってしまうのだろう? アインシュタインの書いた相対性理論の解説書には、著者がある観測者をプラットホームの上に派遣して何らかの測定をしてもらい、また別の観測者を列車の中に派遣して何らかの測定をしてもらうという状況が何度もでてくるからなのだ。 そして、二人の観測者が頼まれた通りのことをしなければ、当然ながら、測定の結果はローレンツ変換には従わないからなのだ! 私が話をわざと茶化していると思うだろうか? ラトゥールは、アインシュタインの次のような点を強調している。
変形 (deformation) のない変換 (transformations) によって情報 (information) を送りたいという彼の強迫観念。 読みとった情報を正確に重ね合わせたいという彼の情熱。 遠くに派遣された観測者が、自分を裏切り、特権を維持して我々の知識の拡大に役立たないような報告を送ってくるのではないかと考えたときの彼の狼狽。 派遣する観測者たちを規律の下におき、彼らを時計の目盛りを読みとるだけの装置に従属した部品にしてしまおうという彼の欲望。・・・ [19]さらにラトゥールは物理において「座標系[訳注2]」という言葉が何を意味しているのかが理解できず、それを記号論の「行為者」と混同してしまった。 そのために、彼は、相対性理論では二つの座標系の間の変換を扱うことはできず、少なくとも三つの座標系が必要だと主張する。
もしも座標系が一つしか、あるいは、二つしかなければ、解決策はない。 ・・・ アインシュタインの解は、三人の人物=行為者を用いることである。 一人は列車の中にいて、一人は線路脇にいる。 そして、三人目は著者[発話者]ないしはその代理人で、あとの二人が送り返してきたコード化された観察結果を重ね合わせようとするのである[20]。これに加えて、ラトゥールは相対性理論では異なった観測者の(相対的な運動ではなく)相対的な位置に関する問題を扱うという考えをもってしまったようだ。 (もちろん、「観測者」という言い方そのものが誤解を生みやすいのだ。 これは相対論の説明のための方便であって、理論の構成要素ではない。) ラトゥールによる相対性理論の意味の総括をみておこう。
[特殊相対性理論と一般相対性理論という]二つの相対論を受け入れるなら、より多くのより特権性の低い座標系を利用すること、還元すること、集積すること、そして、組み合わせることが可能であり、観測者を無限大(宇宙)と無限小(電子)の中のもう少し多くの場所に派遣することができ、そして、彼らが送り返してきた情報は理解可能になる。 彼[アインシュタイン]の本のタイトルは、「長距離科学旅行者を呼び戻すための新しい手引き」としてもよかったのである[21]。この話に私がこれ以上深入りする必要はない。 この論文集に収められた論文で、ハス教授が相対論についてのラトゥールの混乱を詳しく冷静に分析している。 要するに、ラトゥールは、今日では優秀な大学の一年生がカリキュラムの一環として学んでいる理論に関して、四十ページにも及ぶ笑える間違いを書き並べ、Social Studies of Science 誌はそれを価値ある学術的貢献とみなしたということだ。
ナンセンスの実例は、もうこれで十分だろう。 (その気になれば、もっといくらでも例はあるけれど。) 知的な問題としてより大切なのは、サイエンス・スタディーズの多くの分野に蔓延しているずさんなものの考え方と軽薄な相対主義である。 (本格的な科学哲学者の間には、概して、そのような風潮はない。) こういう傾向の文献を詳しく読んでみると、意味が曖昧で、二つの異なった読み方ができるような見栄えのよい主張にしょっちゅう出くわす。 一つ目の読み方をすると、そういう主張は、おもしろく劇的だが、どうしようもなく間違っている。 二つ目の読み方をすると、そういう主張は、退屈で、まったく当たり前の理由で正しいのだ。
ここでもラトゥールから始めることにしよう。 ラトゥールの本「科学が作られているとき(Science in Action)」で、彼は科学社会学者のための七つの方法の規則を議論している。 第三の規則をみてみよう。
