学校事故と国家賠償法1条
法学科4年 横山 尚子
1.事実の概要
昭和52年10月5日金城中学において運動会予行演習を翌日に控え、同日午後からは運動会練習の日課が実施されていたが、同日午後4時50分頃生徒は解散され、X(原告・控訴人・被上告人)は友人ら10名位と共に体育館に行ったところ、体育館内においてはいずれも課外のクラブ活動(以下「部活動」という)であるバレーボール部とバスケットボール部が両側に分かれて練習していた。平常はバレーボール部顧問の教諭がバレーボール部の部活動を指導、監督していたが、当日は右教諭が運動場において運動会予行演習の会場の設営、用具類の確認等その他の準備のため体育館内には不在(他の教諭も不在)であったところ、Xらはトランポリン(高さ約1.5メートル、横約3メートル、縦約2メートルの大きさで、柱及び枠は鉄製のもの)を体育館内の倉庫から無断で持ち出し、これをバレーコートとバスケットコートのほぼ中間の壁側に設置してしばらくこれで遊んでいた。
午後5時過ぎ頃訴外AがXに対し、バレーボールの練習の邪魔になるからトランポリン遊びを中止するように注意したところ、Xがこれに反発したためAがXを体育館内の倉庫に連れ込み、その手拳でXの左顔面を2,3回殴打し、そのためXの左眼がチラチラして涙が止まらなかった。Xは本件事故から約1ヵ月後の昭和52年11月11日沖縄県立中部病院において左眼の病名について外傷性網膜全剥離の診断を受けているところ、その自覚症状としては前記暴行を受けてから約1週間後には左眼はその視野の一部が黒くかすみ、徐々にこれが広がり、1ヶ月近くで全く視力を失った。
そこでXは、本件事故はバレーボール部顧問教諭が監視指導義務を怠った過失によるものであるとして、学校設置者であるY町(被告・被控訴人・上告人)に対し、国家賠償法1条1項に基づき損害賠償を請求した。(なお、第1審ではA及びその両親に対する不法行為に基づく損害賠償請求も併せてなされた。)
2.第1審(那覇地名護支判昭54・3・13民集37・1・113)
殴打と失明の因果関係を否定してXの請求を棄却
3.第2審(福岡高裁那覇支判昭56・3・27民集37・1・117)
Xの請求一部認容
・Yの責任について
公立中学校における部活動の指導、監督についても国家賠償法1条にいう公権力の行使に当たるものであって、部活動といえども教育活動の一環として学校の管理下で行われるものであるから、校長ないし部活動の顧問の教諭には、(正課のクラブ活動の指導、監督よりその義務の程度は緩和されるものの、)生徒の安全管理の面から指導、監督の義務があるものと解される。
本件事故当時バレーボール部とバスケットボール部が体育館を共同で使用し、また右部員以外の生徒も体育館を使用していたのであるから、体育館の使用方法あるいは使用範囲等について生徒間において対立、紛争が起こることが予測される。そのほか生徒の練習方法が危険であったり、練習の度を越すことも予測される。
従ってバレーボール部顧問の教諭には、体育館内においてバレーボール部が活動をしている時間中は生徒の安全管理のため体育館内にあって生徒を指導、監督すべき義務がある(当該教諭に支障があれば他の教諭に依頼する等して代わりの監督者を配置する義務がある。)というべきところ、バレーボール部顧問の教諭はこれを尽くしていなかったから、右の点について過失があったといわざるを得ない。
そして本件事故は体育館内で発生しているところ、バレーボール部顧問の教諭が体育館内でバレーボール部の部活動を指導、監督していれば、トランポリン遊びは当然制止され、本件事故は未然に防止できたものと推測されるから、本件事故の発生と右過失との間には因果関係があるというべきである。
4.最高裁(最判昭58・2・18民集37・1・101)
課外のクラブ活動は希望する生徒による自主的活動であったことが窺われる。もとより、課外のクラブ活動であっても、それが学校の教育活動の一環として行われるものである以上、その実施について、顧問の教諭を始め学校側に、生徒を指導監督し事故の発生を未然に防止すべき一般的な注意義務のあることを否定することはできない。しかしながら、課外のクラブ活動が本来生徒の自主性を尊重すべきものであることに鑑みれば、何らかの事故の発生する危険性を具体的に予見することが可能であるような特段の事情のある場合は格別、そうでない限り、顧問の教諭としては、個々の活動に常時立会い、監視指導すべき義務までを負うものではないと解するのが相当である。
