校庭開放中の事故
法学科4年 桐生 亜紀
1.事実の概要
Xは、弟、甥とともに、Xの長男(当時5歳10か月)を連れて、Yの設置する中学校に赴き、弟、甥と校庭内のテニスコートでテニスに興じていた。Xの長男はその間、球拾いをしたり、校庭を走り回るなどして遊んでいたが、Xらがテニスをしていたコートのネットの横、サイドラインの約1メートル外側に置かれていた本件審判台に昇り、その座席部分の背当てを構成している左右の鉄パイプを両手で握って審判台の後部から降りようとしたため、本件審判台が後方に倒れ、Xの長男はそのまま仰向けに倒れて審判台の下敷きとなった。その際、Xらが直ちに病院に運んで手当てを受けさせたが、脳挫傷により死亡した。Xらは,Yに対し、本件事故が本件審判台の設置及び管理の瑕疵に起因したと主張し、国家賠償法2条1項に基づき損害賠償を請求した。
(国家賠償法2条1項:道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があったために他人に損害を生じたときは、国又は公共団体は、これを賠償する責めに任ずる。)
2.事故の背景
(1) 本件審判台について
本件審判台は、地上から座席までの高さが約1.4メートル、背当ての最上部までの高さが約1.8メートル、重量が約24キログラムで、鉄パイプとL字型鋼によって鉄骨が作られ、座席部分に木製の版を渡したもので、その前面に昇降用の階段を配して傾斜がつけられているが、後部の支柱はほぼ垂直の形状をしていた。
本件審判台が設置されてから本件事故が発生するまでの20年余の間、人身事故が発生したことは一度もなく、その間、本件審判台が倒れたことは一度あったが、それは生徒がふざけて後方に引っ張ったためである。
(2) 本件審判台の置かれていた校庭について
当該中学校の校庭は、土の地面で、本件審判台が置かれていた付近には多少の凹凸が存したが、土の校庭に通常存し得る程度のものにすぎず、本件審判台を所定の位置に置いた場合に、後方に向かって幾分低く傾斜していたことがうかがわれないでもないが、本件審判台の転倒を誘発するようなものではなかった。
(3) 中学校の校庭の利用状況について
当該中学校の校庭と外部とは、一部が柵などによって仕切られているのみで、一般人の出入りを妨げる門扉などは設けられておらず、また、かつて小学校が併設されていた関係上、校庭内に滑り台、ブランコ、雲梯などが設置されていたことから、近所の子供らや家族連れなどの遊び場して利用されていた。
3.第一審(仙台地判昭和59年9月18日)
テニスの審判台の設置管理に瑕疵があると判断し、Yの責任を認め、Xらの請求を一部認容した。
・
本件審判台は本来の用法に従って使用される限り転倒の危険を有するとは言えないが、営造物が通常有すべき安全性とは、本来の用法に限定されるものではなく、設置管理者が通常予測しうる用法まで含むべきものである。
・
高い所に上りたがる子供の好奇心、冒険心に鑑みれば、子供の遊ぶような場所にテニスの審判台が設置されている場合には、子供がこれに上る等して遊ぶことも十分予測し得る。
・
本件審判台は他のものと比較すると安定性にやや劣る。
・
本件校庭は公共の遊び場となっていて、学校側もこれを十分に認識していた。
⇒Yは子供が審判台に上って遊ぶことを予測できたにもかかわらず、故意によらなければ転倒しない程度に安定したものを設置するか、使用時以外は片付けるなど適切な措置を講じなかった、設置管理に瑕疵がある。
・ Xらもテニスに熱中していたため、Xの長男の行動につき監視・監督を怠り、保護監督上の過失があった。
⇒損害の7割を過失相殺として減じる。
4.第二審(仙台高判昭和60年11月20日)
第一審判決支持。
・ 本件審判台は通常の使用方法にによる場合であっても後方に転倒する危険性は他種のものより大きかった。
