くりこみ理論の地平

大野克嗣、 田崎 晴明、 東島 清

数理科学 1997 年 4 月号

池にたつ波

静かな池のほとりに立って,池の真ん中あたりに小石を一つ投げ入れてみよう. ぼちゃんという音とともに水面が乱れ,輪の形をした波が平らだった水面を外に 向かって広がっていく.波の輪が大きくなり,やがて我々の立っている岸辺に近 づく頃,輪はどのような形をしているだろうか?力学で学んだ方法論に従うとす ると,小石が水面に落ちたときに作り出す乱れ(初期条件)を求め,そこから水 面波の方程式に基づいて時間発展を計算し大きな波の輪の形を求めることになる だろう.

しかし,経験でも知っているように,大きく成長した波の輪はほぼ完璧な円形を している.この形は投げ入れた小石の形状,大きさ,あるいは水に落ちたときの 小石の運動の状態には左右されない.大きさ 2 cm の丸い小石を投げ入れたとき も,大きさ 10 cm の角張った石を投げ入れたときも,ほぼ同じ時間の後にほぼ同 じ円形の波の輪を見ることができる.ここには,「大きく成長した波の輪の形は, 初期の水面の乱れの詳細には依存しない」というユニバーサリティ(universality,普遍性)がある.

このような事情を考えれば,初期の乱れを特定してから時間発展を求めるという 方法はあまり賢明とはいえない.最終的な答えが初期条件には(ほとんど)依存 しないのに,わざわざ初期条件を特定するのは,ある意味で徒労である.実際問 題としても,小石がどのように水面に落下したかを精度よく知るのは極めて困難 だ.それよりも,どんな小石をどんな風に投げ入れたかを特定せずに、池の端近 くまでやってきた波の輪の形がどうあるべきかが議論できないだろうか?少し一 般化した言い方をすれば,ミクロなスケールでの系の詳細(小石と,それが作り 出す初期の乱れ)にとらわれずに,マクロなスケールでの現象(大きく成長した 波の輪の形)のユニバーサリティを直接に理解することはできないだろうか?

単純化していうと,「くりこみ」とは,そのような理解を可能にするためのもの の見方のことだ [注:波の輪の形の普遍性は素朴な次元解析と水面 の一様等方性だけで理解できるので,あえて「くりこみ」を持ち出す必要はない.「くりこ み」の威力を示すためではなく,「くりこみ」の考え方をはっきりさせるための 例と思っていただきたい.] .そして,「くりこみ」 というものの見方は,我々の科学の根本的なあり方,さらには我々が世界を認識 する方法にさえ深く関わっているのである.

「くりこみ」というものの見方

「くりこみ」,あるいは「くりこみ群」ということばが何を意味するのかを正確 に説明するのは簡単なことではないし,物理学におけるこれらのことばの用法が 一貫しているわけでもない.それでも,少なくとも我々が,「くりこみ」,「く りこみ群」ということばで何を意味したいかは,はっきりさせておきたい.

いうまでもなく,「くりこみ」は,「真空管」や「ブラックホール」のような具 体的な物理系の名前ではない.「くりこみ」は,「放電現象」や「相転移」のよ うに物理現象を指すことばでもない.「くりこみ理論」という用法から,「くり こみ」が理論物理に関わるものだということはわかる.しかし,「くりこみ」は, 「量子色力学」や「超伝導の BCS 理論」のように特定の現象を理解するための特 定の理論を指すのでもない.だからといって,「摂動論」や「グリーン関数の方 法」のように様々な問題に応用できる具体的な理論的手法をいうのでもない.

「くりこみ」とは,物理における一つのものの見方,さらに広く言えば,我々が 世界を認識する基本的な姿勢を表す言葉である.「くりこみ」がもっとも威力を 発揮するのは,広い範囲のスケール(距離のスケール,エネルギーのスケール, 時間のスケールなど)の自由度が本質的に干渉しあっているような系を調べたい ときである.