本件事故は、体育館の使用をめぐる生徒間の紛争に起因するものであるところ、本件事故につきバレーボール部顧問の教諭が代わりの監督者を配置せずに体育館を不在にしていたことが同教諭の過失であるとするためには、本件のトランポリンの使用をめぐる喧嘩が同教諭にとって予見可能であったことを必要とするものというべきであり、もしこれが予見可能でなかったとすれば、本件事故の過失責任を問うことはできないといわなければならない。そして、右予見可能性を肯定するには、従来からの金城中学校における課外クラブ活動中の体育館の使用方法とその範囲、トランポリンの管理等につき生徒に対して実施されていた指導の内容並びに体育館の使用方法等についての過去における生徒間の対立、紛争の有無及び生徒間において右対立、紛争の生じた場合に暴力に訴えることがないように教育、指導がされていたか否か等を更に総合検討して判断しなければならないものというべきである。
5.検討
学校事故に際し、国家賠償法1条を根拠とする場合には、@教師等の加害行為が公権力の行使にあたること、A学校事故が教師の故意か過失に基づく行為によって生じていること、Bその行為に違法性があること、C学校事故による損害とその加害行為との間に因果関係の存在すること、D教師としての職務上の行為に生じた学校事故であることが要件となる。以下各要件について論じるが、公権力の行使および過失について重点的に論じることとする。
(1) 公権力の行使
国公立学校の教師の教育活動は公権力の行使にあたらないとする見解
そもそも国公立学校の教師の教育活動は公権力の行使にあたらないとする見解がある。国家賠償法1条の公権力の行使というのは、国家統治権に基づく優越的な意思の発動たる作用に属する公務員の行為を意味し(狭義説)、教育活動のような非権力作用はこれに該当しないというものである。また教育理念からの立場で、教育活動を公権力の行使とみて国家賠償法1条を適用しようとする考え方は、教育を本来的な国家作用とみる国家的教育観に基づくものであり、この国家的教育観から脱却して、教育を被教育者の自発性を尊重しながら社会生活自体のもつ教育機能を活用して行われる社会的作用とする考えもある。この場合、学校設置者である国あるいは地方公共団体の賠償責任の根拠法規として民法715条を適用することになる。私立学校の場合とのバランスからして、教育活動は私立学校の場合も国公立学校の場合も同性質のものであり、それから生ずる事故についての賠償責任根拠規定も共通にしておかなければアンバランスが生じるという考えから民法を適用すべきという見解もある。
判例にも教育活動は非権力行使であり公権力の行使に該当しないとして国家賠償法1条の適用を否定するものがある。
判例1 区立中学3年生が臨海学校の飛び込み台から飛び込んで死亡した事案で、「国家賠償法第1条、第2条に基づく慰謝料請求の主張について按ずるに同法第1条にいう『公権力の行使』とは国家統治権に基づく優越的な意志の発動としての作用即ち権力作用をいうのであるが官公立学校の教員と生徒との関係の如きは公権力の行使を要素としない公法上の行為であるから、仮令教育公務員たる小春教官に過失があったとしても同教官の臨海学校に於ける教育は権力作用でないこと論を俟たないから同法第1条または第3条の適用される余地はない」とする。(東京地裁昭28・11・21下民集4・11・1740)
判例2 判例1の控訴審で「学校教育の本質は、学校という営造物によってなされる国民の教化、育成であって、それが国または公共団体によって施行される場合でも、国民ないし住民を支配する権力の行使を本質とするものではない。このことには、学区を設置することができるものが、国又は地方公共団体だけに止まらず、私立学校の設置を目的として設立された法人をも含むことから考えても判るであろう。従って学校教育は、国又は公共団体によってなされると、学校法人によってなされるとを問わず、いわゆる非権力作用に属するものである。それ故学校教育に従事する公務員は公権力の行使に当るものではないから、本件の場合も小松中学校臨海学校に従事した小春教官は被控訴人の公権力の行使にあたったものではない。」とする。(東京高判昭29・9・15高民集7・11・848)
判例3 小学校6年生の体育授業で、隣接の中学校にある町有プールで水泳練習中溺死した事案で、判例2と同様の理由で「学校教育に従事する公務員は公権力の行使に当るものではない」とする。(松山地西条支判昭40・4・21下民集16・4・662)