・ 幼児が審判席の背当て部分の鉄パイプをジャングルジムのように用いるなどの行動に出、その結果安定性に乏しい本件審判台が後部に倒れるおそれがあり、その素材や重量のため死傷事故を惹起する可能性のあることは、通常予想しうるところであった。
⇒Yの設置管理の瑕疵を認めた(過失相殺は第一審と同じ)。
5.上告理由
原判決は国家賠償法2条1項の解釈を誤り、同法に違背するもので、この違背が判決に影響を及ぼすことは明らかである。
・ 本件のように審判台が倒れることなく幼児が単に審判台から転落した場合には、原判決がいうように、設置管理者において審判台を地面に固定させても、他の審判台と交換しても、設置管理者は国家賠償法2条1項の責任を免れないことになる。
・
テニスの審判台は、常にテニスコートにおける所定の場所に設置され、不使用時に片付けたりはしないのが通常の取り扱いであり、原判決は通常行われていない審判台の管理を中学校の管理者に要求するものといわなければならない。
・
危険防止の為にいかなる設備等をなすべきかは、およそ想像しうるあらゆる危険の発生を防止しうべき事を基準とするのではなく、具体的に通常予想されうる危険の発生を防止するに足ると認められる程度のものを必要とし、かつこれをもって足るものというべきである。
原判決は最高裁昭和53年7月4日判決に違反するものである。
《最判昭和53年7月4日の概要》
昭和44年8月4日神戸市内の市道で一方が崖下になっているところの道路脇に設けられた防護柵の上に乗って遊んでいた満6歳の男子が誤って崖下に落ち、頭蓋骨骨折の重傷を負った。被害者の親は、市道の管理者である神戸市を被告とし、この事故の原因は市道の設置又は管理に瑕疵があったためであると主張して国家賠償法2条1項の損害賠償を請求した。
↓
最高裁は、国家賠償法2条1項にいう営造物の設置・管理の瑕疵は、当該営造物の構造、用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を個別具体的に判断すべきであるとし、本件防護柵は、通行時における転落防止の目的からすればその安全性に欠けるところがなく、本件事故は6歳の幼児の本件道路及び防護柵の設置管理者において通常予測することのできない行動に起因するもので、右営造物につき本来それが有すべき安全性に欠けるところがあったとはいえず、通常の用法に即しない行動の結果生じた事故であり、設置管理者は責任を負うべき理由がない、と判示した。
・ 最判は本件と同様幼児による営造物の通常の用法に即しない行動の結果生じた事故に関するものであり、設置管理者の責任を否定している。
・ 最判は「本件道路付近は、住宅地で昼間車両の通行量が少なく、付近に適当な遊び場所がないため、本件道路が子供らの遊び場所となっており、親は転落の危険をおそれて子供に本件防護柵で遊ばないように注意を与えていた」との認定を是認しつつ、幼児が「防護柵の上段手すりに後ろ向きに腰掛けて遊ぶうちに誤って転落した」行動を設置管理者において通常予測することのできない行動と判断している。最判における幼児の行動と本件における幼児の行動を比較した場合、本件行動の方が予測困難であることは明白である。
・ 最判では通常の用法に即しない行動の結果生じた事故について、国家賠償法2条1項の営造物責任を認めるには、通常予測することのできる行動に起因するもので、以前に同様事故の発生があったとか、危険防止措置の申し入れがなされていた等具体的で明白な予測の存することが必要であると解されている。
6.最高裁判所(平成5年3月30日第三小法廷)
破棄自判。
本件審判台には、本来の用法に従って使用する限り転倒の危険がなく、幼児の行動が当該審判台の設置管理者の通常予測し得ない異常なものであったときには、設置管理者は右事故につき国家賠償法2条1項所定の損害賠償責任を負わない。
・ 本件審判台は後部の支柱はほぼ垂直の形状をしていたが、本件審判台が設置されてから本件事故が発生するまでの20年余の間、人身事故が発生したことは一度もなく、本件審判台は、本来の用法に従って利用する限り、転倒の危険を有する構造のものではなかった。
