諏訪春雄通信 55


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 最近、卒業生の就職の件で、推薦状を書く機会が2回ありました。相手の要求に合わせてその条件にいかに本人が適合しているか、まさに自分が就職希望者になったようなつもりで、誠心誠意執筆します。2通の結果はまだ判明しませんが、希望が達成されることを願っています。

 このごろ、大學などのばあい、募集条件はきまって、幅広い文化史的な視野に立った指導能力をもとめてきます。国語国文学という学科がほとんど姿を消し、比較文化、日本文化、総合言語などに様変わりしてしまった実情を反映しています。

 そうした風潮を当然として容認し、むしろ好ましいものとして歓迎しながら、しかし、一方では、それでよいのか、という気がしないわけではありません。比較というと、いきなりヨーロッパへ飛んでしまうのは、どこか違うのではないかといういう感覚です。

 また、自分の限定された専門分野をふかく掘り下げた体験をもたずに比較や総合ができるのかという、あたりまえすぎる思いです。

 比較はまず日本を知ることからはじまるべきだとかんがえます。日本文化にたいする学識と見識なしにどんな比較も意味がないのではないか。自分は比較民俗学などと名乗ってはいますが、究極の願いは日本人と日本文化の本質を知ることにあります。

 すでにこの通信でも何回かふれてきましたが、「新日本古典百選」の仕事をすすめています。この百種の古典は日本人と日本文化を知るための書であって、かならずしも古典文学には限定されません。いまのところ、いわゆる古典文学6割に宗教・科学・政治・思想などの書が4割くらいをしめています。私じしんの選定は一応おえましたが、ほかの監修者のご意見をきかなければなりませんし、私もさらに検討をくわえたいとおもっています。その成果はいずれご披露します。

 前々回にひきつづき「伊勢神宮と出雲大社」をテーマにのべます。

 伊勢神宮にまつられる神は内宮では天照大神であり、外宮では豊受大神です。この豊受大神が外宮にまつられるようになった事情は『記紀』にはふれられていず、外宮の縁起をしるす、平安時代のはじめに成立した『止由気宮儀式帳』にのべられています。「雄略天皇の御世、天皇の夢に天照大神があらわれ、ひとりでは不便で食事もできないので、丹波の国から食物の神である止由気大神をよびよせなさい、と命じられた」という内容です。

 豊受大神の「うけ」は食物を意味する「うか」の転化した語で、記紀神話に登場してくる食物の神、ウカノミタマ、オオゲツヒメ、ウケモチノカミなどと同一神格であろうといわれています。

 おもしろいことに、これらの神々はいずれも天照大神とのふかい関わりをもって神話に登場してきます。身体から五穀をはじめとする食物を生みだし、オオゲツやウケモチはきたないという理由で、スサノオ、ツクヨミに殺害されています。

 そこからつぎのようなことが推定されます。これらの食物の神は本来は天照大神の分身であったのではないでしょうか。

 天照大神は穀霊であり豊穣の女神です。本来は豊穣にともなう汚濁性のようなものも身におびていたはずです。食物をつくりだすということはけっしてきれい事だけではすみません。しかし、天照大神が皇祖神、日神としての神格を上昇、純化させていったときにその多様な性格のなかから豊饒性と汚濁性を分与された神が豊受、オオゲツなどの食物神だったのではないでしょうか。

 出雲大社で豊受大神にあたる神がスサノオです。本社の本殿の背後、八雲山の麓にある摂社素鵞社の祭神がスサノオであり、大国主とスサノオは本来は主神と摂社神の関係だったとみられますが、しかし、平安時代ごろから両神は混同されていきました。すでに『延喜式』の「神名帳」にその兆候がみとめられますが、江戸時代になりますと、境内の青銅の鳥居の銘文をはじめ、出雲大社の祭神をスサノオとする記録がいくつかあらわれます。

 『記紀』の記録ではスサノオと大国主は父子または祖先と子孫です。両神の性格については、暴風神・武神(スサノオ)、国土生成神・豊穣神・農業神・医療神・武神(大国主)など多様な解釈が提出されています。しかし、はっきりしていることは、この両神が一対となって相互に補完する形で、出雲世界を形成していることで、そのさいに、大国主の陽にたいし、スサノオが陰の部分を主としてうけもっています。その陽と陰の関係は、伊勢神宮における天照大神と豊受大神の関係に対応し、全体として伊勢神宮の静的世界にたいする出雲大社の動的世界を形成しています。