ある論争の解決は、自然の表現が得られる原因であって、その結果ではない。 よって、論争が如何にして如何なる理由で解決されたかを説明するために、 その帰結 --- 自然 --- を利用することは許されない[22]。ラトゥールは何の断りもなく、前半の「自然の表現」を後半では単なる「自然」にすり替えていることに注意したい。 仮に後半の「自然」も「自然の表現」に置き換えてこの文章を読み直せば、科学者による自然の表現(つまり科学の理論)は社会的なプロセスの結果として得られるものであり、その結果だけを使ってそのプロセスの詳細を説明することはできないという極めて当たり前の話になってしまう。 他方、後半での「自然」を文字どおりに受け取り、しかもそれが「帰結」という言葉と等置されていることを考えると、ここから人間の外の世界は科学者の話し合いによって作られたという主張が読みとれてしまう。 外の世界は人類が生まれる百億年ほど前から存在していたことを考えると、これは、どう大目に見ても、奇怪な主張である[23]。 さいごに、後半の「自然」を文字どおりに取り、かつその直前にある「帰結」という言葉を忘れることにすると、(a) 科学的な論争の推移や結果は外の世界の性質だけでは説明しきれない(何らかの社会的要因が介入するのは当然である。 少なくとも、その時点でどのような実験が技術的に可能かという問題があるし、他にもより微妙な社会的な影響もある)という弱く当たり前の主張か、(b) 外の世界の性質は、科学的な論争の推移や結果を左右するような役割は果たさないという強いが明らかに誤った主張が読みとれる[24]。
そこで、我々としても、ポストモダン的学術作品の解釈における第一の規則「如何なる言説もその記述するところを意味するものではない」を適用してみることにしよう。 そうすれば、ラトゥールの格言にも意味をもたせることができるかもしれない。 第三の方法の規則を、哲学的な原理としてではなく、科学社会学者のための方法論的な原理として読んでみよう。 より正確にいうと、実験や観察から得られたデータが本当に科学者たちが導いた結論を保証しているかどうか自分自身で独立に判断するだけの専門知識がない場合に、科学社会学者が用いる方法論として読むのである。 (こういう方法論は、現代科学を研究するときに特に役に立つ。 その場合には、研究対象となっている科学者社会以外に、独立に評価を行ってくれる別の科学者社会が存在しないからだ。 これに対して、遠い過去についての研究では、初期の実験よりも進んだ実験結果をはじめとして、その後に科学者たちが学んだことを社会学的な研究にも活かすことができる。) このような状況では、社会学者は「研究対象である科学者社会が X という結論に達したのは、X が実際にこの世界のあり方だからである」とは断言しづらいだろう。 たとえ本当に X が世界のあり方で、それこそが科学者たちが X を 信じた理由だったとしても、社会学者にとっては、 研究対象の科学者社会がそれを信じるようになったという事実以外に X が実際に世界のあり方だと信ずべき独立の根拠がないからである。 いうまでもないことだが、このような袋小路で下すべき賢明な結論は 一つしかない。 自分自身で科学の論争についての事実を評価する能力がないなら、信頼に足る独立した評価を与えてくれる別の科学者社会(たとえば後世の科学者社会)が存在しない限りは、科学の論争を社会学の研究の対象にすべきではないということだ。 ラトゥールや彼の同業者たちがこの結論を好ましくは思わないだろうことは言うまでもない。 スティーヴ・フラーの言葉を借りれば、彼らの目標は「研究対象の分野の専門家にならなくても、科学の『内的過程 (inner workings)』と『外的性格 (outer character)』の双方を見抜くことができる方法を用いること[25]」だからである。