・ 営造物が通常有すべき安全性を欠くか否かの判断は、当該営造物の構造、本来の用法、場所的環境及び利用状況等諸般の事情を総合考慮して、具体的、個別的に判断すべきである。一般にテニスの審判台は、審判者がコートより高い位置から競技を見守るための設備であり、座席への昇り降りは、そのために設けられた階段によるべきであり、審判台の通常有すべき安全性の有無は、この本来の用法に従った使用を前提とした上で、何らかの危険発生の可能性があるか否かによって決せられるべきものである。
・ 公立中学校の校庭が開放されて一般の利用に供されている場合、幼児を含む一般市民の校庭内における安全につき、校庭内の設備等の設置管理者に全面的に責任があるとするのは当を得ないことであり、幼児がいかなる行動に出ても不測の結果が生じないようにせよというのは、設置管理者に不可能を強いるものといわなければならず、これをあまりに強調するとすれば、かえって校庭は一般市民に対してまったく閉ざされ、都会地においては幼児は危険な路上で遊ぶことを余儀なくされる結果ともなりうる。
・ 本来の用法に従えば安全である営造物について、これを設置管理者の通常予測し得ない異常な方法で使用しないという注意義務は、利用者である一般市民の側が追うのが当然であり、幼児について、異常な行動に出ることがないようにさせる注意義務は、もとより、第一次的にその保護者にあるといわなければならない。
⇒本件事故時のXの長男の行動は、審判台の後部から降りるという極めて異常なもので、本件審判台の本来の用法と異なることはもちろん、設置管理者の通常予測し得ないものであったといわなければならない。幼児が異常な行動に出ることのないようにしつけるのは、保護者の側の義務である。本件事故は、Xらの主張と異なり、本件審判台の安全性の欠如に起因するものではなく、幼児の異常な行動に原因があったものといわなければならず、このような場合にまで、YがXらに対して国家賠償法2条1項所定の責任を負ういわれはない。
《本判決の構造》
◎
公の営造物の設置管理者は、当該営造物が本来の用法に従って安全であるべきことについて責任を負い、それを持って限度とする。
◎
例外的に本来の用法を基準として、設置管理者が利用者の本来の用法に則さない利用を通常予測できる場合であれば、設置管理者は責任を負う。
↓本件の事実に当てはめると…
◎
本件審判台は、本来の用法に従って使用する限り、転倒の危険はない。
⇒設置管理者には責任はない。
◎
幼児の本件事故に至った行動は、審判台の本来の用法に鑑みても、設置管理者の通常予測し得ないものであった。
⇒例外にも該当しないため、設置管理者には責任はないことになる。
7.判例の流れ
<営造物の「設置管理の瑕疵」の意義に関するリーディングケース>
@「高知落石事件(最判昭和45年8月20日)」
営造物の設置管理の瑕疵とは、「営造物が通常有すべき安全性を欠いていること」をいい、これに基づく国及び地方公共団体の賠償責任については、その過失の存在を必要としない。
A「防護柵転落事件(最判昭和53年7月4日)」
営造物が通常有すべき安全性を欠くか否かの判断は、当該営造物の構造、用法、場所的環境、利用状況等諸般の事情を総合考慮して具体的個別的に判断すべきである。
<その後の裁判実務……上記@Aの枠組みを踏襲している>
B1歳7か月の幼女が用水溝に転落して水死した事故につき、用水路の管理の瑕疵を否定した(最判昭和53年12月22日)
C6歳の男児が防護柵及びパラペット(余裕高)を乗り越えて堆積土から河川に転落水死した事故につき、営造物の設置管理の瑕疵を認めなかった(最判昭和55年7月17日)
D軽自動車が埋立地の岸壁道路から海へ転落した事故につき、道路の管理の瑕疵を認めた(最判昭和55年9月11日)