国公立学校の教師の教育活動は公権力の行使にあたるとする見解
その1は、公権力の行使の中には私経済作用に属する行為は除外されるが、非権力作用も含むと解する立場(広義説)からである。公権力の行使には、国、地方公共団体がその権限に基づき優越的意見の発動として行う権力作用のみならず、非権力作用をも抱合しており、学校教育はこの非権力作用にあたるからだとする。
判例4 「教師が前述の学校教育の目的と、秩序維持のために、学校内の非行事件の容疑者ないし関係者としての生徒を取り調べる行為は、国家賠償法第1条第1項にいわゆる国又は公共団体の公権力の行使であるとみるのが相当である、公権力の行使を権力的作用と同義に解する説も存するところであるが、公権力の行使とはこれを広義に解し、国又は公共団体の行為のうち、私経済的作用を除くその他のすべての作用を包含し、本来の意味における権力作用に限らず所謂非権力作用もこれに属するものと解しなければならない。而して教師の生徒に対する前述の如き取調をする行為はここにいう非権力的作用に属するものとかいすべきである」とする。(福岡地飯塚支昭34・10・9下民集10・10・2121)
その2は、公権力の行使には特別権力関係も含むと解する立場(特別権力関係説)である。公権力の行使には、権力作用のみならず特別権力作用も含まれ、学校教育では、学生生徒による国公立学校という公の営造物利用の関係であり、特別権力関係に属するとか、あるいは教師が教育のために生徒を支配する関係または命令的に指示するのは特別権力の行使の一態様であるとする。
判例5 「元来、公権力の概念は、営造物利用上の特別権力をも当然含むものであるところ、同条の解釈に限り公権力の概念から特別権力を除外すべき合理的な根拠はない。そして生徒の公立学校利用関係は特別権力関係と解するのが相当であり、授業における教官の生徒に対する命令的指示は右特別権力の行使の一態様と認めるべきである。」(広島地判昭48・8・30下民集18・7・899)
その3は、狭義説に立ちながらも、教育活動を公権力の行使とみる立場である。教育そのものは、命令・強制を本体とする国家権力の行使とは性質を異にする作用であるが、公立中学校での学校事故は、生徒は、就学を強制されている義務教育において、学校の教育計画に従わされる立場にあるのであるから、公権力により危険回避の自由が奪われているという関係に在るもので、かかる場合における公共団体の責任は、むしろ国家賠償法1条をもって律するのが適当だからとされる。
判例6 「義務教育たる中学校への就学は保護者に義務として課せられておりしかも被告鹿沼市の地域には学校法人設置にかかる私立中学校は存在しないから学齢に達した生徒は必ず被告市の設置した中学校に就学しなければならぬものであり、しかも義務教育においては年齢および身分の関係があって教師と生徒とは平等の関係になく生徒は一に教師の命令により進退するものであって、その事実は教師が公権力ないし公権力に似た力をもって生徒を支配しているものと見られ、そこに危険も存する(例えば臨海学校において教師が海水浴をせよと命ずれば生徒は海に入り、陸に上れと命ずれば陸に上る。)から、学校教育の目的ないし本質が国民の教化育成であるにしても、教師が教育のために生徒を支配する関係に」ある。(宇都宮地判昭38・1・12下民集14・1・1)
その4は、教育作用を学校管理権の行使とみる立場である。すなわち、校長および教師は、営造物主体の有するこの権利に基づいて、教育計画を立て、生徒・児童をそれに従わせ、また彼らを警戒することもある。これは教育という受益作用の手段にすぎないから、国家統治権に由来する権力作用とはいえないが、それは学校管理権の行使であり、国家作用の一種と解されるので、公権力の行使にあたるとする。
その5は、公権力の行使には国家活動全体が包含されるとの立場(最広義説)である。国家賠償法1条の適用範囲を、公権力作用、非権力的行政作用はもちろん、私経済作用に属する公務員の行為を含めて、一切の公務員の職務上の行為に及ぶと解すべきだとする。それは、公権力作用・非権力的行政作用と私経済作用との間において、特に賠償責任を区別する合理性が発見できないとし、「公権力の行使」という文言は、戦前の苦い経験に鑑み特に注意的に付加したもので、これに捉われることはないとの考えに基づく。
国公立学校の教師の教育活動は公権力の行使にあたるか
