諏訪春雄通信 61


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 11月7日(木曜日)と8日(金曜日)の両日、学習院創立百周年記念会館で「日韓越三国古代文化の比較研究」のテーマで講演会・シンポジウムが開催されました。ご参加いただいた方も多いとおもいます。ベトナムから2名、韓国から2名、日本から私をふくめて4名の計八つの講演がおこなわれ、最後に総括するためのシンポジウムが、全講師参加のもとで、私の司会でひらかれました。

 ビザの認可がおりず、ベトナムからの来日が予定より大はばにおくれ、前日の6日にようやく到着されるなどのアクシデントはありましたが、実りの多い成果を生んで、無事に楽しく終了しました。準備に苦労をかさねられた事務局の皆さんにお礼を申します。

 中国文化周辺のベトナム、韓国、日本三国の古代文化を検証するという試みは充分に達成されました。ことに、大きな成果はベトナムから来日された国立社会科学センター民俗研究所所長ゴウ・トク・テンさんのベトナム・キン族のシャーマニズム母道の報告、同研究員グェン・トウイン・ルアンさんのベトナム少数民族タイ族のシャーマニズムの報告でした。パソコンを駆使した報告形式と、永年の調査研究の成果の要領を得た完璧なまとめには、ただただ感心しました。

 私は1996年に最初のベトナム調査をおこない、そのあとも一回訪れています。そのさいに母道を見て、韓国のムーダンクッとの類似性に注目したのが、今回の招聘のきっかけでした。信仰から芸能、演劇に転化したという理論を中国をふくめた東アジア社会で構築したいという私の長期目標の一つにとって、このうえない援軍でした。

 今日(9日)と明日の二日間、大阪府和泉市で開催される全国大學同和教育研究協議会の講演会に講師としてまねかれている私は、すぐに出発しなければなりません。通常の通信文を作成している余裕がありませんので、来週の17日(日曜日)、姫路市の姫路文学館で、やはりこれも、記念講演の講師として配布する資料をこのあと、掲載します。今回の特別展は、私が昭和30年代に発表した論文の論旨に完全にしたがって構成されています。私にとっても青春の思い出です。関心をお持ちの方はぜひご一読ください。

 日本民族の青春―お夏清十郎ものがたりー

 近世の評価
 近世、つまり江戸時代にたいする評価が大きく変った。長い間、江戸時代は暗黒の封建時代という見方がおこなわれていた。士農工商という身分制度のもとに、農工商すなわち庶民の自由は抑圧され、女性は人権をみとめられず、家庭では父だけが絶対的な権力をふるっていたというように。もともと封建制ということばは、中国にはじまったもので、中央政府が地方に権力を分散させる政治形態であって、それ自体は、抑圧とか人権無視とかいう意味はもっていないが、日本ではながく、人権圧迫の暗黒時代という意味で使用されてきた。こうした見方が定着したのは、明治になって新政権を確立した薩摩長州の連合勢力が、自分たちが打倒した徳川幕府支配下の江戸時代をことさらに否定する宣伝をおこなったためであり、明治のころに形成された江戸時代にたいする見方がそののちの日本人の江戸時代観を支配していた。

 しかし、1970年代ころから、日本の近代・現代の功罪がきびしく問われ、否定的見方が台頭してくると、逆に江戸時代の再評価がはじまる。再評価は多方面にわたっているが、整理するとつぎの3点にまとめられる。

  1. 江戸文化にたいする評価。浮世絵に代表される美術、歌舞伎・文楽に代表される舞台芸能、料理・衣装・建築に代表される和風生活、西鶴・芭蕉・近松・蕪村などに代表される文芸など。
  2. 270年間つづいた長期の平和にたいする評価。外国との戦争がなく、国内でも大きな戦乱がなかった。
  3. 明治以降の近代を準備したことへの評価。日本の近代は明治にはじまるという、これまでの考え方にたいして、すでに八代将軍吉宗の洋書の解禁から日本の近代は準備されていたとする。
     江戸時代暗黒説がゆきすぎであるように、江戸時代天国説もそのままで受けとることはできない。このばあいでも、正解はその中間にある。

 日本民族の青春とは何か

 私は、今回の講演のタイトルを「日本民族の青春」と命名した。日本民族は、日本人という呼び名が生物学的な形質上の特質にかたむいた呼称であるのにたいし、文化の共通性と同族意識に注目した呼称である。青春は比喩として、夢や希望に満ちた活力のある時代という意味で使用している。かんたんにいえば、江戸時代のはじめ、四代、五代将軍の統治下の延宝・天和(1673〜83)くらいまでの7、80年間の時代とその時代の活力をさして、日本民族の青春とよんでいる。お夏清十郎ものがたりの原型はその時代につくられた。