E3歳7か月の幼女が児童公園に隣接した学校プールの回りの1.8メートルの金網フェンスを乗り越えてプールに転落した事故につき、プール設置管理の瑕疵を認めた(最判昭和56年7月16日)
F9歳の小学生がザリガニ取りをしていて大阪城の石垣から足を滑らせて堀に落ちて溺死した事故で、外堀の管理保存の瑕疵によるものではないとした(最判昭和58年10月18日)
G4歳9か月の男児が防護網によじ登って遊んでいて貯水槽に転落して溺死した事故につき、貯水槽の設置管理に瑕疵がないとした(昭和60年3月12日)
H酒に酔った男性が河川敷への転落防止のために設置されている防護柵の鉄パイプに腰掛けようとして誤って転落、荒湯桶で火傷を負い死亡した事故につき、設置管理者の責任を否定した(最判昭和63年1月21日)
⇒@ABCFGHはいずれも被害者の通常予測することのできない行動によるものとして、設置管理者の責任を否定している。
⇒DEについては、被害者の行動は通常の予測の範囲を超えるものではないとして、設置管理者の責任を肯定している。
営造物の本来の用法に即しない行動の結果事故が生じた場合、その営造物として本来の機能に欠けるところがなく、事故が営造物の設置管理者において通常予測できない行動に起因するときには、営造物の設置・管理について瑕疵があるとはいえない、との判断準則は今日の確固たる判例理論であるといえる。
8.本判決について
最高裁は、被害者の通常の用法に則さない利用方法について、ほとんどの場合設置管理者の通常の予測の範囲を超えているとし、その責任を否定しているが、その前提としては、本判決が判示するように「本来の用法に従えば安全である営造物について、これを設置管理者の通常予測し得ない異常な方法で使用しないという注意義務は、利用者である一般市民が負うのが当然であり、幼児について、異常な行動に出ることがないようにさせる注意義務は、もとより第一次的にその保護者にある」という、営造物の設置管理者と利用者との責任分担領域、営造物の危険に対するそれぞれの守備範囲についての判断があり、本判決はこのことを平易に説示し、設置管理者の通常予測し得ない異常な方法による営造物の使用によって生じた事故に対する設置管理者の責任が否定される所以を明らかにしているといえる。
9.守備範囲論
守備範囲論とは、危険がいっぱいの我々の社会生活において事故を防止するためには、自分も一定量の守備範囲を分担しなければならず、これを全て相手の守備範囲に押しつけるべきではないという理論である。本判決において守備範囲論が用いられているが、本判決については結論は是認し得るが、理論的には守備範囲論の問題点を浮き彫りにしている、と評する学者もいるように、守備範囲論に対しては、学説の評価は賛否両論に分かれている。以下これについて検討していきたいと思う。
(前提)
営造物の設置管理者の守備範囲とされるものは、@本来の用法に従って使用しても危険性が認められるもの、A設置管理者として危険性が通常予測し得たもの、であり、それ以外のものは、被害者側の守備範囲に属するものとされ、設置管理者の責任は否定される。設置管理者の守備範囲外とされる領域において生じた事故であるとすれば、設置管理者の責任は100%否定されるのであっって、これを過失相殺に持ち込んで幾分か設置管理者に損害を分担させようとすることはできない。ただし、営造物の設置管理者、被害者の各自の守備範囲は重複する部分もあり、相手の守備範囲でもあれば自分の守備範囲でもあるという領域が存在する。この領域に属する事柄であって、それにもかかわらず事故が起こったとすれば、それは相手方にも自分にも過失あったために生じた事故であるといえ、このような場合に初めて過失相殺として損害賠償額を減額することになる。
<守備範囲論に批判的な立場>
A) 守備範囲論をとると、その守備範囲内での危険については、予測及び回避の可能性よりはむしろ、営造物の設置管理者において予測及び回避すべきであったという義務が前面に出、予測及び回避の可能性の有無を問わず賠償責任を問われる余地が出てくることになる。
