諏訪春雄通信 63


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 11月10日(日曜日)と17日(日曜日)と2週つづけて、地方の講演会の講師にまねかれました。10日は大阪府和泉市で開催された全国大学同和教育研究協議会主催の「和泉の部落史と賎民文化」で「安倍晴明伝説の歴史的背景」という講演をしました。

 今年の5月26日(日曜日)におなじ和泉市で報告した「安倍晴明伝説の成立」とよく似た趣旨の内容でしたが、聴衆がまったくちがうのでぜひきて欲しいという事務局の要望で講演を承知しました。しかし、前回の話をそのままにくりかえすわけにもゆきませんので、私なりに勉強して、聖神社と晴明伝説の関係を、前回は稲荷信仰だけで説明しましたが(諏訪春雄通信41に講演要旨が掲載されています)、今回は、信太森に棲む信太狐の伝承がすでに中世末くらいまでに成立しており、その基盤のうえに稲荷信仰がかさなったという、あたらしい見解をその後に調査した資料で補強し、強調しました。

 数日後に、そのときのスナップ写真とともにおくられてきた同協議会の事務局長をつとめる関西外語大學の加藤昌彦先生のお手紙に、「先生の熱心な学問的に高いお話に感銘して聞いておりました」と記されており、まずは安堵しました。

 和泉市の大会に参加する楽しみの一つは、桃山学院大學の沖浦和光先生(名誉教授)や寺木伸明先生にお逢いして、同和問題についての最新の情報をうかがうことです。私が筑摩新書の『安倍晴明伝説』で「今もつづく素性露見の悲哀」という題で紹介したエピソードを話してくださったA先生は、じつは、寺木先生です。今回もわざわざ桃山学院大學の宿泊施設のワレン館に、私とともに泊まってくださり、多くの話を聞かせていただきました。そのなかでも、和泉地方の陰陽師村についての新しい記録の出現は、私にとってことに貴重な情報であり、また、島崎藤村の『破戒』の主人公とまったく同様な体験をもっている先生の教え子の話にはふかくかんがえさせられました。関西では、まだこのような事例が日常的に存在しているのです。

 17日の姫路市の講演では、駅までの送迎をしてくださった姫路文学館副館長の吉川信隆さんと、展示の案内をしていただいた学芸員の甲斐史子さんからたくさんのお話を聞くことができました。姫路文学館は、美しい白鷺城の姿をどこからでも見ることのできる、贅沢な空間配置の建築です。姫路ゆかりの文人たち、和辻哲郎、椎名鱗三、阿部知二、司馬遼太郎などの資料を豊富にもっていて、私のおとずれた日には、特別企画の「お夏清十郎ものがたり」のほかに司馬遼太郎展があわせて開催されていました。

 今回の展示の責任者となられた甲斐さんは、ご専門は考古学ということでしたが、私の論文「お夏清十郎五十年忌歌念仏の成立」(初出は昭和35年、のちに昭和49年の『近松世話浄瑠璃の研究』笠間書院に採録)と、著書『愛と死の伝承―近世恋愛譚−』(角川書店、昭和43年)をじつによく勉強してくださっていて、そこで私があつかった資料のほとんどすべてを、全国を駆け回ってあつめて展示しておられました。自分の研究が役にたったということで、私にとっては、楽しい、しかものちのちの思い出になるすばらしい展覧でした。

 姫路市の変貌もはげしく、昭和30年代に私がおとずれたときには、まだたしかにのこっていた、お夏の生家、本町の米屋の但馬屋跡は、今は失われてその場所もはっきりしないということでした。私は入り口をはいった店の土間にあった井戸までおぼえています。しかし、姫路が生んだ日本の代表的な悲恋伝説お夏清十郎物語が、この展示によって新しくよみがえったことは大いによろこばなければなりません。

 今回の通信は第60回につづいて「日中霊魂観の比較」をとりあげます。中国人の精神世界で、霊魂とふかいつながりをもつことばが、鬼、神、精霊です。鬼については、のちに日本の鬼と比較して検討しますので、ここでは、主として神と精霊をかんがえます。

 現代の中国人は精霊ということばをよい意味ではつかっていません。たとえば、『中日大辞典』(愛知大学編集)は「動物・植物の霊魂が修練をつみ神通力を得て祟りをするもの」と説明しています。もともと精ということばに妖怪の意味があり、精霊をおなじ意味でつかい、もっとわかりやすく表現するときには精怪といいます。『漢語大詞典』には、精怪の説明に「精霊に同じ。妖魔・鬼怪の類をいう」とあります。

 つまり、霊魂のうち、人間にとってマイナスの働きをする存在を中国人は精霊とか精怪とかいっていることになります。これにたいし、人間にとってプラスの働きをする存在を神とよんでいます。プラス、マイナスについては、のちにまたくわしくかんがえます。ここでは、プラス、マイナスともに人間にとっては必要不可欠の生命源とだけいっておきます。

 中国における神と霊魂との関係を検討するときに参考になるのが、中国の民間の祭りに登場してくる神々です。現在の中国でもっともさかんにおこなわれているシャーマニズム系統の民間祭祀をといいます。儺とはかんたんにいえば、悪鬼払い、魔除けということになりますが、実際にはさまざまな祈願をこめる多様な祭りの形態があります。仮面をもちいることが多く、中国の学者のなかには、儺を仮面の祭りに限定する人もいるほどです。

