諏訪春雄通信 52


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 9月8日(日曜日)の午後、和光大学で開催された比較神話学シンポジウム「竜宮・蓬莱・アヴァロン島」に参加してきました。このシンポジウムは、6日(金曜日)から3日間にわたって、日仏の神話学者の発表25本をそろえた充実した大会でしたが、私は自分の発表が予定されていた最後の日の午後だけ出席したのです。

 この会の組織責任者は広島市立大学のフランス文学教授の篠田知和基先生です。篠田先生は、比較昔話の卓抜な業績『竜蛇神と機織姫』(人文書院・1997年)の著者として名を知っていましたが、名古屋大学におられたころに先生が中心になって文部省科研費で組織された「ユーラシア神話の比較―神話と文学」プロジェクトの研究会に声をかけていただき、参加したのが直接のご縁のできたきっかけでした。

 8日の午後には、私のほかに、「竜の娘たち」(東邦学園短大・坂田千鶴子)、「竜宮童子―火と水のコスモス」(内藤正敏・東北芸術工科大学)、「竜が舞う青の島と山」(南山大・目崎茂和)、「中世宗教思想における竜宮のトポロジー」(山本ひろ子・和光大)の四つの発表がありました。

 それぞれに興味ぶかい内容でしたが、またそれぞれに問題もかかえていました。坂田さんの発表は浦島伝説と海幸山幸をかさねあわせたものでしたが、論の運びがはっきりしません。私の席に質問にこられて、ご著書の『よみがえる浦島伝説』(新曜社・2001年)を贈ってくださるといっておられたので、すこしていねいに読んでみようとおもっています。

 内藤さんは民俗写真家として著名な方です。神から人間にさずけられた贈り物の子が金銀米銭などの福をさずける「竜宮童子」型の昔話の分布を調査され、竈神との関連をかんがえた力作でした。東北地方ではその神からの贈り物のみにくい子の名が「ショウトク」とよばれることが多いのは聖徳太子信仰の影響であるとされたのはよかったのですが、従来説の火男(ヒョットコ)との関係を完全に否定してしまったのは行き過ぎでした。聖徳太子だけではショウトクがきまって醜い男の子である事実の説明がつきません。

 目崎さんの発表は風水思想で日本の地名を説明しようという試みでした。「青」の字をもつ青島、青山などの地名は海人族の他界への通路であり、青から変化してオウの発音をもつ地名、近江、大島などは天皇族にかかわる地名であるという主張など、疑問の多い発表でしたが、ことに、海人族が風水思想をもっていたことの証明はむずかしいのではないかと思われました。

 例によって緻密な論の展開で感服したのが山本さんでした。中世佛教の秘伝書がつたえる本覚思想の解読から中世の竜宮信仰の実態を解明しようとしたもので、『平家物語』の宝剣喪失伝承、『保元物語』の崇徳院魔界入り説話などの分析はあざやかなものでした。しかし、民俗芸能の比婆荒神神楽に登場する「荒神龍押し」のワラの竜蛇神までをその論法で解釈するのは、当日、鈴木正崇さんが疑問を呈されたように、「鶏を割くに牛刀を用いる」の感はいなめません。

 比較研究とは、結局、二つの類似現象のあいだになんらかの交流を想定する、類似現象を人間の普遍性で説明する、のいずれかに落ち着きます。Aを理想としながらBにとどまる、というのが多くの比較研究の在様ではないでしょうか。
 当日の私の発表の要旨をつぎにかかげます。

 海幸山幸神話の源流
 日本の「海幸山幸神話」は、
兄弟争い、竜宮訪問、異類婚、服属という四つの要素にわけられる。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の「失われた釣針型説話」が類話として報告されている。インドネシアのケイ族のヒアンとパルバラ兄弟の話、パラウ島のアトモロコトとリリテウダウの話などである。しかし、「海幸山幸神話」の原型は中国南部の少数民族がつたえる神話のなかに存在する。伊藤清司氏紹介の湖南省土家族の「格山と竜珠」という伝説(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店・1993年)は、兄弟の争い、水界訪問、水界の女との結婚、水界よりの呪宝入手、呪宝による水の支配、兄への復讐という六点が日本の「幸山幸神話」と一致している。私はほかにも、二十七種の水界女房譚を紹介することができる。それらには、兄弟またはそれに代る者の争いと復讐、竜宮訪問、異類婚、服属という四要素がそろうだけではなく、報恩譚、難題婿、絵姿女房、海陸の分離、失われた漁具などの多様なモチーフがそなわっており、中国南部でそだてられた竜宮物語の豊穣さを知ることができる。

 この通信で論じてきた「天皇の比較民俗学」のテーマもようやく終結に近づいてきました。適切なまとめをあたえるために、しばらく、伊勢神宮と出雲大社のテーマをおいかけます。