B) いかなる基準で守備範囲を画するのかによって結論が異なってくる。たとえば、昭和53年7月4日の最高裁判決のケースでは、片側に民家があり、かつ幅3メートルの道路について子供らの遊び場所ではなく、もっぱら交通のために用いられるものだ、ということを前提とし、道路及び防護柵の設置管理者の守備範囲を、道路を通行する人や車の転落防止に限定し、設置管理者の責任を否定したが、この前提の当否自体がまず問題であるといえる。営造物の設置管理者の守備範囲を当該営造物の本来の用法により生ずる危険への対処に限定することは狭きにすぎる。
C) 守備範囲の画定によっては、営造物に関する危険で、国民自らが容易に対処できるものではなく、またその自己責任を認められないものが、特別の理由がないにもかかわらず、営造物の設置管理者の守備範囲外におかれることになりかねない。営造物の設置管理者の危険防止責任の範囲は、結論的には、営造物に関する危険全般に及ぶものである。そして、国民が容易に回避できる危険及び国民の自己責任に属する危険がある場合、また営造物の設置管理者において損害の発生が予測できかつ回避可能ではあったが、危険防止措置がとれなかったという場合のみが除かれるのである。
D) 営造物の設置管理者の予測可能性の有無を判断するにあたっては、事故現場付近の具体的な状況等が考慮するべき事項として取り上げられることになる。しかし、この点に関して守備範囲論に依拠すると、結果的に予測可能性の範囲を限定することになりかねない。守備範囲論を採用している判例では、営造物の本来の設置目的・機能に則さない利用活動から生じてくる危険に対処することを、はじめから管理者の責任の範囲外においている。このような考え方を徹底すれば、たとえ被害者が危険に対する判断能力の乏しい子供であり、しかも当該営造物のおかれた場所が子供にとって実際に危険な状態にあったとしても、事故が当該営造物の設置目的に則さない利用行為に起因して生じたものである以上、そのことを理由にして予測可能性を否定することができてしまう。
E) 守備範囲論の考え方によれば、当該営造物の設置目的・機能が狭く捉えられた場合には予測可能性の範囲も必然的に狭く限定されることになるのであって、当該理論の用い方如何によっては、個別具体的状況において存在する予測可能な危険の有無について立ち入った審査が行われることもなく、管理者の責任がいとも簡単に否定される結果になるおそれがあることになる。
F) 守備範囲論は被害者を切り捨てる恐怖の刀となる。被害者側の責任は過失相殺で調整すべきである。被害者の行動が通常の用法に即さず、管理者の予測もつかなかったとして免責させるべきではない。本来の目的から離れていても、現実に事故発生の危険性が存在するのであれば、その現実を直視して責任の帰趨を決すべきで、守備範囲論が妥当する事案もないではないが、守備範囲論的考察は、事案を単純明快に割り切ってしまうため、デリケートな事案の個別具体的要素を十分に取り込んだうえでの説得力のある結論の抽出はできなくなるおそれがある。
G) 守備範囲論は予見可能性の幅を狭める結果、責任成立を限定しすぎ、また、瑕疵判断を予見可能性に集中する結果、判断が恣意的になりかねない。
<守備範囲論を肯定する立場>
A) 人間は集団をなして社会生活を営んでいるのであるから、事理の当然の結論として、関係人がそれぞれ相協力しなければ、全体の円満な運営はできない。広範な社会生活の中で、一人もしくは全員に全域に対する責任を負わせると、それぞれの思惑が重複して、かえって誰も守備していない空白の地帯が生じてしまう。
B) 上記(前提)であげた営造物の設置管理者の守備範囲とされるものの中で、A設置管理者として危険性が通常予測し得たもの、だったかどうかということが具体的ケースにおける争点となる。しかし、この守備範囲を画する「通常予測し得たかどうか」という判断は相対的なものであるため、瑕疵判断において被害者の行動の異常性等を斟酌せざるをえなくなり、その際に守備範囲論が必要かつ有効である。