ある系において小さなスケールから大きなスケールまでが干渉しあっているとど ういうことが生じるだろうか? 我々は大きなスケールを観測しているものとしよ う.小さなスケールは少し大きなスケールと干渉し,それはさらにもう少し大き なスケールに干渉し,そしてさらに・・・,という具合に干渉の鎖が我々が直接 観測する大きなスケールまで繋がっている.ここで、小さなスケールで起こって いることを少しだけ変えてみよう.その効果が我々の観測することにはほとんど 響かない場合もあるだろうが [注:池の波の例は,観測するスケールが大きければ大 きいほど効果がなくなる場合である.] ,そういときはスケール間の干渉は本質的ではなかったと言える.

干渉が本質的ならば,小さなスケールを少しだけ変えた効果は無視できないどころか,大きなスケールで起こることを徹底 的に変えてしまうだろう.こんなときは、普通の摂動論は役に たたない.なぜなら,小さなスケールで起こったことを少しだけ変えた効果は, その隣のやや大きなスケールの所では大した悪さはしないかも知れないが,次々 とスケールの梯子を登っていく間に増幅されていくからだ.そうすると,大きな スケールと小さなスケールがかけ離れているとき(こんなとき連続極限がとりた くなる),小さなスケールで起こっていることを少しだけ変えた効果は,我々の 観測するスケールでは非常に大きくなってしまうだろう.(大きなスケールと小 さなスケールの隔たりを無限に大きくした連続極限では,この効果は発散してし まうかもしれない.) 小さなスケールで起こっていることの詳細など我々の関知するところで はないから、これは観測結果の再現性がなくなるということを意味しかねない.

一つの系を繰り返し観測するだけではなく,条件を少しずつ変えた系や,同じ仲間に属するが異なった一連の系を観測するといった状況も多いだろう. これは,先ほどまでの言い方にあてはめると,小さなスケールで起きることを少なからず変えることに相当する. スケール間に本質的な干渉があれば,大きなスケールで起きることは,救いようもなく変わってしまうはずだ.

しかし,スケール間の強い干渉があるからといって,常にあらゆる意味での再現性や法則性が失われてしまうわけではない. たとえば,流体というのは,分子のスケールから我々の観測するスケールまでの干渉がかなり大きな系である. 確かに,異なった分子からなる各種の流体のふるまいというのは,定量的にはかなり異なっていて,上で述べた再現性の欠如を裏付けている. だが,流体の巨視的なスケールでのふるまいは,流体を構成する分子の種類にはよらず, Navier-Stokes 方程式と呼ばれる一つの方程式できれいに記述できる. 小さなスケールでの詳細(たとえば流体分子の種類)を変えてやると,Navier-Stokes 方程式そのものは形を変えず,方程式の調節パラメタ(粘性と密度)の値が激しく変化する. 言ってみれば,大きなスケールでの観測結果が,小さなスケールでの変化には影響されないユニバーサルな関係(つまり Navier-Stokes 方程式)と, 小さなスケール [注:より一般には観測スケールからかけ離れたスケール.こ こでスケールは長さとは限らず,時間でも何でもいい.] に極めて敏感に依存する部分(調節パラメタの値)に截然と分離できたというわけである [注:臨界現象についての知識のある読者は,臨界指数のユニバーサリティを思い浮かべてもよい. 強磁性体の磁化率は,相転移点付近 で $\chi(T)\simeq A(T-T_{\rm c})^{-\gamma}$ のように発散する. このとき,臨界温度 $T_{\rm c}$ や係数 $A$ は系の詳細に応じて目まぐるしく値を変えるが,臨界指数 $\gamma$ は次元などだけから決まるユニバーサルな値を取る. ]

一般に,このような分離を行って,観測するスケールにおけるユニバーサルな関係を抽出 することを「くりこみ」という.このとき,観測するスケール以外の自由度たち を,忘れてしまおうというのではないし,近似的に無視しようというのでもない. それらの影響は,注目している自由度のふるまいの中に「くりこんで」やろうというのである [注: これが,「くりこみ」とい う語の含意であると考えたい. 「くりこみ」と いう言葉を最初に導入した人たちにそういう認識があったとは思えないのではあるが.]