国公立学校の教師の教育活動は公権力の行使にあたらないとすると国家賠償法1条は適用されず、民法715条を適用することとなるが、民法715条よりも国家賠償法1条の方がより優れた賠償責任法理であることを考えると、被害生徒の救済、教師の地位保障の観点から国家賠償法1条を用いる方が好ましい。一方、私立学校の場合とのアンバランスについて、国公立学校と私立学校を区別しないことは、国または公共団体と私人を区別している国家賠償法の存在自体と矛盾することにもつながると考えられる。判例では教育活動は公権力の行使に該当しないとして国家賠償法1条の適用を否定するものがあるが、これらは下級審の比較的古い時代のものである。
学校教育の第一の目的は育成教化であることから、教育活動は非権力作用であるとするのが望ましい。教師と生徒の関係において、教師が教育のために生徒を支配したり、命令的に指示するのは教育の一側面でしかなく、これのみをもって学校の教育活動を権力行為とするのは乱暴である。最広義説の立場に立つと、教育活動はもちろん公権力の行使にあたることとなるが、最広義説自体について、国家賠償法で「公権力の行使」と明記している以上、私経済作用まで含めるのは行きすぎであるし、国家賠償法は民法でカバーできない部分をいかに救済するか、民法の救済方法より適した救済方法を与える必要があるかという観点からしても最広義説は妥当ではないと思われる。被害生徒救済の観点、教師の地位保障の観点からしても、国公立学校の教師の教育活動は公権力の行使にあたると解すべきである。
どのような教育活動が公権力の行使にあたるか
国公立学校の教師の教育活動のうち、どのような教育活動が公権力の行使にあたるかについて、判例によると国公立学校の教育活動の全てを公権力の行使として認める傾向にある。第一に、国公立学校であるならば全ての学校の教育活動にあてはまる。保育園、幼稚園、小学校、中学校、大学等を区別していないし、義務教育段階であるかどうかも問題でない。第二に、学校の直接実施している全ての教育活動とするだけでなく、より拡張している。正課授業中に授業の一環として行われた清掃作業中、課外活動中、特別学校行事中に限らず、教師の許可を得た自主的な課外活動中にまで拡張されている。第三に、場所的、時間的制約がない。校内での事故であるか校外での事故であるかについても、また教育活動中に限らず自由時間、放課後あるいは夏休み期間であってもよい。第四に、教師の児童・生徒に対する体罰、違法な懲戒、暴行であってもよい。
(2) 過失(教育活動に伴う事故の場合、故意に基づくものは教師の体罰・懲戒・暴行などのうち特別の場合を除いてはまず考えられないため、過失についてのみ論じる。)
作為行為による事故の場合は、本来守るべき事故防止のための安全保持注意義務を守っていなかったことが過失であり、不作為行為による事故の場合は、その被害生徒に対して事故防止のための安全保持注意義務があるにもかかわらず、その安全保持のための適切な指導・指示・措置を行わなかったこと、すなわち安全保持義務懈怠のあったことが過失だということになる。
・課外クラブ活動事故での過失
課外クラブ活動の指導教師には部員である生徒に対する指導監督注意義務があるが、その義務の範囲は、学校における教育活動およびこれと密接不離の関係にある活動に限られている。その生徒の全ての活動につき安全義務があるのではない。その範囲の判断基準として、そのクラブ活動が教育活動に含まれる特別教育活動としての指導、練習を受けていたかどうかがポイントになる。
・生徒間の喧嘩、暴行行為での過失
生徒同士の喧嘩やリンチ、暴行行為あるいは校内暴力事件などによる事故に対しては、教師は一般的には、これを防止するための安全義務を負っていない。このような事故は、本来的には教育活動にかかわるものではないし、通常予測できるようなものではないからである。
クラブ活動に関連しての制裁のための集団的暴力行為に対しても同様である。クラブ活動に関連して暴力的制裁の行われることが考えられるが、だからといって担当指導教師が常にその事態の発生を予測してこれを防止するために注意しなければならないものではないとされている。ただ、この場合もそのような制裁的暴行の行われることが予見できる客観的事情がある場合には、それに気付き事態発生を防止する注意義務がある。
課外クラブ顧問の教諭等がクラブ活動に立ち会わなかったことに過失があるか