C) 危険物への接近行為、危険を伴う遊びなど、被害者の行動を支配管理する者は、本人自身であり、また、その両親などの監護者である。したがって、この場合の危険管理責任は、物的側面に着眼すれば、物の設置管理者の守備範囲内に専属するかのごとくにみえるものの、人の行動の側面に着眼すれば、被害者側の守備範囲内に属する部分も少なくない。
D) 営造物の設置管理者の負う責任の範囲である通常有すべき安全性とは、通常の用法に即して、通常予測される危険に対して安全であることを意味する。これを前提に、営造物の設置管理者と利用者との責任分担について、それぞれの範囲を画そうとする守備範囲論の考え方は、決して独自の見解ではなく、まさしく長年にわたる判例法が「通常の用法」に即して「通常予測できる危険」の概念をめぐって形成してきたものであり、危険物への接近行為や危険を伴う遊びなど被害者の行動を支配管理する本人自身または監護者と施設管理者との間における守備範囲の分担ないし危険管理責任の分担を評価するべきである。営造物の設置管理者の責任をおよそ営造物に関する危険全般に及ぶとすることは、設置管理者に不能を強いることになる。
E) いかなる無謀な利用にも堪えうる安全性を確保することは、たとえ人命は地球より重しとはいえ資源分配の観点から不合理であるし、社会はお互いの注意と配慮によって成立しているのであるから、通常の利用の仕方でも被害に遭うか、被害者の利用の仕方が異常か、という社会における危険回避責任の分担なり、行政と被害者の守備範囲の分担という発想が必要である。通常予測されない利用の仕方により生じた事故は自己責任の問題で、通常の安全性は確保されていたとか、あるいは管理者に損害回避義務違反がなかったといえる。
F) 被害者の注意義務違反を過失相殺で賄うということは、国や公共団体の営造物の設置管理について瑕疵があると断定し、これを前提として、ただその損害賠償額を減額して両者のバランスをとるということになる。しかしながら、国や公共団体が被告となっている場合は、たとえ事故に対する被告側の過失が10%に過ぎないと判定された場合でも、いやしくも施設の瑕疵であると裁判所から指摘された以上は、同種の場所・施設には全てしかるべき手当てをせざるを得なくなる。国や公共団体は、些少なりとも不法行為を問われるようなことを容認してはならないからである。このことを考えても、安易に過失相殺論に逃げ込むような姿勢をとってはならないのである。
以上のように学説は賛否両論に分かれ(論者によって守備範囲論の意味や内容の捉え方は異なっているようであるが)、<守備範囲論に批判的な立場>における批判の大勢としては、守備範囲論が、設置管理者の責任の有無を、営造物の本来の用法に即して使用されたかどうかによって判断していることに対して、営造物の設置管理者の責任は事故の個別具体的状況等を考慮して判断すべきであり、守備範囲論的な考え方は、予測可能性の範囲を狭めるものであり、設置管理者の責任を営造物の本来の用法により生ずる危険への対処に限定していることは狭すぎる、と批判している。そして、本来の用法から離れていたとしても、現実に事故発生の危険性が存在するのであれば、その現実を直視して責任の帰趨を決めるべきであり、被害者側の責任は過失相殺で調整すべきであるとする。これに対して、<守備範囲論を肯定する立場>の大勢としては、営造物をめぐる場所的環境、営造物の利用方法、過去の事故歴などの事故の個別具体的状況等は、営造物の設置管理者の守備範囲を画定する際の、A設置管理者として危険性が通常予測し得たものであるか、という判断において考慮されており、事故の予測可及び回避の可能性も主要な争点としているといえる。そして、被害者の行動を支配管理するものは、本人自身やその監護者であり、営造物の設置管理者の責任をおよそ営造物に関する危険全般に及ぶとすることは、設置管理者に不能を強いることになるとし、過失相殺については、国や公共団体の責任を10%でも認めることになると、国や公共団体は全ての同種の場所・施設に対してしかるべき手当てをせざるを得なくなるのであり、安易に過失相殺論に逃げ込むべきではないとする。