「くりこみ」の手続きが遂行できる場合,その系はくりこみ可能であるという [注: 場の量子論では,「くりこみ(不)可能」という言葉を,「摂動的に くりこみ(不)可能」というかなり限定された意味で用いているので,注意が必 要である.] .このとき、再現性よく取り分けられた観測するスケールでのユニバーサルな関係は,スケール間の絡み合いを無視した場合とは一般に定性的にち がっている.(だからこそ摂動がうまく行かないのである.)

こんなプログラムが本当にうまく行くのだろうか? 再現性のない実験やいろいろと違っ た物質についての実験から,調節パラメタをいじるだけでユニバーサルな関係が引き出せるなどとは話がうますぎるではないか.しかし,世の中はしばしばそ うなっているようなのだ [注: 大野は,以下の論点をもう少しきちんと書いて 日本物理学会誌に発表する予定である.] .この世界は非線形だから大きなスケー ル,小さなスケールみんな絡み合っていて,もしもここに書いたような「旨い話」 がないとすると,我々のスケールでは我々に認知できるようなパターンはなくなっ てしまうであろう.(つまり、原子分子の世界の恐ろしいノイズがすべてを洗い 流してしまう.)しかし,我々の生きている世界には認識するに足る法則性が存 在する.その証拠が,我々の脳という維持費のかかる器官である.脳を持つこと が生きていく上で有利な世界でのみ我々知性を持った生物が存在できる(進化で きる).とすれば,この世界に我々が存在することこそが,この世にくりこみ可 能な諸現象ないし系が存在することの印だと考えられるのではないだろうか.こ れが,「旨い話」が実際にこの世で起こることの「人間原理的な」説明である.

世界がわかったような気分になるということは,その再現性のよい部分がわかる ということであろう.したがって,くりこみ可能な現象はわれわれに理解できる 可能性がある現象である.逆に,本質的に「くりこみ不可能」な問題というもの があったとすれば,それは我々には決して理解し得ないのかもしれない [注: どんな難問でも,計算機が発達しさえすれば,数値計算で解けてしまうの ではないかと思うかも知れない. 計算機実験が我々の見ることのできる世界を広げてくれるのは事実だが,単に計算機で現象を再現,発生させ, それを眺めて(言葉による)説明を補っているだけでは,物理についての真の理解は 深まらない.物理学のいくつかの分野では,計算機実験が主流となる余り, 人々の思考停止が蔓延しつつあるという危機感を覚える. ]

「くりこみ群」という方法論

前節の説明だけでは,「くりこみ」は絵に描いた餅に過ぎない.幅広いスケール に及ぶ自由度を正確に取り扱いつつ,しかも注目する自由度だけを記述する理論 を作るなどという都合のいいことが本当に可能なのだろうか?

確かに,「くりこみ」をきちんと実行するのは,とても難しいことである.数多 い物理の難問の中で,「くりこみ」がきちんと遂行されている例はほんの一握り に過ぎない.

「くりこみ」が成功している例の多くでは,「くりこみ群」という方法論を用い て「くりこみ」の手続きを実行している [注: 多くの応用例では,「くりこみ群」はスケール変換半群のパラメタ空間(あるいはより広くモデル空間)上での表現なので,「群」という言葉は正確ではない. いずれにせよ,「くりこみ群」の最大の特徴は群,半群といった代数的な構造ではなく,モデル空間上での力学系を考察するという大局的な視点にある. ] .「くりこみ群」の方法を,ことばを用 いて一般的に説明するのは難しい [注:特に,場の量子論的なくりこみ群と, 統計力学的なくりこみ群では,方法論に微妙な差がある.ある種の状況では,両 者の関係は明確に分かっているが,未だに全てがはっきりしているわけではない. ] .具体的には,この特集の中の記事を手がかりに模索していただくことにして, ここでは,極めて大ざっぱなアイディアを述べよう.