 なぜ、近世のはじめの7、80年間なのか。
第一に、長い戦乱がおわって平和が到来したということ。戦乱がおわって平和がきたというだけなら、源平合戦がおわって鎌倉幕府が成立した12世紀の末から13世紀の初めの時代も条件にあてはまるかも知れない。しかし、日本全国をまきこんだ戦乱の規模の大きさと長さで江戸時代の初めは鎌倉時代の初めとまったく異なる。源平合戦すなわち治承・寿永の内乱は、たしかに、奥州から九州までをまきこんだ全国規模の戦乱ではあったが、その期間は約10年間にすぎない。全国規模といっても、全国がいっせいに戦争状態にはいり、それが10年間つづいたのではなく、多くのばあいに局地戦争であった。約1世紀にわたる戦乱が継続した中世末の戦国時代と規模、長さを比較することはできない。

 第二に、そのあとに成立した幕府権力の強大さが、徳川幕府と鎌倉幕府は比較にならない。執権北条氏が実権をにぎり、源氏将軍はわずか3代でほろんだ鎌倉幕府にたいし、おなじ幕府であっても、徳川幕府は15代にわたって、家康の血筋が継続し、日本史上まれにみる強力な中央集権政府をつくりあげた。延宝・天和を日本民族の青春の終焉時代とかんがえるのも、この時代が幕府権力の最初の確立時期であったからである。延宝年間は4代将軍家綱の治世であり、徳川幕府が実施した最初の大きな幕領の検地がおこなわれた。延宝の最後の8年に家綱が没し、跡をついだ5代綱吉は天和の治とよばれることになる権力政治を実行した。その中心は大名・旗本を大量に処分した〈賞罰厳明〉であり、世襲的代官にかわる官僚的代官を配置して年貢収入の増大であった。

 あとにつよい締め付けがあっただけに、80年の青春が貴重である。江戸時代はいわれてきたような暗黒時代ではなかったが、強力な幕府権力の支配下にあった時代であった。

 第三に、豊かな、伸び伸びとした文化のはぐくまれた時代であった。キリスト教の宣教師たちによってヨーロッパの印刷術、秀吉に出兵により大陸の印刷術が日本にもちこまれ、キリシタン版、駿河版、光悦版などの古活字本の書物が刊行され、さらに印刷法が改良工夫されて木版印刷がさかんになる。その結果、仮名草子とよばれた多様な分野の書物が出版されて、日本人のなかに大量の情報と娯楽が浸透していった。
 お夏清十郎ものがたりは、まさにこの日本民族の青春時代に誕生した。

 お夏清十郎ものがたりの4段階
 人間が誕生して幼少年時代をすごし、成長し、完成し、やがて老化してゆくように、お夏清十郎ものがたりも、誕生、成長、完成、老化の4段階を経過して変化している。それはまさに、江戸時代の日本民族がたどった4段階とみごとに対応しており、この物語の展開をたどることによって、私たちは、江戸時代の日本民族の歴史を知ることができる。その意味では、1文芸にとどまらず、日本民族の歴史の象徴といえる。あらかじめ、お夏清十郎ものがたりのたどった4つの段階をしめしておけばつぎのようになる。

  1 歌謡時代―誕生―        放浪の青春
  2 小説時代―成長―        反抗する青春
  3 人形浄瑠璃時代―一つの完成―  閉じ込められた青春
  4 歌舞伎・文楽時代―老化―    失われた青春

 以下、この4つの段階のお夏清十郎ものがたりについて説明する。

 反抗する青春―成長―
 お夏清十郎ものがたりの全体を認識するために、2の成長時代から説明する。この段階の代表作は貞享三年(1688)に刊行された井原西鶴作の小説『好色五人女』の巻一におさめられた「姿姫路清十郎物語」である。かんたんに梗概をたどっておく(参照、姫路文学館『お夏清十郎ものがたり』図録19ページ)。

