諏訪春雄通信 56


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 2002年10月5日(土曜日)午後2時から、学習院大學人文科学研究所共同研究プロジェクト(中国調査予算の一部はアジア文化研究プロジェクトから出ています)で今度の夏におこなった中国とトカラ列島悪石島の調査報告会が開催されました。

 3人の講師の報告テーマはつぎの通りです。
1. 羌族の祭と生業        東洋大學助教授 有澤晶子氏
2. 農耕漁労民―日本トカラ列島  学習院大学兼任講師 石井優子氏
3. 日中祭祀の形態        学習院大學教授 諏訪春雄

 各氏の持ち時間はわずか30分だったにもかかわらず、充実した内容でした。有澤氏の発表は羌族の歴史と文化のきわめて要領を得た概括からはじまって、伝統的な祭りである祭山会の分析におわるまで、論旨がみごとに整理されていました。その聡明さにただ感服です。

 石井氏は調査日程の紹介からはじまり、悪石島の民俗行事を精密に分析し、盆行事のボゼに焦点をむすぶまで、これも時間の短いのが惜しまれる内容でした。もともと学部、大学院と一貫して初期歌舞伎を研究した人ですが、最近は、私の勧めもあって、民俗芸能、ことに民間神楽の研究にうちこんでいます。彼女の研究者としての成長をよろこびたいとおもいます。

 両方の調査に参加したのは私だけでしたので、私の話はお2人の調査報告のまとめをおこないました。祭りの形態をきめる、もっとも有力な根本則は生業、つまり食糧獲得ための経済段階であるが、現実の祭りはいりくんだ文化複合のなかに存在するという趣旨から、各種の文化複合の実例をあげて検討しました。

 当日の会場からのご質問にたいする私の寸感。トーテミズムは、ある人間集団がある種の動植物あるいはほかの事物と特殊な関係をもっているとする信仰ですが、そのあらわれ方は多様であり、学者による定義もさまざまです。ただ中国の学者はわりあいゆるやかに規定し、図騰(トゥートン、トーテム)を崇拝の対象とする動植物くらいに解釈します。

 悪石島に沖縄のウタキ(御嶽)にあたる聖地はありません。ウタキは多くは男子禁制の女性が管理する拝所ですが、悪石島の祭祀主体は男性であり、女性は補助者の位置にとどまっています。ただ、古い神祠の在り場所は海岸線に沿った山、森などのなかにあり、ウタキに似た環境といえます。

 お2人の講師ならびに当日会場においでいただいた聴衆の皆さんに篤くお礼を申しあげます。勉誠出版社長池嶋洋次さん、前田憲二監督、学習院大学日本語日本文学科元助手野原佳代子さん、院生、事務局の皆さんなども加わった揚子江での打ち上げの会は、例によって楽しいひと時でした。

 前回につづいて「伊勢神宮と出雲大社」というテーマについてかんがえます。

 伊勢神宮には20年ごとに神社の移転をともなう改築をおこなう式年遷宮という制度があります。しかし、出雲大社にこの制度はありません。なぜでしょうか。式年遷宮は、神社で、一定の年数をさだめて神殿を造営し、旧殿のご神体をそこにうつすことをいいます。伊勢神宮が有名ですが、古い神社には一般的におこなわれている制度です。

 貫前神社(13年目)、下賀茂神社(21年目)、春日大社(21年目)、住吉大社(20年目)、香取神宮(20年目)、鹿島神宮(20年目)、宇佐神宮(30年目)などはその例です。

 申すまでもありませんが、年数が経過して老朽化した神社を建てなおすことを式年遷宮とはいいません。江戸時代の記録によると、出雲大社も、慶長14年(1609)、寛文7年(1667)、延享元年(1744)に建てかえられています。式年遷宮はまだ充分に耐用年数がのこっている神社を一定年数で区切り、場所を変えて建てかえることをいいます。

 なぜ式年遷宮のような制度がおこなわれているのでしょうか。これまでに提出されている説にはつぎのようなものがあります。

  1. 社殿の多くは木造建築であるため一定の期間を経ると耐久力をうしなうから、20年、30年、50年などの式年をもって改築・修理をおこなう必要がある。
  2. それが神宮のごとく20年が一周期とされたのは、工匠その他造営に従事する技術者の都合上からで、すなわち一世代を30年としてその前期10年は父親の手助けとしてはたらき、後期10年は年を取り息子の時代としてみずからは監督の時期とすれば、実際に働き得る期間は前・中期の20年間とみる考えからとするもの。
  3. わが国の神の道は清浄をもって根元とするから、時期をさだめて社殿を新しく造営し、清々しいところに神を遷すためとするもの。
  4. 神が新しい御殿に遷ることによって若返り、より強く大きい力で加護してくれることを信じ祈るため。
  5. 神の降臨を仰ぐ場合は必ず真新しい住まいに招くという伝統的習俗によるとするもの。
  6. 原始時代の物の数え方によれば、片手片手で10、そしてそれを裏返すと20となり、その20という最大数をもってきたものとする説。

