諏訪春雄通信 53


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 通信51で予告しました、今年度に実施した夏期の中国調査とトカラ列島悪石島調査の報告会のテーマと講師がつぎのように決定しました。例によって会員の皆さんと学生は参加費無料ですので多数お見えいただきたいと存じます。

人文科学研究所共同研究プロジェクト

調査報告会

日中祭祀の形態
―牧畜農耕民・農耕漁労民・農耕民の比較―

牧畜農耕民―中国羌族  有澤晶子氏(東洋大學助教授)
農耕漁労民―日本トカラ列島悪石島 石井優子氏(学習院大学講師)
農耕民―中国土家族・イ同族・苗族  諏訪春雄氏(学習院大学教授)

10月5日(土曜日)午後2時から  於学習院大学西5号館202教室

 祭祀は、民族、国、地方、季節の違いなどに応じて、その形式と内容は多様です。私は以前に東アジアの祭りの分類基準として、

優勢な経済段階  主要な祭神  
優勢な体系(文明)宗教

という三つを想定したことがあります(「東アジアの祭りの構造と分類」『東アジア神と祭り』雄山閣、1998年)。この三つのなかで、祭りの形態を決定するもっとも根本の要因は経済段階、ことばをかえれば食糧獲得の方法だろうとかんがえています。

 最近、アジアの正月の多様性を決定する要因についてかんがえる機会がありました。勉誠出版発行の月刊誌『アジア遊学』の2003年新春号の特集「アジアの正月」の監修を依頼されたためです。

 そこによせた文章で私があげた正月分類の基準は、暦法の相違、伝播、食糧獲得の方法三つでした。日本の正月の例で申しますと、旧正月新正月は暦法の相違にもとづき、いわゆる小正月は中国の上元の節がアジアに伝播したものであり、餅正月餅無し正月の別は農耕文化と雑穀文化の相違つまり食糧獲得方法の相違によるものです。

 暦法の発生もじつは食糧獲得方法が要因であり、伝播はいったん誕生した固有の暦法による正月が他地方につたわる事実をさしていることを考慮すると、正月の種類を決定する根本要因も食糧獲得方法ということになります。

 マルクス理論をそのままに信奉している共産主義国家は、いまは北朝鮮くらいになりましたでしょうか。かつては世界を制覇したマルクス経済理論も凋落して見るかげもありませんが、しかし、「下部構造=経済機構が上部構造を決定する」というマルクスの基本テーゼは多くの条件をつけながらも、祭りをかんがえるときに役立つのではないかとかんがえています。


 前回の通信につづいて伊勢神宮出雲大社についてのべます。

 『古事記』や『日本書紀』に記述された出雲の地と出雲大社像は、巨大神殿、国譲りの地、日没の地、死者の国、葦原中国というキーワードでとらえることができます。これらは、事実としての出雲・出雲大社と不即不離の関係でつくりあげられた王権のイデオロギーです。

 『古事記』や『日本書紀』第二の一書では、出雲大社について、国譲りの見返りとして、高天原側がオオクニヌシの住まいとして巨大神殿を造営しておくったとあります。現実の出雲大社が巨大神殿であったことは、平安時代末期の柱や柱の跡が発掘されていることからも察せられます。

 すこし旧聞に属しますが、2000年4月29日の各紙朝刊がいっせいに、出雲大社境内から巨大柱の一部が出土したことを報じていました。11世紀から13世紀(平安時代末期から鎌倉時代初め)の神殿の跡とみられる杉の柱三本の一部と柱穴二基で、これをもとに、同社所蔵の絵図を参照して当時の出雲大社を復元しますと(のちに建築会社の大林組が復元図を作成し、東京書籍から書物として刊行しました)、現在の本殿の二倍の48メートルの高さとなり、16階建てのビルに匹敵する造営物となります。

 現実に古墳時代のころに出雲に巨大神殿が存在したから『古事記』や『日本書紀』の神話が生まれたのか、『古事記』や『日本書紀』の神話が7、8世紀のころに作成されたから出雲大社は巨大となったのか、という疑問はつねにつきまといます。

 おそらく正解は両者の中間にあります。事実が先で神話は後という考え方と神話が先で事実は後という考え方のあいだに真実があるのでしょう。

 国譲りの地、日没の地、死者の国、葦原中国という四つのキーワードについても、なんらかの事実=史実の反映とイデオロギーとしての神話という二つの性格をつねに考慮する必要があります。