過失判断について、何らかの事故の発生の危険性を具体的に予見することが可能である場合でなければ立会義務はなく、過失はないとする見解は、抽象論としてみればこれまでの判例理論を承継したまでで何ら目新しいものではない。過失とは、事故の発生を予見して防止すべき注意義務を怠ったことであると理解されてきたことに対応し、ここでの立会義務というのは、事故発生防止のための結果回避義務のなにものでもないのであるから、予見義務懈怠が前提となるといえるからである。そして、本判決では、体育館の使用をめぐる生徒間の喧嘩につき予見可能性があったかどうかを判断すべきであるとしている。
課外クラブ活動に関して、どのような場合に立会義務が法的に必要となるのか
判例7 中学校の柔道クラブでの練習中に、背負い投げの技をかけられ、初心者で受身を習得していなかったために頭部を畳に強打し、脳内出血、脳軟化症で、言語障害、右半身麻痺の後遺症が残った事故で、2人の指導教諭がその練習に立ち会っていなかったことにつき、少なくとも委嘱している実技指導者が来るまで自ら指導監督にあたり、生徒の生命・身体の安全確保につき適切な措置をとらない限り、指導監督義務を放棄したことになるとして過失を認めた。(熊本地裁昭42・7・20)
判例8 高校の空手クラブでの練習中に、それに所属する生徒が練習を無断で休んだとして、仰向けに寝かせられ上級生より腹部を交々に蹴られ、脾臓破裂等の重症を負った事故で、「このような年代の生徒に危険を伴う空手を練習させるときは、指導に当る教諭において、生徒に対し、練習その他活動につき、遵守すべき事項を懇切に教示するとともに、ゆきすぎた練習や暴力行為が行われないよう練習に立会い、十分の状況を監視すべき注意義務がある」とした。(熊本地判昭50・7・14判タ332・331)
判例9 国立高専の柔道部の練習中に、乱取りで相手生徒から大外刈りをかけられ受身不十分で転倒し、後頭部を打って重症を負った事故で、「柔道部の指導教官は、部員の練習につき生徒の自主性を尊重しつつ指導監督すれば足り、常時複数の指導教官がついて各部員の行動を逐一監視すべき義務があるとは到底解し難いのみならず、……本件事故は複数の指導教官が現場に居たとしても避けられない一瞬の事件というほかはない以上、……過失はなかったといわざるをえない」とした。(福岡高判昭55・9・8判タ435・117)
判例7・8で立会義務を肯定したのは、課外クラブ活動自体に内在し、そのクラブ活動に直接起因する危険性によって、そのクラブ活動に参加していた者が事故にあった場合が前提になっており、そのような危険性の存在は、特別の事情を必要とすることなく、一般的に予見しうべき性質のものであることから、その危険の防止のための立会義務も一般的に存在すると解しうると考えられるからである。一方、判例9については、立会い義務の存在を原則としながら、立ち会うことによってその危険性を回避することができなかったと考えられる場合を前提としているならば、矛盾はないということになる。
課外クラブ活動は生徒の自主性を尊重するものであるが、未成年者で心身の発達が不十分な者を対象に、さらに教育活動として行われているのだから、教諭等が指導監督し、危険防止のため万全を尽くすことは不可欠であり、このことから立会義務が存在するのは当然のことといえる。本件の場合は、課外クラブ活動に伴って生じた事故とはいえ、その課外クラブ活動に直接起因するような危険に基づく事故ではなく、体育館使用をめぐる生徒間の喧嘩という間接的な事故で、課外クラブの指導教諭として、当然に予見できるような事故ではない。そのため、特別の事情がない限り立会義務はないとした本判決は妥当と思われる。
予見可能性
過失認定には事故発生の危険性の予見可能性を必要とするとされるが、これにつき、安全注意義務違反の主体を校長や教諭個人だけでなく、学校組織体自体、学校運営管理者も含むとする学説もある。このような見地に立てば、生徒に教育施設の利用を認めた以上は、その利用に伴って生ずる危険性、すなわち利用上のトラブルがないかどうかについては常に予見しなければならないことであり、そのためには特別の事情を必要とするものではないといえる。