 この中国の儺祭にまねかれる神々は過去と現在、そして未来にもわたって、中国人が信仰対象とした、あるいはするはずの神々のすべてを網羅しています。

 1990年に調査した江蘇省金湖県の巫師による祭りの香花神会は、費用、参加巫師の人数などにより、規模は、一角、半朝、全朝、満朝と4分されています。その規模におうじてまねかれる神の数もかわり、最大規模の満朝大会では240柱の多数になります。それらの神々は、夫婦神、女性神、男性神などの人格神、また佛教、道教、儒教などの教団宗教の神仏と多方面にわたり、ノロ王神、イナゴ・バッタの神、クラゲの神などの動物神、痘神などの病気の神、牛欄などの牛かこいに由来する神、ガマ、青苗などの植物神、さらに、かまど、鶏、鼠などの、自分たちの日常の生活とかかわりをもつあらゆるものが、神として祈願の対象になっています。

 こうした傾向は、中国のシャーマニズム系統の祭りでは斎天という祭祀では、開始にあたって206柱の神々の名が巫師によってよ共通しています。1989年に調査した江蘇省南通県の僮子戯100柱をこえる神名がビラに書かれ祭壇のまわりに張りだされました。また浙江省嘉善県で春秋2回おこなわれるみあげられます。それらのなかには、暁を告げる不思議な雌鶏の神様という意味の雌鶏報暁怪異神君、雄鶏や豚を神格化した雄鶏生猪怪異神君、年とった鼠を神格化した老鼠祈懺怪異神君、家の天井の柱から垂れている蛇を神様にした蛇挂高粱怪異神君、祭壇にじゃれつく飼犬を神とした家犬入壇怪異神君など、ふざけているのかとおもわれるような神々が登場してきます。

 これらの神々は、これまでの神としての実績よりも、むしろ今後に期待をこめて神とよばれているふしがあります。つまり放っておくと祟りをしたり、害をもたらしたり、あるいは稲の苗などは生育をとめて災害をまねくので、この際、神様にまつりあげて、その害をのがれようという願いがこめられています。そしてこれらのものが神にまつられる資格をもっているのは、すべて霊魂をやどしているとかんがえられているからです。中国で万物有霊論とよばれているアニミズムです。

 これらのなかで、稲、牛、ノロ、鶏などは、これまでも中国人によって神とみなされてきた実績のある存在ですが、現在では、すくなくとも漢民族社会では、その信仰はかなりうすれてきていて、むしろイナゴ、クラゲ、バッタ、疱瘡などとおなじように、今後に期待をこめて神とよばれているのではないかとおもわれます。

 このようにみてきますと、神となる資格のプラスの働きとは、本来は未来に期待をこめたものであったが、その実績が長くつづくことによって、神としての格が高くなります。人間とかかわる霊魂の数は無限大といっていいほど存在しますので、神の数も無限大にふえてゆきます。佛教、儒教、道教などの教団宗教がそれらの神々に整理をくわえますが、一般民衆の世界では依然として多くの神々が信仰され、生産されていきます。そして、霊魂のうち、人間にマイナスの働きをすると判断されたものが、精霊、つまり妖怪、幽霊などとよばれています。

 中国語の精霊にあたることばを日本語にもとめるならお化けです。精霊にはこれから問題とする妖怪と幽霊がふくめられ、日本語のお化けも通常は妖怪と幽霊をふくめています。

 妖怪も幽霊も中国で成立したことばです。妖怪のふるい用例は1世紀はじめに成立した『漢書』「循史伝」にみえています。

 久之、宮中数有妖怪、王以問遂、遂以為有大憂、宮室将空。

 「長いあいだ、宮中にしばしば妖怪があった。王は遂に理由をたずねた。遂は大憂があるとこたえ、宮室を空にするようすすめた」という意味です。『漢語大詞典』は「怪異な、尋常ではない事物と現象をいう」と妖怪について説明しています。

 幽霊のもっともふるい用例は、5世紀ごろに成立した『後漢書』「橋玄伝」にあります。

 国念明訓、士念令謨、幽霊潜翳。

 「国はよい教えを心がけ、士はよいはかりごとを心がけ、幽霊は陰にこもる」という意味です。『漢語大詞典』は幽霊について、「幽魂。人の死後の霊魂をいう。またひろく鬼神をさす」と説明しています。

 このような中国の妖怪と幽霊の意味はそのまま日本にもうけつがれています。日本のもっともはやい妖怪の用例は『続日本紀』の奈良時代宝亀8年(772)2月の記事に「大祓。宮中にしきりに妖怪あるためなり」とあるもので、中国とまったく同様の異常現象という意味で使用されています。また、幽霊はそれより3世紀ほどおくれて、平安時代末の公家藤原宗忠の日記『中右記』寛治3(1089)12月4日の個所に「毎年、今日念誦すべし。これ本願、幽霊成道のためなり」とあり、これも中国とおなじように死者の霊魂という意味でもちいられています。

 これから、しばらく幽霊と妖怪についてかんがえます。私にも未解決の問題がたくさんのこされています。結論をいそがずにじっくり思索してゆくつもりです。

 今回はこの辺で失礼します。


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