前節に述べたように,小さなスケールで起こったことが我々のスケール目指して つぎつぎと相互作用の梯子を登ってくることによって生じるものすごく大きな効 果を,それにもろに振り回される部分を隔離することで,我々の観測する世界の 法則的な側面(ユニバーサルな諸関係)を確保するのが「くりこみ」の戦略であっ た.どんな風に梯子を登ってくるか眺めている方が、上に登ってきたのを見て初 めてびっくりするよりよいに決まっている.梯子に沿って小さなスケールの効果 の増幅のされ方を眺めて,くりこみを実行しようというのが,くりこみ群のアイ デアである.つまり,「くりこみ群」による解析では,ものを見るスケールを少 し変えたときに(梯子を一刻みだけ登ったときに),目立ってくる効果を探し、 その結果物理がどのように変わって見えるかに注目する.伝統的なスケール変換 と違う所は、非線形的にスケールが絡み合ったために生じる効果を見ていて,単 なる線形なスケーリングを見ているのではない点と,また,通常のスケール変換 が一回の変換で事足りるのとは違い,「くりこみ群」の解析では,スケール変換 を(梯子の一刻みごとに)幾度も,場合によっては無限に繰り返して適用する点 だろう.

簡単で当然ながら不完全な歴史

「くりこみ」,あるいは「くりこみ群」のように,本質的なものの見方について は,その歴史を完全かつ公平に述べるのは困難である.本質的には,「くりこみ」 や「くりこみ群」に相当する視点を持っていても,これらの用語を用いていない ために,見落とされている業績は少なくないに違いない.以下では,我々の限れ た知見の範囲で,「くりこみ」の発展に寄与したいくつかの重要な仕事について 簡単に触れる.

「くりこみ」ということばと「くりこみ」的な解析法が初めて使われたのは,1940 年代の量子電磁力学 (Quantum Electrodynamics = QED) の摂動的な定式化において だろう(Bethe,Tomonaga, Schwinger, Feynman, Dyson).たとえば,二つの電子の間に 働く力を決定するためには,電子の間の量子化された電磁場,そして,対消滅,対 発生を繰り返す無数の(仮想)電子,(仮想)陽電子たちの効果を取り入れなく てはならない.ここでは,限りなく小さなスケールに及ぶ無数の自由度の絡み合 いの結果として,注目するスケール(二つの電子の間の距離)での物理現象が決 まってくることになる.我々の観察する電子の電荷や質量といったパラメターを もとに,電子の間の力を記述するためには,「くりこみ」的な手法が是非とも必 要である.

量子電磁力学の最初の定式化の頃には「くりこみ群」的な発想法は発展しておら ず,「くりこみ」の手続きには困難な計算が必要だった.また,この時代には, 「くりこみ」の持つ意味が正確には理解されず,「『くりこみ』とは,無限から 無限をひいて有限の答えを無理矢理に出す形式的な計算方法である」という観点 が支配的だったようである.もちろん,場の量子論における「くりこみ」の美し い数学的構造が明らかになった今日から見れば,このような批判は的外れであっ た [注:にも関わらず,未だに同様の主旨の記述が随所に散見されるのは残念 なことである.場の量子論の「くりこみ」に数学的な問題がないわけではないが, それは「無限引く無限は定義できない」といった稚拙なレベルの問題ではない. ]