 室津の酒屋和泉清左衛門の跡取り息子清十郎は14歳の秋から室の遊里にかよい、大勢の遊女と放蕩をつくし、父から勘当された(恋は闇夜を昼の国)。清十郎は知人の世話で姫路の商人但馬屋九右衛門の手代となったが、主人の娘お夏といつか恋仲になった(くけ帯よりあらはるゝ文)。播州の尾上の桜見物に但馬屋一家が出かけた日、清十郎は太神楽に人々の注意をひきつけ、その隙に小袖幕のなかでお夏と契りをかわした(太鼓による獅子舞)。清十郎はお夏をつれだし、飾磨津から大阪行きの船に乗ったが、同船した飛脚が、宿に状箱をわすれたために、船が港にもどり、追っ手にとらえられた。折から但馬屋から700両の金が紛失し、その罪が清十郎にかかって25歳の4月18日に処刑されたが、700両はそののち発見された(状箱は宿に置いて来た男)。里の子どもたちが「清十郎殺さばお夏も殺せ生きて思いをさしょよりも」とうたっているのを聞いたお夏は清十郎の死を知り、「むかい通るは清十郎じゃないか笠がよく似た菅笠が」とうたいながら、狂乱してさ迷いあるいた。16歳の夏、お夏は尼となって仏につかえ、生涯をおわった(命のうちの七百両の金)。

 この作品はお夏清十郎ものがたりの成長型である。成長型といったのは、誕生時代の特性をよく継承しながら、しかものちの完成・老化につながってゆく要素もまたそなえているからである。成長の途中にありながら、しかも過去と未来をほどよくそなえているという、まさに人間の青年期にあたる作品である。過去の要素と未来の要素と、さらにこの作品の独自性と、三つにわけて説明する。

T過去の継承 
1.主人公たちは家に落ち着かず放浪しようとしている。2.歌謡が重要な役割をはたしている。

U未来の先駆け
1.都市の商家の主人の娘と手代の恋。2.不幸な結末。3.史実性。

V独自性
1.的な恋愛。2.開放的な性。3.慣習への抵抗。

 Tについてのべる。姫路の商家の手代と主人の娘の恋は、終わりをまっとうすることはできなかとUについてはのちに説明することにして、ここではVったが、主人公たちのあかるい行動的な恋愛と開放的な性行動は、作家西鶴の個性的な特色であるとともに、まだ民族の青春時代の余韻をたもっていた時代の反映でもある。高砂の浦での春の野遊びでの契りは、おおらかにのびやかで、しかもユーモラスでさえある。それらが、世の慣習への抵抗にもなっている。こうした特色は西鶴以前にも以後にもないものである。

 放浪の青春―誕生―
 お夏清十郎の事件がおきた年次については、万治2年(1659)、万治3年、寛文2年(1662)の三つの説がある。いずれが正解かは確証を欠いているが、万治2年、3年説は、江戸時代から近代、現代まで、近松の浄瑠璃「おなつ清十郎五十年忌歌念仏」が宝永六年(1709)の上演とされてきたところから、宝永6年から50年さかのぼった時期に設定された可能性がつよい。現存する資料がすべて寛文以降のものであり、三回忌にあたる寛文四年、七回忌にあたる寛文七年に、それぞれ追善の踊りが流行したり、記念の出版がおこなわれたりしているところから、寛文二年説に比較的妥当性をみとめる。

 西鶴の作品が生まれるまでに、お夏清十郎ものがたりは歌謡として、さまざまな筋をもってうたいつがれていた。その共通のテーマは、放浪の青春である。歌謡群の冒頭部分だけをかかげる。

播磨地方の金山悲話歌謡
 おれは播磨の三木の長嶋の者なるが、今年はじめて金山へ、いとし清十郎が旅へ立つ、ふじはこがれて金山へ
 (おふじ清十郎を主人公とした悲恋歌謡)

佐渡金山開発をめぐる悲話歌謡
 私の弟の千松は 七つ八つから金山へ 金を掘るやら死んだやら
 ちよが父さん金山で 金が湧くやら湧かんやら
 (近世はじめに最盛期をむかえた佐渡金山には日本全国から人がおしよせたがその地で死んだ者も多数いた)

街道で殺された旅人
 向う通るは袈裟女じゃないか菅の小笠に竹の杖
 向かいに見えるはお駒のどうせん肩に掛けたる帷子

このような各地の歌謡にうたわれた悲恋歌謡を姫路に定着させたのが、寛文はじめに姫路でおきた実際事件であった。その事件は、詳細は不明であるが、最小限、つぎのような条件を満たすものであった。

  1. 女主人公の名はお夏で、男は清十郎であること。
  2. 舞台は姫路で、商家の娘と手代の恋であること。
  3. 主家の姓は但馬屋(米問屋の可能性が高い)であること。
  4. 2人の恋は破滅におわって手代は殺されたか処刑されたこと。