 出雲と大和(伊勢ではありません)との関係についてはすでに多くの説が歴史学者や神話学者によって提出されています。大和の王権によって作成された『古事記』や『日本書紀』のなかに、なぜあれほど重要な役割をおびて出雲が登場してくるのかという問題です。これにたいする解答は大きく二つにわけることができます(水野祐氏『古代の出雲と大和』大和書房・1975年)。

A 神話における出雲は現実の出雲国ではなく、大和に対する反対概念として精神史的に成立した世界であるとする見解。

B なんらかの形で大和国家が出雲地方を征服したことを前提として出雲の伝承を解釈しようとする見解。

 つまり、『古事記』『日本書紀』の出雲については、つねに神話か史実かという二つの論がからみあって存在していることが研究史の大観をとおしてもあきらかになります。

 私がこの通信でかんがえようとしていることは、伊勢神宮と出雲大社であって、大和と出雲ではありません。しかし、この私のテーマにおいても、上記のA,B二つの見解は、択一ではなく相関としてからんできます。ただ、信仰の問題ですから、Aに大きくかたむくことは否定できません。

 伊勢神宮についての記事はまず『古事記』の天孫降臨の個所にみることができます。

〈アマテラスはニニギを降臨させるときに、勾玉・鏡・草薙の剣の三種をあたえて、「この鏡を自分の御魂としてたいせつに祭りなさい。思金神は祭儀をおこないなさい」と命じられた。そこで鏡と思金神の二柱は五十鈴川にまつられ、登由宇気神は外宮の度会に鎮座なさっている。〉

 ついで、伊勢神宮が創建された事情は『日本書紀』の崇神天皇6年と垂仁天皇25年の個所につぎのようにのべられています。要点だけをしるします。

崇神天皇6年
〈5年に国内に疫病が多く、6年には百姓が離散し、なかにはそむく者がいた。その威勢は皇徳をもってもおさめることができなかった。そこで天皇は早朝から政務にはげみ、天神地祇に謝罪を乞われた。これより先、天照大神・倭大国魂の二神を皇居にまつっていたが、神威をおそれ、二神とともに住むことに不安を感じられ、天照大神を豊鋤入姫命に託して大和の笠縫邑にまつり堅固な神域をつくった。また倭大国魂神を渟名城入姫命に託してまつらせた。ところが渟名入姫命は髪が落ち身体はやせほそって神をまつることができなかった。〉

垂仁天皇25年
〈春2月、天皇は先帝崇神天皇にならって天神地祇の祭祀につとめることを宣言された。3月、天照大神を豊鋤入姫命からはなして倭姫命に託された。倭姫命は鎮座する場所をもとめ、倭の宇陀、近江、美濃とめぐり、天照大神の神託にしたがって、社を伊勢に建て、斎王宮を五十鈴川のほとりつくられた。こうして伊勢国は天照大神がはじめて天より降臨された地である。〉

 この記事の解釈についても、じつは神話と史実という二つの立場があります。たとえば、伊勢神宮の成立史に一つの転機を画された歴史学者の直木孝次郎氏は、伊勢の地は東に海をひかえるという自然条件がそなわっていて、もともと太陽信仰がさかんであり、そこに太陽を神格化した伊勢大神がまつられていたとされ、その伊勢大神と天照大神が合体して伊勢神宮になったと主張しています(『日本古代の氏族と天皇』塙書房・1964年)。この説には反対説が出されていますが、まったくなんのゆかりもない伊勢の地にとつぜん伊勢神宮がつくられたというのも納得できません。なんらかの核となった信仰がこの地に存在したとみるべきでしょう。

 ただ、史実だけで伊勢神宮の成立を説こうとするのも無理な話で、王権のイデオロギーの観点から当時の精神史を読みとかねばなりません。そのときに最大の鍵となるのが、出雲大社との相関です。

 前掲の『古事記』の記事はすでに伊勢神宮が五十鈴川のほとりに建設されおわっていた時代に、そのいわれを神話的に説明した記事です。この記事だけからでは出雲大社との関係を読みとることは困難です。