ラトゥールの第三の方法の規則のような、サイエンス・スタディーズでのずさんなものの考え方には、本来区別されるべき複数の概念をいっしょくたに扱ってしまうという特徴があるように思う。 多くの場合、言葉の使い方を一方的に宣言することで、このようないっしょくたの扱いが実現されている。 古い言葉や成句を、意図的に極端に新しい意味に使うことによって、二つの意味を区別しようという道を完全にふさいでしまうのだ。 明らかに、論理では達成しきれないものを、定義によって達成しようとしているのである。 たとえば、よく耳にする「事実の社会的構築[26]」という言い方を用いることで、事実そのものと事実に関する知識の相違を意図的に黙殺しているのだ。 別の例を挙げると、哲学者は通常「知識」という言葉を「正当化された真である信念」や、それに似た意味で使っているのだが、バリー・バーンズとデヴィッド・ブルアは、「知識」を「集団的に受け入れられている任意の信念体系[27]」という意味に定義し直している。 おそらく、バーンズとブルアは、特定の信念が真であるとか合理的に正当化し得るかを調べることには興味がないのだろう[28]。 しかし、彼らが信念のそういった側面は自分たちの目標には関係がないと思うのなら、言葉の定義を変えて問題をややこしくするのではなく、その点をはっきりと表明し、その理由を説明すべきなのだ[29]。
より一般的にいって、サイエンス・スタディーズでずさんなものの考え方が現れるときには、以下に挙げる異なったレベルの問題の二つ以上をいっしょくたにしているように思える。
明らかに、これらの問題はお互いに関係している。 たとえば、もしこの世界についての客観的な真実というものが存在しないのなら、(ありもしない)真実をどうやって知るのかを考えることにはあまり意味はないだろう。 だが、概念的には、これらの問題は別個のものである。
たとえば、サンドラ・ハーディング[30]は(ポール・フォーマン[31]の論文を引用して)1940 年代と 1950 年代のアメリカでの量子エレクトロニクスの研究のかなりの部分が、軍事的な応用の可能性を動機にしていたことを指摘している。 ご説、ごもっとも。 ところで、量子力学によって固体物理学が可能になり、固体物理学によって(トランジスターをはじめとした)量子エレクトロニクスが可能になり、量子エレクトロニクスによって(コンピューターをはじめとした)現代の先端技術のほとんどが可能になった。 そして、コンピューターには、社会にとって有益な影響(たとえば、ポストモダンの文化批評家が論文を能率的に仕上げることができるようになったこと)もあれば、害のある影響(たとえば、アメリカ軍が人間をより能率的に殺傷できるようになったこと)もあった。 ここから、個人の倫理と社会の倫理についての一連の疑問が生じてくる。 社会は、コンピューターの特定の応用を禁止する(あるいは中止するように勧告する)べきか? コンピューターについての研究そのものを禁止する(あるいは中止するように勧告する)べきか? 量子エレクトロニクスについての研究を禁止する(あるいは中止するように勧告する)べきか? それとも、固体物理学か? いや、量子力学か? 科学者や技術者個人の姿勢に関しても、同じ問題がある。 (明らかに、この質問のリストの下に来るほど「禁止すべきだ」という回答に理屈をつけるのは難しくなる。 しかし、私は、これらの質問のどれについても、そもそも的外れな問いだとはいいたくない。) 同じように、社会学的な問題も生じてくる。 たとえば、計算機科学、量子エレクトロニクス、固体物理学、量子力学について我々がもっている(正しい)知識、そして、他の科学のテーマ(たとえば地球規模の気象現象)について我々が十分な知識をもっていないという事実は、どの程度まで軍事主義に偏った公共政策の選択の影響を受けているのだろうか? 計算機科学、量子エレクトロニクス、固体物理学、量子力学についての(そういうものがあるとして)間違った理論は、どの程度まで、社会的、経済的、政治的、文化的、イデオロギー的な要素、特に軍事主義的な文化に(全面的にしろ、部分的にしろ)影響されているのだろうか[32]? これらは、すべて重要な問題であり、もっとも厳密な科学的、歴史的な証拠に基づいて慎重に研究する必要がある。 けれども、これらの問題は、原子(あるいは、シリコン結晶やトランジスターやコンピューターが)が本当に量子力学(あるいは、固体物理学や量子エレクトロニクスや計算機科学)の法則に従うのかという大元の科学的な問題には微塵の影響も与えないのである。 アメリカの科学の軍事主義的な傾向は、存在論の問題にはこれっぽっちも関わってこないし、無茶苦茶ありそうもない筋書きを想定しない限りは、認識論の問題にも一切関わりはない。 (たとえば、世界中の固体物理学者が、科学的証拠についての正しい基準と彼らが信じるものに従って研究しつつも、半導体の性質に関するある理論がもたらすだろう軍事技術の革命に目を奪われたあまりに、実際には間違っているその理論を性急に受け入れてしまうといった筋書き。)