 通信46で東西軸重視の問題を論じたときに、東の朝日の地伊勢の伊勢神宮にたいし、西の夕日の地出雲の出雲大社とかんがえる説が、西郷信綱氏にあることにふれました(『古事記の世界』岩波書店・1967年)。西郷氏はつぎのようにいいます。

 出雲にしても、神代の物語でそれが決定的ともいえる役を演ずべくわりつけられたのは、宮廷にまつろわぬ勢力がたんにそこに蟠踞していたからではなく、その勢力が葦原の中つ国という一つの世界を代表するものと神話的に考えられていたからである。そしてこのことにかんして一ばんものをいったのは、大和が東であり、この東としての大和からみて出雲が海に日の没する西の辺地にあたっていたという宇宙軸の存在であったと思う。

 この提言がいかにすぐれたものであるかは、私のこの通信の読者の皆さんなら容易におわかりのはずです。もちろん、西郷氏には、東西軸が中国の南方原理に由来するという認識はありません。しかし、私は西郷氏のことばをつぎのようにいいかえます。「中国の北方原理にもとづく南北軸重視の思想が日本にあたらしくはいってきて、国家と政治の指導理念となっていった時代にも、王権護持の観念体系に、中国の南方原理に由来する太陽信仰の東西軸重視の思想が存在していた」というように。

 そして、私はこの東西軸重視の思想をたんに二つの神社の方位の問題にとどめず、古代の王権と信仰の体系の読み解きに利用しようとかんがえているのです。

 まず二つの神社のごく一般的な全体像を確認しておきます。そのほうが、いきなりむずかしい問題にはいるよりも論をすすめるうえではるかに有効です。『大字林』(小学館)から引用します。

出雲大社 島根県大社町にある神社。旧官幣大社。主祭神は大国主命。他に五神を祭る。創建は神代と伝えられ、日本最古の神社の一。農業や縁結びの神として信仰される。本殿は大社造りの典型。天日隅宮(あまのひすみのみや)。杵築大社(きつきのおおやしろ)。」

伊勢神宮 三重県伊勢市にある皇大神宮(内宮)と豊受(とようけ)大神宮(外宮)の総称。内宮は皇祖神である天照大神を祭り、神体は三種の神器の一、八咫鏡(やたのかがみ)。外宮の祭神は農業などをつかさどる豊受大神。白木造りで、二〇年ごとに遷宮を伴う改築がある。明治以後国家神道の中心として国により維持されたが、昭和二一年(一九四六)宗教法人となった。社殿の様式は神明造り。伊勢大神宮。伊勢大廟。二所大神宮。神宮。」

 両神社ともに成立年代はあきらかではありません。はっきりしていることは、出雲大社の原型が誕生したときに、伊勢神宮はまだ存在していなかったということです。したがって、原出雲大社に伊勢神宮の影響はありません。しかし、伊勢神宮が誕生したときには出雲大社は存在していました。伊勢神宮は出雲大社との関係のなかに造営、経営された可能性はつよかったといえます。また出雲大社もいったん誕生したのち、原型がそのままに保存されたのではなく、幾度か改修の手がくわえられたはずで、そのさいには伊勢神宮との関係が考慮された可能性はあります。両社がもつことになった関係性に注目しながら、二つの神社の本質を解明してゆきます。

 出雲大社が創建された事情を『古事記』は「国譲り」の個所でつぎのように叙述しています。

「この葦原中国は、天つ神の仰せのままにすっかりさしあげましょう。ただ私の住まいをば、天つ神の御子が皇位におつきになる壮大な御殿のように、地底の岩盤に宮柱を太くたて、高天原に千木をたかくそびえさせてご造営くださるならば、私は多くの曲がり角を通過してゆく遠いところにかくれておりましょう。また私の子どもの多くの神々、コトシロヌシノカミが行列の前後となってご奉仕申しあげるならそむく神はございません」とお答えした。そのことばのとおりに、出雲のタギシの小浜に立派な宮殿を造営された。

 また、この高天原側がたてた宮殿を『日本書紀』の第二の一書は「天日隅宮」とよんでいます。難解なことばですが、太陽の没する地にある立派な宮殿という意味があるようです。

 『古事記』や『日本書紀』がつくられた8世紀のころ、伊勢神宮はすでに建設されていました。伊勢神宮の創建年代は各説があるようですが、おそくとも6世紀のはじめには存在していたようです。『記紀』の出雲大社造営の記載はすでに伊勢神宮との関係性のなかにあったはずです。したがって、『記紀』神話からひきだせるつぎのような出雲と出雲大社にかかわる特性は、その関係性のなかで意図的に生みだされたものつまりはイデオロギーであったとかんがえることができます。

巨大な神殿 国譲りの地 日没の地 
死者の国 葦原中国 

 当然、これと対比される伊勢神宮には反対の属性が付与されていたはずです。つまり、出雲大社をキーワードによめば、伊勢神宮の本質がわかってきます。その検討は次回以降にゆずります。

今回はこの辺で失礼します。 


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