⇒<守備範囲論に批判的な立場>
営造物の設置管理者の責任は営造物に関する危険全般に及ぶ。
→しかし、被害者が容易に回避できた危険、被害者の自己責任にかかる危険、営造物の設置管理者において回避可能性のなかった危険は除く。
(7.判例の流れA最判昭和53年7月4日について)
本件防護柵の置かれた場所的環境等の要因を考慮すれば、幼児がそれに接近する危険性を予測することができ、したがってまた、転落事故を防ぐために必要な措置を講じることができたのであり、十分に安全な措置を講じなかった管理者に責任はある。
(7.判例の流れE最判昭和56年7月16日について)
小学校内にある本件プールと隣接する児童公園との間はプールの周囲に設置された金網フェンスで隔てられているにすぎず、右フェンスは幼児でも容易に乗り越えられる構造であり、児童公園で遊ぶ幼児にとって本件プールは一個の誘惑的存在であることは容易に看取しうる。幼児がこれを乗り越えて本件プール内に立ち入ったことが設置管理者の予測を超えた行動であったとすることはできず、本件プールは営造物として通常有すべき安全性に欠けていたのであって、管理者に責任はある。
⇒<守備範囲論を肯定する立場>
営造物の設置管理者の責任は営造物の本来の用法に即しても発生する危険に限る。
→しかし、営造物の設置管理者にして通常予測できた危険は含む。
(7.判例の流れA最判昭和53年7月4日について)
本件防護柵は、道路を通行する人や車が誤って転落するのを防止するために設置されたものであり、そ通行時における転落防止の目的から見ればその安全性に欠けるところがない。本件幼児の転落事故は、本件道路の設置管理者において通常予測することのできない行動に起因するものであって、右営造物につき本来それが有すべき安全性に欠けるところはなく、幼児の通常の用法に即しない行動の結果生じた事故であり、設置管理者の責任はない。
(7.判例の流れE最判昭和56年7月16日について)
本件プールの周囲に1.8メートルの金網フェンスが設けられている以上、管理者の管理としては十分であり、本件幼児の予想外のフェンスの用法違反による事故については、被害者側がその責任を負うべく、その責任を管理者に押しつけることは身勝手であり許されないのであって、設置管理者には責任はない。
⇒【両方の立場において設置管理者の責任が否定される事例】
(7.判例の流れB最判昭和53年12月22日)
事案の概要:本件用水溝はXらの自宅裏に流れており、幅員は約1メートル、水深は約0.15メートル(平常時)である。本件事故現場付近は清流であったため、Xら方では、渡り板を渡して洗濯、野菜洗いなどの日常家事に使用していた。よって、本件用水溝の両側には金網の柵は設けられていなかった。Xらの1歳7か月の子供は、昭和49年5月9日午前8時頃、Xらが目を離したすきに裏に出て本件用水溝に転落し、溺死した。
判決要旨:本件用水溝は、護岸壁の高さや水深からいって、通常の幼児や成人にとってその生命、身体に危険を生じさせるようなものではなく、このような営造物の管理者は本件のような1歳7か月の乳幼児が保護者の監護を離れたために生ずべき事故を予見してその防止のための措置を講ずべき義務を負担しているものとは解し難いとし、本件用水溝に対する設置管理者の管理の瑕疵を否定した。
− 自宅裏に水深わずか0.15メートルの用水溝があり、この流水を日常の家庭用水として使用している以上、子供の事故に対し自ら注意するのが当然のことであり、それが使用するものの責任の範囲である。したがって転落防止のための柵がなかったことは許容された欠陥であって、国家賠償法2条1項の瑕疵には当たらない。