その後,量子電磁力学を含む場の量子論についての精力的な研究の中で,場の量 子論における(摂動的な)「くりこみ群」のアイディアが発展し (St\"{u}ckelberg, Petermann, Gell-Man, Low, Bogoliubov, Shirkov, Callan, Symanzik, Weinberg, Wilson, t'Hooft),従来の「く りこみ」の手続きをはるかに見通しよく遂行できるようになった.「くりこみ群」 は場の量子論の研究での標準的な方法として定着し,多くの新しい結果を導く手 助けになった.非可換ゲージ 理論での漸近的自由性の発見は,特筆すべき成果の一つであろう. さらに,次に述べる統計力学での「くりこみ群」の発展と相まって, それまでの摂動的くりこみ理論を越えた大局的な場の量子論の描像 [注: たとえば,江沢洋他 「くりこみ群の方法」,岩波講座・現代の物理学 13 の第 4 章を見よ. ] が得られらた (Wilson, Polchinski). それに伴って,非摂動論的な「くりこみ群」の応用を目指す動きも盛んになったが,本質的な進 歩はまだ得られていない.

「くりこみ群」にいたる別の流れとして,物性論,統計力学における二次相転移 の研究がある. ある種の物質では,相転移がおきる際に,相関距離 [注: 物質 の構成要素がどれくらい遠くまで情報をやりとりしているかの指標.たとえば磁 性体の結晶などでは,相関距離は通常は原子間距離の数倍といったオーダーであ るが,相転移点の近傍でははるかに長くなる.] が非常に長くなり,多くの物理 量が特異性を示すという臨界現象が見られる.臨界現象の最も驚くべき特徴は, マクロなスケールでの臨界現象の様々な側面は,物質の詳細には依存しないとい うユニバーサリティである.

臨界現象のユニバーサリティについての理解は,スケーリングというアイディア (Widom, Kadanoff)が,「くりこみ」,「くりこみ群」と結びつくことで飛躍的 に発展した(Wilson, Jona-Lasinio, Coniglio, Patashinsky, Polyakov, Pokrovsky ).場の 量子論 の形式を取り入れる事で,(限られた状況においてではあるが)臨界指数(臨界 現象を特徴づけるユニバーサルな量)を定量的に評価する方法が得られたことは,この 分野における衝撃的な発展であった(Wilson, Fisher, Zinn-Justin, Brezin). 「くりこみ群」は,相転移と臨界現象を研究するための標準的な方法になり,多 彩な現象を解明,整理するのに大いに役立った [注: この分野への入門書としては, M. Le Bellac, ``Quantum and Statistical Field Theory'' (Oxford, 1991) がある. N. Goldenfeld ``Lectures on Phase Transitions and the Renormalization Group'' (Addison Wesley, 1992) も物理を生き生き と伝える入門書である.ただし,数学的な記述にはかなり不正確なところが多い. J. Cardy ``Scaling and Renormalization in Statistical Physics'' (Cambridge, 1996) は様々な問題を効率よく扱っている点で魅力的だが,とにかく計算して答えが でればよいという態度が鼻につく. 日本語で書かれたものとしては,前注の文献の第 3 章. ]

力学系におけるカオスへの転移点に見られる自己相似性(Feigenbaum現象)はく りこみ理論的に理解された(Feigenbaum, Lanford)が,本質が平衡統計力学の臨界 現象そのものであるから自然である.通常「くりこみ群」との関連で議論される ことは少ないが,195,60年代に得られた力学系における KAM の定理のKolmogorov による発想もその証明も,本質的には「くりこみ群」的な方法が用いられている.

高分子の性質についての統計力学的な理論においても,「くりこみ群」は大きな 成功を収めた(de Gennes, des Cloizeaux).長く,曲がりやすいひもである高分子 の理論的な取り扱いにおいて,高分子が自分自身と交わることができないという 効果を正確に取り入れるのは従来の手法の限界を超えた難問だった.高分子の問 題に即した「くりこみ群」を発展させることで,この効果を取り入れ,実験を定 量的に再現する理論が展開された [注: たとえば,J. des Cloizeaux and G. Jannink,``Polymer in Solution, Their Modelling and Structure'' (Oxford, 1990) を見よ. ] (太田).