エディンバラ学派の「ストロング・プログラム」のような極端な社会構築主義と相対主義も、根本のところで、存在論と認識論と知識の社会学をきちんと区別しないという同じ誤りを犯していると私は考えている。 バーンズとブルアが、彼らが支持する相対主義の形態について説明した文章をみてみよう。
我々の等価仮定は、すべての信念は、それが信頼される原因に関しては互いに 等価であるということである。 すべての信念が同様に真であり、 あるいは同様に誤りであるというのではなく、 真偽によらず、 それが信頼されているという事実が等しく問題とみなされるべきである ということである。 すなわち、全ての信念の生成は例外なく経験的に探究されるのであり、 信じられているということの特定の、局所的な原因を見出すことによって 説明されなければならないということである。 このことが意味していることは、 社会学者がある信念を真であり、合理的であると評価するにせよ、 あるいは、偽であり、非合理であると評価するにせよ、 それが人々に信じられている原因を探さなければならない。 ・・・ こうした問題は、社会学者自身の規準でその信念がどう判断され、 評価されるかによらずに、答えることが出来るし、答えるべきである[33]。この引用から、そしてこの前の部分からも、バーンズとブルアが存在論的相対主義を唱えているのではないことは明らかに思える。 彼らは、「すべての信念が等しく真実だと宣言すると、互いに矛盾する信念があったときにどう対処すべきかという問題に直面する」ことを認め、さらに「すべての信念は等しく真実でないと宣言すれば、相対主義者のその言明そのものの位置づけが問題になる」とも書いているのだ[34]。 彼らは、全ての信念は同様に信頼でき同様に合理的だとする認識論的相対主義を唱えているのかもしれない。 彼らが、(たとえば modus ponens[訳注3]のような)もっとも基本的な演繹的な推論の規則までをも攻撃している[35]のをみると、この解釈ももっともに思える。 しかし、彼らは科学社会学者のためのある種の方法論的相対主義を唱えていると考える方がもっともらしいだろう。 問題なのは、これがどのような方法論的相対主義かということだ。
我々にとって正しかろうが誤っていようが、合理的だろうが非合理的だろうが、すべての信念の原因を説明するのに同じ社会学と心理学の方法を使わなくてはならないというだけのことならば、私としても特に異論はない。 (人間の信念はすべて社会科学によって因果的に説明できるはずだという超科学主義的な態度は受け入れがたいが。) しかし、ただ社会的な要因だけがそのような説明に必要で、実際の世界のあり方が介入しないというのなら、私には絶対に賛成することはできない[36]。
具体的な例を考えてみよう。 ヨーロッパの科学界が 1700 年と 1750 年の間にニュートン力学が正しいことを受け入れたのは何故だろう? この説明のためには、様々な歴史的な、社会学的な、イデオロギー的な、そして政治的な要因を考慮しなくてはならないことは間違いない。 たとえば、ニュートン力学はイギリスでは素早く受け入れられたのに、フランスで受け入れられるには時間がかかったのは何故かといったことも説明しなくてはならない[37]。 しかし、説明の一部(しかも、かなり重要な部分)は、惑星や彗星が現実にニュートン力学の予言に(完璧にではないが、非常に高い精度で)従って運動するという事実から来ていることは確実である[38]。 また別の例をとれば、ヨーロッパと北米の科学界での主流の考え方が、今世紀の間に、創造説からダーウィニズムに移っていったのはなぜだろうか? これを説明するときにも、様々な歴史的、社会学的、イデオロギー的、政治的な要素を考える必要があるだろう。 しかし、化石の記録やガラパゴス諸島の生態に一切触れずに、この考えの変化をきちんと説明することができるというのだろうか?