→ <守備範囲論に批判的な立場>からすると、営造物の設置管理者の責任から除外される被害者の自己責任にかかる危険ということができる。
→ <守備範囲論を肯定する立場>からすると、営造物の設置管理者の責任となる本来の用法により生じた危険ではなく、また、設置管理者にして通常予測すべき危険でもないということができる。よって、被害者側の守備範囲内の事故であるといえる。
10.検討及び私見
テニスの審判台から幼児が転落し、死亡したという本判決の事例は、子供を連れて中学校に行ったにもかかわらず、自らのテニスに興じるあまり、子供が危険な行動をしていたことに気づかなかったために起きた事故であり、保護者である者の監督義務ないし責任が問われてもやむを得ない事故であったと思う。また、本件のような場合に審判台の設置管理者に責任を負わせるのは、本判決でも説かれているように、「設置管理者に幼児がいかなる行動に出ても不測の結果が生じないようにせよ」というものであり、「設置管理者に不能を強いるものである」といえる。以上から、本判決の結論に賛成する。本判決の結論は、<守備範囲論に批判的な立場>をとっても、<守備範囲論を肯定する立場>をとっても賛成されるものであると思う。<守備範囲論に批判的な立場>からすると、本件事故の個別具体的状況を見ても、被害者が容易に回避できた危険ということができるし、<守備範囲論を肯定する立場>からすると、本来の用法により起こった事故ではなく、また、設置管理者が通常予測すべきであった事故でもないということができるだろう。
守備範囲論については、営造物の設置管理者の責任が認められやすく、被害者も救われやすい<守備範囲論に批判的な立場>のほうが好ましいように思われる。また、両立場で結論の異なる(最判昭和53年7月4日)の事例においても、防護柵の設置管理者の責任は認められるべきだったのではないか、と思う。しかし、<守備範囲論に批判的な立場>は、広くとった設置管理者の責任から特定の場合の事故をマイナスしているのであり、<守備範囲論を肯定する立場>は、狭くとった設置管理者の責任に特定の場合の事故をプラスしているものであり、両立場には大差はないようにも思われる。両立場において、マイナスもしくはプラスされる特定の場合の判断基準についても、事故の予測可能性など事故の具体的状況を判断していることに変わりはない。両立場で結論の異なる(最判昭和56年7月16日)においても、私は、最判は「児童公園で遊ぶ幼児にとって本件プールは一個の誘惑的存在であることは容易に看取しうる……通常有すべき安全性に欠けていた」としていることから、守備範囲論を採用し、設置管理者の責任を肯定したのではないかと思う。そして、(最判昭和53年7月4日)については、守備範囲論をとっても、設置管理者において通常予測し得る危険であったとし、設置管理者の責任を認めるべきであったのではないかと思う。
11.おわりに
私は常岡ゼミに入って多くのことを学びました。発表や討論などに取り組んだのも初めての経験でした。自分にできるのかとうい不安でいっぱいでしたが、常岡先生や先輩方、同期のみんな、後輩たちに助けられ、楽しく、充実した2年間を過ごすことができました。常岡ゼミに入って本当に良かったと思います。常岡先生、ゼミのみんなにとても感謝しています。
(参考文献)
行政判例百選U
滝澤考臣 ジュリスト1056号
増永謙一郎 判例タイムズ882号
阿部泰隆 判例地方自治131号
中村哲也 判例評論433号
安本典夫 法学教室157号
栗原洋三 民事研修439号
加藤新太郎 NBL540号
國井和郎 私法判例リマークス1994(下)
坂井芳雄 法学ひろば39号
阿部泰隆 国家補償法
遠藤博也 国家補償法中巻
古崎慶長 国家補償法研究
室井力 行政救済法
杉村敏正 行政救済法2