SUWA HARUO 通信3

 
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日本文化の全体像については、よく多重構造ということがいわれます。たとえば著名な民族学者の佐々木高明氏には、「日本文化論の総集成」と銘打った『日本文化の多重構造』(小学館、1997年)という著作があります。氏は、そこで、多元的で多重な構造をもった日本文化は、それゆえに、多様な文化に柔軟に対応することができたと、その特質を論じておられます。

有史以前から日本列島には、多種多様な文化が海外からながれこんで定着してきました。その全体像と特質をあらわすことばとして、多重構造はまことに適切な、積極的な意味をもつ術語であるといえます。

しかし、見方をかえれば、日本文化を時間軸で切ってゆこうとすると、その複雑なからみあいを解きほぐすことは、ほとんど絶望的であり、多重構造とでも、称するよりほかはないだろうという、消極的な意味をもったことばでもあります。

もし時間軸をすてて空間軸を採用したらどうでしょうか。ことはそれほどむずかしくはありません。

日本列島は、東西南北の四つの方角を海にとりまかれています。列島にはいりこんだ文化の流れは、かならずこの四つの海を通過してきたはずです。近現代までを視野におさめれば、日本文化は四重構造になるはずですが、東の太平洋を通過してくる文化は、幕末のアメリカ使節の来朝までは、大きなインパクトをもっていなかったので、西方、北方、南方の、三方向からの流入をかんがえればよいことになります。つまり、つぎの三重文化です。

    A 西方の中国大陸系文化

    B 北方のシベリア・オホーツク沿岸系文化

    C 南方の東南アジア系文化

これを私は日本文化三重構造論とよびます。このなかで、幾世代にもわたって、日本文化に大きな影響をあたえつづけたのは、Aの中国大陸系文化です。

いささか乱暴なくくり方になることを承知のうえで申しますと、Bは主としてアイヌ文化、Cは沖縄・九州文化に継承され、本土日本文化の中心を形成したのは、Aでした。

ここで前回のSUWA HARUO 通信2に話をつなげます。

前回、私は、長江流域から北九州への直行ルートは、稲単独の伝来コースであり、北をまわって朝鮮半島を経由したコースは、稲と雑穀の両方が伝来したコースであったと申しました。これは大切な考えですので、ここできちんと説明しておきましょう。

中国文明は、黄河中心の黄河文明と、長江中心の長江文明にわけることができます。ごく最近まで、中国文明は黄河文明で代表され、長江文明は、あまり問題にされることがなかったのですが、ここ十年ほどの、長江流域の考古学遺跡のあいつぐ発掘成果は、この流域に、黄河文明におとらない古代文明がさかえていたことを立証してきています。

農耕に限定してかんがえますと、低温乾燥の黄河文明は雑穀中心であり、それにたいし、高温多湿の長江文明は稲作中心であったといえます。

日本への稲作の伝来ルートのうち、北廻りは黄河流域の雑穀地帯を通過することによって、稲と雑穀をあわせて日本にもたらし、直行ルートは稲だけを日本につたえることになったのです。

中国の古代巨大王朝の交替は雑穀地帯の黄河文明地帯でおこっています。そして、やや小型にしたおなじ現象を、朝鮮半島でもみることができます。しかし、雑穀のほかに稲単独の流れをうけつぎ、稲作文化をそだてた日本では、顕著な王朝の交替がおこっていません。

前回の通信の最後に、雑穀文化と稲作文化に、東アジアの王権の問題を解く重要な鍵があると、私が申しましたのは、この事実に注目したからです。

稲作の文化は、米に神霊の存在をみとめる稲魂信仰を生み、米を唯一絶対の神として崇める一元的価値観にもとづく、稲作の祭りがおこなわれるようになります。雑穀も、神霊の存在をみとめて崇める祭りを誕生させますが、種類が多様であるために、唯一絶対の神信仰とはならず、多元的価値観を形成します。

多元的価値観は、王朝交替の思想につながり、一元的価値観は王朝継続の思想の母胎になると、ひとまずはいってよいのですが、しかし、事実はこのかんたんな理屈では説明できない点がのこります。次回に、さらにこの問題について、つづけてかんがえてみます。

では今回はこの辺で失礼します。

 

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