万が一話のポイントが伝わっていないときのために、もっと卑近な例を考えよう。 中で象の群れが暴走しているぞと大声で叫びながら講堂の中から慌てて走り出してきた人に出くわしたとしよう。 これを聞いてどう対処するか、特にこの主張の「原因」をどう評価するかは、実際に部屋の中で象の群れが暴走しているか否かに大きく依存するのは明らかだと思う。 いや、我々が外界と直接には接触できない以上、正確には、我々が他の人たちといっしょに(おそるおそる!)部屋を覗いたときに、象の群れが見えるか、群れが暴走している音は聞こえるか、あるいは、群れが部屋を出る前にあたりを破壊した痕跡がみつかるか否かというべきだろう。 そのような象の群れの証拠が見つかれば、一連の状況のもっとも確からしい説明は、実際に部屋の中では象の群れが暴走しており(あるいは、していたのであり)、先ほどの人はそれを見たか聞いたかしたために恐れおののいて(同じ状況では、我々も恐れおののくべきなのだが)叫びながら部屋から逃げ出し、その叫びを我々が聞いたということになるだろう。 それなら、あわてて警察と動物園に電話をしなくてはならない。 反対に、我々の観察の結果、講堂の中に象の群れの痕跡がみつからなければ、もっとも確からしい説明は、実際は部屋の中には象の群れはいなかったのであって、この人は(自発的な、あるいは、薬物による)精神異常のために象がいると妄想し、その妄想が原因で叫びながら部屋を飛び出してきて、その叫びを我々が聞いたということになる。 それなら、警察と精神病院に電話をかけるべきだ[39]。 バーンズとブルアも、社会学者や哲学者の読む雑誌にどんなことを書いていたとしても、実生活では同じことをするのではないだろうか。
もっとも肝心なのは、私には、科学の認識論と日常生活での認識論の間に根本的な「形而上学的な」差があるとは思えないということだ。 歴史学者も、探偵も、配管工も、というよりもすべての人間が、物理学者や生化学者と同じように、帰納、演繹、データの評価といった基本的な方法を使っているのだ。 現代の科学では、これらの手続きを注意深くかつ系統的に実践するために、条件の制御やデータの統計処理などの手法を用い、実験の再現性を重視するのである。 だが、決してそれ以上のものではない[40]。 科学哲学にせよ、社会学の方法論にしろ、日常生活での認識の問題にあてはめたときこれほどまでに間違っているものは、その核心でひどく誤っているのだ。
結論としては、「ストロング・プログラム」は、ラトゥールの第三の方法の規則と同様、その主旨からして曖昧なのである。 曖昧な部分を如何に解釈するかに応じて、「すべての信念には原因がある」といった素朴な心理学や社会学の考え方への正しくそれなりに興味深い修正と読むこともできるし、あるいは、野蛮で乱暴な間違いと読むこともできるのだ。
キッチャー教授は、この論文集への寄稿の最後に、「この論文を気に入ってくれる人はいないだろう。というのも、私はここで中立の立場を貫こうとしているからだ。」と書いている。 この点に関しては、キッチャー教授は悲観的に過ぎる。 少なくとも一人は例外がいる。 私は彼の論文が気に入った。 というよりも、私は彼の論文に書いてあることほとんど全てに賛成である。
これは、傲慢な科学者なのかもしれないこの私も、「中立の立場」をとる数少ない選ばれし者の一人だというだけのことなのかもしれない。 しかし、この論争では、一見して思うよりも多くの人が実際には「中立の立場」をとっているのではないかと私は感じている。 もちろん、その内容を考えず、抽象的に(それが何であれ)「中立の立場」という立場そのものを押し進めていこうなどといっているのではない。 それは、知的怠慢というものだ[41]。 けれども、キッチャーの論文にあるような中立の立場、つまり、「実在論・合理主義グループ」と「社会・政治グループ」の双方を尊重しつつ、個々の例においては、どちらがより重要かを必要に応じて議論するという態度は、極めて賢明である。 このような立場には、ほとんど全ての科学者[42]と科学哲学者が賛成するだろうし、(全てのというわけにはいかないのは明らかだが)ほとんどの科学社会学者も賛成するだろう。 こう考えてくると、いわゆる「サイエンス・ウォーズ」 --- 私は、これはひどいネーミングだと思っているのだが --- についても、今一度じっくりと考え直してみたくなるだろう。