 これは『国史大辞典』(吉川弘文館)の「式年遷宮」という項目解説にあげられている説です。このうちは20年という期間がえらばれた理由の説明であって、式年遷宮という制度の起源の説明にはなりません。このほかに古代天皇が一代ごとに都を変えた歴代遷宮を伊勢神宮の式年遷宮とむすびつける考えが田村円澄氏の『伊勢神宮の成立』(吉川弘文館・1996年)にみられます。

 式年遷宮の起源についてかんがえるときに、大切なことは、わが国最古の神社であるにもかかわらず、出雲大社がこの制度をもたない事実を同時に説明できる説でなければならないということです。

 そのために、私は「動かない神」「動く神」という神観念の二分法を提示します。

 人類の信仰の初期の段階では、神は物体に内在して動くことがなく、森、山、磐、樹木、海、淵などがそのままに神と観念され、それらの存在する場所が聖なる祭りの場となりました。こうした信仰形態はいまも民俗社会で容易にみることができます。

 しかし、やがてこの「動かない神」が動きだす段階がきます。物からはなれて神は動きまわり、人々の祈りに応じて、祭壇に飛来します。なぜ「動かない神」から「動く神」への変化がおきたのでしょうか。私はアジア文化研究プロジェクトの会報10号に「神はなぜうごきはじめたのか」という一文を寄せて、幻覚としての神、循環する神、くりかえす自然現象、複数の神が同一の信仰対象となり同一の神が複数の信仰対象となる現象、の4つの理由をあげて、この問題を説明しました。くわしく知りたい方は、プロジェクトの事務局へ会報10号をご請求ください。

 動かない神と動く神の二分法は、つぎのような宗教現象を説明するのにきわめて有効です。

 依代の誕生 シャマニズムにおける脱魂型と憑依型の区分 神そのものと観念される仮面と神がのりうつる仮面 神社・祭壇の誕生 神輿渡御 お旅所など

 式年遷宮もまた「動かない神」「動く神」の二分法で説明できます。というよりも、この二分法でしか納得できる解明はできません。ただ、そのためには、「動く神」が再度「動かない神」となる段階がくることを理解しなければなりません。神は神社に常住、いますと観念される、神観念変化の最終段階です。

 神社の誕生にさかのぼってかんがえてみます。山や森、磐などの自然が神とみなされていた段階では神社は存在しませんでしたが、神が動きまわる段階がきたときに、祭りの期間に神のよりつく依代が設定されます。その依代は自然物がそのままに利用されるばあいと、祭壇などの人工物がもうけられるばあいの二つがありました。そして、はじめ臨時の施設であった祭壇は種々の理由で恒久化していきます。

 現在の荘厳化された神社建築の段階になっても、神をまつる社殿がもともとなかったという民俗の記憶は、奈良県の大神神社、長野県の諏訪大社本宮、埼玉県の金鑚神社など、拝殿はもつが神をまつる本殿をもたない建築様式のなかに生きのびています。文化の重層構造です。

 式年遷宮もまた文化の重層構造の産物です。神社が恒久化した時代にも、祭りのたびに祭壇をつくりなおすという古い民族の記憶が生きのびて、一定期間を経過した神社を建てかえる制度となったのです。それにたいし、出雲大社は、もう一段古層の、神が動かず、樹木をそのままに神とあがめる信仰を基盤にして、オオクニヌシやスサノオなどの人格神の信仰がそこにかぶさってきています。

 説明が錯綜しましたので、わかりやすく整理しておきます。

第一次動かない神の段階
1 自然物 2 人工の臨時祭壇 3 人工の恒久祭壇 4 人工の恒久神社

動く神の段階
5 自然物の依代 6 人工の臨時依代 7 人工の臨時祭壇 8 恒久の神社

第二次動かない神の段階
9 式年遷宮の神社 10 恒久の神社

 この表によりますと、出雲大社は、伊勢神宮はです。なぜ1と5を基層の信仰として4や9にくわえたかは、次回に心の御柱について説明するときにあきらかにします。

  出雲と伊勢の両社はおなじ現代の神社といっても、その信仰と建築形式のあいだには長い時間と段階の相違があります。それを私は〈縄文系〉〈弥生系〉と表現します。〈縄文系〉〈弥生系〉はそのまま縄文時代、弥生時代を意味するのではなく、両時代の特性をそなえた一種の記号とおかんがえください。

 今回はこの辺で失礼します。


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