固体物理の分野では,近藤問題への応用が有名であろう. また,非相対論的な多電子系の量子力学を,「く りこみ群」の言葉で,整備,発展させようという試みがある [注: 入門的なレビューとしては, R. Shankar, Rev. Mod. Phys. {\bf 66} 129 (1994) があるが, 論理の厳密さには(物理の基準からしても)かなり問題がある. ] .これが成功すれば, 固体電子論が統一的に見通しよく(また数学的により厳密に)展開されることに なると期待されるが,現段階で満足のいく結果が得られているのは,主として一 次元系の問題である.また,一次元の準周期ポテンシャル中のシュレディンガー 方程式の問題は,準結晶の物理との関連で重要なだけではなく,「くりこみ群」 を介して固体物理が非線形問題と接するという意味でも興味深い [注: M. Kohmoto, Int.J.Mod.Phys. B {\bf 1}, 31 (1987) ]

比較的新しい発展としては,「くりこみ群」が,常微分方程式や偏微分方程式に おける漸近解析に応用できることが指摘されたことが挙げられる.これによって, 従来は各論的な技巧に頼っていた漸近解析を,統一的に見通しよく展開すること が可能になりつつある.

くりこみが出来そうでなかなか旨く行かないのは,乱流と一次相転移の動力学(ス ピノーダル分解など)である.これらでは,物理像はくりこみ的であることが極 めてもっともらしく示されるけれど,それを使って定量的結果を出すにはどうし たらよいのかわかっていない.

「くりこみ群」の多様化

こうして,「くりこみ群」の方法を用いることで,物理学のいくつかの分野でもっ とも難しいと考えられてきた問題のいくつかが(少なくとも部分的には)解決さ れた.具体的には触れなかったが,いくつかの問題では,「くりこみ群」の方法 を徹底的に精密化することで,数学的に厳密な結果も証明されている.「くりこみ群」は,現代の理論物理学に おいてもっとも洗練された方法と考えられるようになった.それとともに,「く りこみ群」は既に完成された理論的な手法であるという誤解も生まれた.

物理学の様々な分野の問題に「くりこみ群」を適用する試みが行われた結果, 「くりこみ群」を扱った論文の数は膨大なものになった.その反面,「くりこみ 群」を単なる計算の技法ととらえて皮相的に用いた研究が数多く現れることにな る [注: 一般的に言えることだが,次から次へと膨大な数の論文がでてくると いうのは,「大衆化」が生じて学問のレベルが低下していることの現れであるこ とが多い. もちろん,質の低い論文の山の中に埋もれた宝石を見逃さない注意は必要なのだろうが. ] .取り扱っている物理についての深い考察なしに,成功した例を無 謀に他の系に焼き直したり,「くりこみ群」の解析がスムーズに進むように根拠 のない強引な近似を行ったりすれば,結局はご都合主義的で信頼性の低い近似理 論しか得られない.また,本質的には(少なくとも我々の考える意味では)「く りこみ群」とは無縁の計算方法でも,表面的に類似したアイディアを用いている ということで「くりこみ群」という名で呼ばれるものも少なくなかった.このよ うな多様化の結果として,「くりこみ群」というのは計算すればとにかく答えは でてくるものの,必ずしも信頼できない妖しげな手法であるという印象さえも生 まれてくることになった.