 両社の神宝についてかんがえます。伊勢神宮の神宝が三種の神器の一つであることは『記紀』以下の各種記録に出てきます。出雲大社の神宝は二振りの剣です。『出雲風土記』に天の神々が出雲大社をつくったときに天御鳥命が天降って神宝の楯をつくったとあり、対応する記事が『日本書紀』の崇神天皇60年の条にあります。また二振りの剣については現在出雲大社が所蔵している後醍醐天皇の綸旨にあらわれてきます。

 出雲大社の剣と楯の神宝は、伊勢神宮の日輪を象徴する鏡の神宝とはいかにも対照的ですが、多くの武器を意味する八千矛神の異称をもつ大国主を主神とし、武神の性格をもつスサノオを副神とする出雲大社にふさわしい神宝です。スサノオの草薙剣奉納の神話とも照応して、和の伊勢神宮にたいする武の出雲大社という対比を際立たせています。

 出雲大社の西向きの神座についてかんがえます。一般の神社の本殿は中国の南北軸重視の思想の影響をうけて、南面したものが多く、出雲大社も例外ではありません。ところが、本殿が南面しているにもかかわらず出雲大社の本殿内部の神座は西向きです。したがって参拝者は神を側面からおがむことになります。

 この事実については、これまでに、横座説(千家尊統氏『出雲大社』学生社、1968年)、西北信仰説(三谷栄一氏『日本文学の民俗学的研究』有精堂、1960年)などが提出されています。

 横座は囲炉裏の周りにもうけられた家長の座が正面ではなく横にもうけられる民俗をさします。しかし、囲炉裏の位置取りによってさまざまな方角にもうけられ、かならずしも西向きとはきまっていません。

 西北信仰説は、柳田國男の「風位考資料」などによりながら、古代人は霊魂のかえってゆく方角として西北(戌亥)をかんがえていたとし、出雲は大和からはおおよそ西北の方角にあたり、敗者である大国主の隠れる地にふさわしかったとする説です。神座の西向きもその延長線上とかんがえます。この説にはそれなりの信奉者があります。

 しかし、正解に達するためには、つぎのような事実を考慮しなければなりません。

1. 出雲は大和や伊勢からみてじつは西の方角にあたり、西北とはかなり大きくずれている。

2.注連縄の綯い方が通常の神社の右綯い(綯いはじめを向って右とし、綯いおわりをむかって左に設定する)ではなく、逆の左綯いであり、張り方も一般神社とは逆に向って左を上位としている。

 出雲大社は全体としては南北軸重視の中国の方位観の影響下にありながら、神座が西にむいているのは、西が海に面して日没の方向にむかっているからです。つまり、神座は東西軸重視の太陽信仰にしたがっているのです。これはすでに紹介したように、伊勢と出雲に東西軸の方位をかんがえる多くの研究者の見方です。

 注連縄の左綯いは、この通信44で具体例をあげたように、日本の一般社会にもみられる民俗です。中国古代の南北軸重視の世界観のなかで、右回りを天、君主、雄、男、陽とするのにたいし、左回りを地、臣下、雌、女、陰とする観念があることもすでに指摘しました。注連縄の左縫いは、伊勢神宮の天・陽にたいする出雲大社の地・陰という本質をしめし、王権にたいする臣下という関係性をあらわしているのです。

 さらに、私は、(1)20年ごとの式年遷宮の制度をもつ伊勢神宮にたいし、この制度をもたない出雲大社、(2)20メートル余りの巨大な心の御柱を中心にもつ出雲大社の大社造りにたいし、床下に小さな心の御柱をもつ伊勢神宮の唯一神明造り、という二つの事実を諏訪大社御柱祭りとからめて考察することにより、〈弥生系〉の伊勢神宮にたいし〈縄文系〉の出雲大社という結論をみちびきだす予定ですが、今回はこの辺で失礼します。


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