 問題は『日本書紀』の崇神天皇の個所と垂仁天皇の個所の二つの記事です。崇神天皇の記事は、

1 国内に災害がおこりおさまらなかった。

2 天皇はふかく反省し、皇居内にまつっていた天照大神と倭大国魂の二神を皇居から出してほかの地にまつらせた。しかし、倭大国魂神はその祭祀をうけいれなかった。

とまとめることができます。国内の災害は依然おさまりません。その理由の一つは倭大国魂神の祭祀に失敗したからです。では、天照大神の祭祀はどうなったのでしょうか。もうすこし『日本書紀』の崇神天皇の記事をたどってみましょう。

3 国内の災害は依然おさまらず、崇神天皇は神浅茅原で神々の神意をうらなわせた。そのときに大物主神が巫女にのりうつり、「自分をわが子の大田根子にまつらせよ」と告げた。

4 さらに三人の臣下がおなじ夢をみたので、天皇はそのお告げにしたがって、大物主神と倭大国魂神をまつらせたところ、国内は平穏におさまった。

5 そののちも、天皇の夢に神々のお告げがあり、その教えにしたがって神々をまつると、国内はしずまったが、辺境地帯の騒乱はおさまらなかった。天皇はそこで四道に将軍を派遣された。

 大物主神という文字どおりに大物の神をはじめとする諸神の祭祀によって、大和地方は安定しましたが、四道に代表される辺境の地の騒乱はいっこうにおさまりません。その最大の理由は天照大神の祭祀方法にあるはずですが、崇神天皇の記載には、そのことは明記してありません。そして、『日本書紀』の崇神天皇の記述は天皇の御世最大の騒乱として出雲大社の神宝事件を記録しておわります。

6 天皇は群臣に詔して天から下った出雲大社の神宝を見たいとおっしゃり、使いを派遣された。その時、神宝を管理していた出雲振根が筑紫に出かけて留守であったので、弟の飯入根が神宝を天皇に献上した。筑紫からもどった振根は勝手な振る舞いに激怒し、弟を止屋の淵につれだしだまし討ちにして殺害した。その知らせを聞いた天皇は兵をおくって振根を討伐された。出雲の人たちは、この事件におそれてしばらく出雲の大神をまつらなかったが、大神が小児の口をかりて祭祀の中絶をなげかれたので、ふたたび勅をくだして大神をまつらせた。

 垂仁天皇は崇神天皇の第三子で、跡をついだ天皇です。この天皇の治世は父崇神のしのこした事業の完成についやされた感があります。その一つが、父天皇の時代にきしみの目立った出雲との関係の修復です。

 相撲の起源として有名な当麻蹴速と野見宿弥との力比べはこの天皇の時代におこっています。そのときに蹴速を蹴ころした宿弥は天皇が噂をきいて出雲からよびよせた勇士であり、彼は生きた人を埋める殉死の習俗をあらためるために、出雲から土部百人をよんで埴輪をつくらせています。口のきけない皇子が口をきくきっかけになっためでたい白鳥がとらえられたのも出雲であり、出雲大社の神宝を完全に朝廷の管理下においたのもこの天皇の時代でした。

 垂仁天皇が父の時代からの懸案であり、辺境騒乱の原因となっていた天照大神の祭祀方法の最終的決定者となったところに、『日本書紀』の作者のふかい意図が読みとれます。その論理はつぎのようにまとめることができます。

 ア 国内(大和)・国外(大和の外)の騒乱は神々の意志のあらわれである。

 イ 国内(大和)の治安は主として大物主神が関与しており、その正しい祭祀(三輪神社の造営)でほぼおさまった。

 ウ 国外(大和の外)の治安は主として出雲大神の関与するところであり、その神宝の管理と対抗する天照大神の正しい祭祀(伊勢神宮造営)が治安の維持に不可欠であった。

 ここで留意すべき点を二つあげておきます。

a 伊勢神宮は出雲大社と対立・拮抗する神社として創建された。

b 三輪神社の祭神大物主神と出雲大社の祭神大国主神とは同一神格である。

 このきわめて興味ぶかいa,b二つの留意点を中心にさらに次回以降、伊勢神宮と出雲大社の関係を検討します。

 今回はこの辺で失礼します。


諏訪春雄通信 TOPへ戻る

TOPへ戻る