「くりこみ群」は完成された理論的な手法であるという見方も,「くりこみ群」 は信頼できないという意見も,「くりこみ群」あるいはもっと広く「くりこみ」 の本質を理解しないために生じた誤解に過ぎない.「くりこみ」や「くりこみ群」 は,どんな問題にもそのままあてはめれば答えが出てくるというパッケージ化さ れた理論の手法ではない.「くりこみ」は,我々が物理を見る基本的な姿勢を示 唆し,「くりこみ群」は問題にアプローチするための基本的な方法論を与えてく れる.個々の例で具体的にどのような理論を展開すべきかについては,問題に即 して深く深く考え直さなくてはならない.それはもちろん困難な道だが,困難な 道を進むからこそおもしろいのであり,本当の発展に結びつく可能性があるのだ.

そういう意味で,いかに多くの論文が書かれたとはいえ,「くりこみ」と「くり こみ群」の持っている可能性はまだまだ汲み尽くされてはいないはずだ.本当に 真摯な試みを続ければ,これらのものの見方,方法論は,科学の可能性を広げ, 人類をより賢くすることに貢献するものと信じたい.

再び,池にたつ波

この解説の冒頭で,池の波は,波の方程式で表されるだろうと書いた. その意味をもう一度考えてみたい.

池は水という流体の集まりで, 池の水面より上は空気という流体で満たされている.波の方程式は,水と空気の 界面の形状と運動についての方程式である.界面のふるまいに関心を限定する際 に,流体の動きの微妙なところは忘れられているのだから,波の方程式は近似的 な方程式,あるいは「現象論的な」方程式であるといってよい.波についての本 当に「正確な」知識が欲しければ,近似した「現象論的な」波の方程式を用いる よりは,近似のない水や空気についての流体力学の方程式を用いる方がよさそうだ.

しかし,流体力学とて近似的な記述に過ぎない.「正確さ」にこだわるならば, 流体を構成する分子,原子,電子,原子核,クォーク・・・とよりミクロな,よ り「正確な」記述を考えることができる.池の中での核反応と相対論的効果に目 をつぶることにすれば,池とその回りの空気を構成する全ての原子核と電子につ いてのシュレディンガー方程式は,池の波についての極めて「正確な」記述を与 えてくれるはずだ.仮に(到底不可能だが)この方程式が解析できたとすると, 池とその周辺でおきることのほとんど全て---水中でまれにおこる化学反応,水の 分子が池の表面から蒸発する過程,水の中に生じる乱流などなど---についての情報が 手に入る.その膨大な情報の中から,(極めて複雑な操作によって)水と空気の 境界部分の挙動についての情報を抽出すれば,池の波の動きがわかるはずだ.こ れによって,我々の波についての理解はより「正確に」なるだろうか?経験が教 えているのは,巨大な方程式系の解として得られる(はずの)波のふるまいは,「現象論的 な」波の方程式で十分正確に記述されるということに他ならない.話はいささか 極端だが,「正確な」モデルを追求することは,少なくとも波のふるまいを理解 するためには純粋な徒労だということは明らかだろう.

池の波の話からは,もう一つ重要な教訓を読みとることができる.これまでは, 池を満たしているのは水だとしてきた.しかし,たとえば油が貯まってできた池 とか,どろどろに解けた溶岩の池といったものだってある.異なった組成の池を ミクロに記述するためには,異なったミクロな理論を用いる必要がある.ところ が,小石を投げ入れた際に現れる波の様子は,池を満たしているのが何であって も,基本的には変わらない [注: 波の伝搬速度などの「現象論的パラメタ」 は変わってくる.] .我々は,池を構成している流体 についての正確な知識がなくても,波について理解することはできるのである.