本件は課外クラブに内在する危険性から直接生じた事故ではなく、施設の利用をめぐる生徒間の喧嘩によって生じた事故であるため、純粋な課外クラブ活動による事故とは区別すべきである。学校運営についての学校組織自体に課せられた安全注意義務から、施設の利用に伴って生じる危険性は常に予見しなければならないとすれば、過失は容易に認められることになるが、教師の個人責任からの解放・被害生徒の救済の観点から、予見可能性の有無は教育現場の校長や教師だけでなく、学校設置者や教育委員会、教育長、現場管理者としての校長や教頭などの学校組織、学校運営管理者も検討する必要がある。
(3) 違法性
いかなる加害行為が違法性を有するかの判断基準としては、侵害された利益の種類と侵害行為の態様との相関関係で決まるとされている。侵害された利益が重大であれば、侵害行為の不法性が小さくても違法性があるということになる。このような見解に従うならば、教師等の教育活動における違法性については、次のような基準によることができる。
被害生徒の生命侵害(死亡)や身体障害(負傷)のような利益の侵害の場合には、それは重要な保護法益であることから、教師等の作為的加害行為の場合は、原則として違法性を有することになる。そして教師等の不作為による場合は、その生命身体侵害が学校教育活動に伴って生じたものであり、教師等に、学校教育上、その加害行為から被害生徒の生命・身体を安全に保護すべき作為義務が存在する場合に限り、違法性を有することになる。
(4) 因果関係
教師の作為ないし不作為によって、その事故が発生しているという事実的因果関係の存在を前提としながら、そのような行為の際に、そのような自己の発生を予見していたか、予見が可能であった場合に因果関係が認められることになる。
(5) 教師の職務上の行為
これは、職務行為自体か、職務行為と関連して一体不可分の関係にあるものか、行為者の意思に関わらず、職務行為と牽連関係があり客観的、外形的に見て社会通念上職務の範囲に属すると見られる行為を意味する。このため、教師等の教育公務員である者の正課授業、課外活動、特別学校行事における教育活動や教育指導のとき、またはその終了後の学内での場合、さらには勤務時間中であるかどうかに関わらない。
6.補償制度について
最後に被害生徒に対する補償救済について少し述べようと思う。学校事故に際しての補償救済を直接の目的とする制度としては、不法行為に基づく損害賠償(国家賠償法1・2条、民法708・714・715・717条)、債務不履行に基づく損害賠償(民法415条)、日本学校健康会の災害共済給付(学校健康会法)、教育災害のための保険制度や各種見舞金制度がある。
不法行為に基づく損害賠償は被害生徒の補償救済の面から見るとき、その事故によって生じた損害をほぼ完全に填補することを目的とする点で優れている。しかし国家賠償法1条、民法709条、715条を根拠とする場合、まず教師個人の故意・過失を探さなければならない。このことから教師の過失を問題にするのはその仕組みからくる方便だとしても、それを問われる教師にとっては事故の責任が追及され、被告の地位にいるものと思い生徒との関係において、また教育上の悪影響が生ずることにもなりうる。
債務不履行に基づく損害賠償の場合には、学校設置者が責任主体である点で優れているが、教師を履行補助者として位置づけて、その生徒に対する保護監督義務を問題にするため、不法行為の場合と同様の問題が生じる。また、生徒と学校との在学関係を契約関係として捉えることを前提とするが、そのための議論をかもし出す。
日本学校健康会の災害共済給付と教育災害のための保険制度は、完全補償が難しく、児童・生徒による掛金制度となっていることから学校事故についての本来的責任負担者の負担を荷変わりさせられているという面がある。
学校事故の補償制度は被害生徒に対する完全な補償のみを目的とするのではなく、学校という教育の場での事故という側面を重視し、教育理念にかなった補償でなくてはならない。被害生徒のほとんどは未成年者であり、成長過程にある。将来の社会を担う彼らの成長を阻む学校事故に関して、他の一般の補償とは異なる補償制度が必要である。
(参考文献)
「学校事故の法律問題 その事例をめぐって」 伊藤進
「学校事故における教育作用と国家賠償法一条との関係」 矢代利則 判タ272号14頁
「教育法」 兼子仁
「県立高等学校生徒が、教師の懲戒行為を恨んで翌朝自殺を遂げた事案について右懲戒行為と死亡との因果関係を否定したが、懲戒そのものは違法であるとして、それに対する生徒の精神的損害の賠償を国家賠償法1条に基づいて県に命じた事例」
森島昭夫 判時630号144号
「行政法上」 田中二郎
「学校事故賠償責任と最高裁判決」 伊藤進 判タ492・30