「サイエンス・ウォーズ」という言葉を最初に使ったのは、ソーシャル・テクストの共同編集者のアンドリュー・ロスのようだ。 「サイエンス・ウォーズこそ、聖なるカルチャー・ウォーズにおける自軍の勝利に 勢いを得た保守派がしかけた第二の闘いである。 大衆の信頼の失墜と、公共の財源からの資金援助低下の言い逃れを求めて、保守的な科学者たちが(新たなる)社会の敵 --- 左翼、フェミニスト、マルチカルチャリスト --- に対する反動的攻撃(バックラッシュ)に加勢したのだ[43]。」というのが、ロスの説明である。 このような見方は、その後、今や有名になったソーシャル・テクストの特集号でさらに煮詰められている[44]。 けれど、あの殺伐とした「カルチャー・ウォーズ」のときとちょうど同じように、現実はこのマニ教的な闘いの図式が描いてみせるよりもずっとこみ入っている。 認識論的な見解と政治的な見解の間には一対一の対応関係があるかのように主張されているが、これは全くひどい誤解だといわざるを得ない[45]。 この論争には二つの立場しかないという考えについても同じ事がいえる。
このように、論争を戦闘にみたててしまったことが、実はソーシャル・テクストの編集者が私のパロディーにひっかかってしまった最大の理由なのかもしれない。 真理を求める知識人としてではなく、「サイエンス・ウォーズ」の闘いに志願した将軍としてふるまったために、彼らは「本物の」科学者を自らの「陣営」に迎えるというチャンスに飛びついてしまったのだ。 ソーシャル・テクストの編集者たちは、自分たちの失敗を後悔しながら、トロイの人々にさぞや親近感を抱いていることだろう。
しかし、軍事的な比喩を用いるのは間違いなのだ。 ソーシャル・テクストの編集者たちは私の敵ではない。 ロスは、新しい科学技術と、科学の専門知識がますます不平等に配分されるようになったことについて、極めて正しい懸念を抱いている。 アロノヴィッツは、技術の発展がもたらす失業と「職のない未来」について重要な問題提起をしている[46]。 しかし、ロスには申し訳ないが、客観的な科学知識の存在を否定してみたところで、何一つ得られるものはないのだ。 好むと好まざると、客観的な知識は存在する。 政治的に進歩派であるなら、科学知識がより民主的に分かち合われ、社会の役に立つ目的のために使われるような道を模索すべきなのだ。 実際、極端に偏った認識論的な立場からの批判ばかりを行っていると、事実に基づいて議論するという道を閉ざしてしまうことになり、本当に必要な政治的な批判を致命的に無力にしてしまうのだ。 考えてみれば、核兵器が我々みんなにとって脅威である唯一の理由は、そのもとになっている原子核物理が、少なくとも非常に高い精度で、客観的に正しいということなのだ[47]。
サイエンス・スタディーズが、認識論をもてあそぶことだけに慢心してしまうと、科学や科学技術のもつ社会的、経済的、政治的な役割を解明するというサイエンス・スタディーズの本来の目的を忘れてしまうことになる。 もちろん、このようになってしまったのは、偶然ではないだろう。 その過程を、社会学的に研究することもできるはずだ[48]。 しかし、サイエンス・スタディーズに携わる人々が誤った認識論にこだわり続けなければならないという法はない。 そんな認識論は捨てて、科学を研究するという真摯な目標に向かうことができるはずだ。 おそらく、これから数年後に振り返ってみれば、今日いわれている「サイエンス・ウォーズ」がそのような方向転換の時期だったということになるだろう。
田崎晴明 (e-mail:hal.tasaki@gakushuin.ac.jp)