以上で明らかなように,「『正確な』ミクロな理論があり,その『近似』として 『現象論』はある」という素朴な科学観には何かが欠けている.ここまで読み進 んでこられた読者には おわかりのように,それは,「くりこみ」というものの見方であり,ユニバーサリティという概念である.本当に優れた「現象論」は,単なる近似ではない. 系のミクロな詳細を「くりこみ」,これらの詳細には依存しないユニバーサルな構造を抽出して記述するのが本当の「現象論」なのである [注: 大野は, 「現象論」という用語をこのような意味で用いてきたが,これは物理における一 般的な用法とはかなりニュアンスが異なっているだろう. くりこみを待って初めて現象論のなんたるかがわかったのではなかろうか?] .油 や溶岩の池が示唆しているように,ユニバーサルな構造は特定のミクロな理 論から導かれると考える必要はない.真にユニバーサルな構造は,多様なミ クロな理論を背後に持ち得るし [注: 正しくは,ユニバーサルな構造は, 別のスケールでの様々なユニバーサルな構造と「くりこみ」によって論理的 に結びついているというべきだろう.] ,さらに踏み込んで言えば,ミクロな理 論を離れてそれ自身で意味を持ち得るのである.共通のユニバーサルな構造 を持つ系の集まりを,ユニバーサリティクラスと呼んでいる.ある現象を「理解 する」というのは,その現象を記述できるようなちょうど適切なスケールでの ユニバーサルな構造とユニバーサリティクラスを見いだすことに他ならない. 必要以上にミクロな理論を用いることは,煩雑なだけではなく,ことの本質から 遠ざかることになる.

ミクロな理論を考えてはならないといっているのではない.今,まさに解明しよ うとしている物理が何であるかによって,着目すべきユニバーサルな構造は変わっ てくる.池の中で発生する乱流に興味があれば,流体力学の方程式で記述される ユニバーサルな構造を相手にすればよい.池の中に住む微生物たちの個体数の分 布に興味があれば,生態学的に記述されるユニバーサルな構造を探すことになる. あるいは,流体力学の方程式そのものの存在理由に関心があれば,(たとえば) 古典力学的に集団運動する分子の集団というユニバーサルな構造から,「く りこみ」によって,流体力学という別のスケールでのユニバーサルな構造を導こ うと試みるだろう.池の前にたたずむ人は,全ての時空の基本的な構造に思いを 馳せているかもしれない.そのときには,その人は量子重力やひも理論で記述さ れるべきユニバーサルな構造とそれらの間の関係を模索しているであろう.

基礎科学は幾世代にもわたる観察,実験,思索の末に様々な ユニバーサルな構造とユニバーサリティク ラスを見いだしてきた.それらは,究極には「理性的理解の可能な現象の全体」 という大きなユニバーサリティクラスの中に位置づけられる事になるはずだ. この壮大なユニバーサリティクラスの中では,多種多様のユニバーサリティクラスが複雑な入れ子構造をなし,「ユニバーサリティクラスの網の目」とでもたとえるべき精妙な構造を形成しているに違いない. そこでは,「くりこみ」は,異なったレベルのユニバーサリティクラスの間の往来を許し,それらに論理的な関係をつけるという,いわば「網の目」を織りなす「糸」の役割を果たしているであろう.

我々の認識する世界を「ユニバーサリティクラスの網の目」として捉え,その壮大にして精妙な構造を読みとっていく試みは,未だ始まったばかりといってよいだろう. 新しい「くりこみ」を発見することによって,この「網の目」の新しい「糸」が見いだされ,我々は新しいユニバーサリティクラスとそれを特徴づけるユニバーサルな構造を 見ることができるようになる. そいういうとき,科学が進歩し,人類は少 しだけ賢くなるのではないだろうか.

このささやかな特集によって,科学(否,人間の文化)という構築物の中で「く りこみ」が果たしている,そして果たすべき役割の全てを伝えることは到底不可 能である.物理学のいくつかの分野における「くりこみ」の実際の姿に接し,ま たそれぞれの著者の「くりこみ」についての思いに耳を傾けることが,読者なりの「くり こみ」を軸にした科学,世界の見方を形作る端緒になれば,この特集に携わった 我々にとっては望外の喜びである.

この解説に貴重なコメントをくださった服部哲弥氏に感謝したい.


Last modified: March 13, 1997

田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ

hal.tasaki@gakushuin.ac.jp