 この四つの条件をそなえた作品は西鶴作が最初であるが、そのすべてを西鶴の創作とすることは、『好色五人女』の中のほかの作品の創作態度からかんがえても無理があり、実際事件の存在を予想せずにはいられない。

  閉じ込められた青春―一つの完成―
 演劇としての完成した形をみせるのは、近松の『お夏清十郎五十年忌歌念仏』であるが、その先駆的な作品として、
   歌舞伎舞踊 「清十郎ぶし」  寛文年間  江戸中村勘三郎座
   歌舞伎   『但馬屋おなつ清十郎卅三年忌』 元禄5年 大阪市川・浪江座
   歌舞伎   『但馬屋清十郎五番続』 元禄十四年 江戸森田座
 これらは、西鶴作の影響がつよいが、近松作やそれ以降の歌舞伎・浄瑠璃にうけつがれた筋・趣向などもすでにそなわっていた。

 こうした作品の跡をうけて、一つの完成型をしめす近松作が宝永四年(1707)に人形行瑠璃として大阪で上演された。
 和泉国水間の百姓佐治右衛門は、姫路の米問屋但馬屋に手代として奉公している息子清十郎にあうため、娘お俊、嫁のおさんをつれて姫路へ下る途中、但馬屋の手代勘十郎にあい、清十郎が結婚話のおきているお夏と密通しており、清十郎の命をすくうためには、嫁入り道具をおさえて結婚式をあげさせないようにする他ないとだまし、そのための書類に印をおさせる(上巻)。但馬屋の娘お夏は、親の眼をぬすんで、嫁入り道具の蚊帳のなかで清十郎と契りをかわす。その現場を同僚の源十郎に発見され、主人九左衛門に知られた。九左衛門は立腹し、さらに勘十郎がしめした佐治右衛門の印のある書類から、すべてはお夏の結婚の邪魔をしようとする佐治右衛門・清十郎親子の悪巧みと思いこみ、清十郎を追い出した。清十郎は勘十郎の金子横領の罪まで着せられ、勘十郎を殺そうとして誤って源十郎を殺害して逃げる(中巻)。狂乱して清十郎をもとめるお夏。お俊とおさんも、歌比丘尼となって、「小舟つくりてお夏を乗せて花の清十郎に櫓を押さしょ」とうたいながら清十郎の行方をさがす。清十郎はとらえられ隙をみて自害する。勘十郎の悪事が露見してとらえられ、お夏は清十郎の菩提をとむらった(下巻)。

 西鶴作と近松作との類似点。1.二人の不幸をまねいた船上の事件。2.室津の遊里との結びつき(お夏の実母が室津の遊女)。3.人目を忍んで契りをかわす二人。4.女たちに好意を寄せられる清十郎。5.主人公の死につながる小判の紛失。6.出家する女主人公。両作の相違点。敵役の設定。絶対的な主人の権力。自由な行動をうばわれた二人。

  失われた青春―老化―
 『和泉国浮名溜池』  享保16年(1731) 大阪豊竹座
   農民一揆とむすびつき、悪人にだまされて地方役人の父の印をぬすみだして苦悩する清十郎。いいなづけのお俊との三角関係。

『極彩色娘扇』  宝暦10年(1760) 大阪竹本座
 姫路但馬屋の娘お夏は高砂の国主別所家に奉公中、飾磨大九郎に横恋慕された。元は武士の子の手代清十郎はお夏との恋が露見して店を追われたが、家来筋の侠客喧嘩屋五郎右衛門に庇護される。そののち呉服屋に奉公した清十郎に浪人の娘お品が恋をする。そのお品を家来筋の侠客朝比奈藤兵衛が庇護して、五郎右衛門と対立する。大九郎と悪手代のために五十両横領の濡れ衣を着せられた清十郎は呉服屋を追いだされたが、お品、お夏、藤兵衛、五郎右衛門らの献身と尽力で、加古川家に武士として帰参がかない、お夏を正妻、お品を妾とする。

 お家狂言と男伊達狂言の組み合せのなかで脇役にまわったお夏清十郎。三角関係を妻妾として解決する安易さ。

 二作ともお夏清十郎の恋愛だけでは、筋の進行を維持できず、他の強力な筋に結合されている。民族の老化、衰弱に対応してお夏清十郎ものがたりもエネルギーを枯渇させた。


諏訪春雄通信 TOPへ戻る

TOPへ戻る