諏訪春雄通信 69
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1月9日(木曜日)午後1時から、百周年記念会館正堂ホワイエで開催された外山達志写真展「渡来の文化」は盛況のうちに11日(土曜日)午後5時に終了しました。終了間際には、外山さんみずから観衆に説明しながら展示会場をまわるギャラリートークもおこなわれました。熱心な質問も出て、親密な雰囲気がつくりだされました。
また11日午後2時からは、公開研究会があわせて開催され、こちらの方にも、プロジェクト会員を中心に多くの熱心な聴衆が参加されました。最初の京都大学人文科学研究所教授金文京さんのお話は「元曲『盆児鬼』考―しゃべるお椀の話」という題で、元の時代の芝居が本来そなえていた宗教的要素をどのようにして失い、娯楽味の勝った芝居に変っていったかを興味ぶかく説明されました。このお話で注意すべき点を、私の考えもふくめて整理してみましょう。
わずか1時間足らずのお話でしたが、私にとってはじつにかんがえさせられる、含蓄に富んだ内容でした。論文を読んだだけではなかなか理解できない、じかに肉声を聞くことの効用です。
そのあと、「歌舞伎と中国演劇」という題で、私が1時間話しました。『日中比較芸能史』(吉川弘文館)、『歌舞伎の源流』(吉川弘文館)、「江戸演劇と海外演劇のイコノロジー 日中演劇の比較」(『国文学』2000年2月号)などで、すでにのべたことから、主として舞台に関わる問題をえらんで話しました。ただ、これまでの記述に、新しく中国北方の南北軸重視と南方の東西軸重視の思想をとりこんでみましたが、ややわかりにくかったかも知れません。
終わってから、例によって揚子江で関係者の会食がおこなわれました。金さん、外山さんの両講師のほかに、めずらしく上海から正月の帰省をされていた森万土香さんも参加され、全体で9名の楽しい会となりました。毎度の池嶋洋次勉誠出版社長の怪気炎をはじめとして、皆さんからのいろいろなお話を聞くうちに陶然と酔ってしまいました。
「新日本古典百選」(東京書籍)の、私以外の監修者の顔触れがつぎのように決まりました。三氏とも、これまでにいろいろなシンポジウム、講演会などでご一緒したことのある方々です。
小松和彦 芳賀 徹 山折哲雄
私をくわえた全四名で、まず、100種の新古典を決定します。その内訳は、ほぼ文芸50種、科学・宗教・藝術・思想など50種となります。すでにおおよその案はできていますが、新しく決定した3監修者のご意見を入れて、最終決定となります。
そのうえで、それぞれの作品について、
作品解説 掲載個所の選定 テーマの表示
現代語訳 脚注 サンプルとなる本文の選定
参考書 参考図版 学際的研究
などの執筆作業が進行することになります。専門分野を異にする大勢の方々のご参加をいただき、しかも数年もかかるような、文字通りに学際的な大事業となります。
私は監修者にお送りした就任ご依頼の文のなかで、この企画の趣旨についてつぎのように説明しました。
そして、最後に「私どもの世代が次の世代へ渡す、せめてもの贈物となればと願っています」と付け加えました。私は、この企画を、研究者冥利につきる、真にやり甲斐のある仕事と思っています。
通信67にひきつづき、「日中霊魂観の比較」についてのべます。今回は、「中国の神々」です。通信60ですでにのべたように、今から二万年ほど以前に中国人は霊魂というものの存在を認識しました。証拠がないだけで、もっとまえから霊魂の存在を意識していたのかも知れませんが、しかし、霊魂の存在を意識しなかった時代は、それ以前にはるかに永くつづいていたはずです。その霊魂を意識しなかった時代でも、自然にたいする信仰は存在しました。それは、山、川、海、水、太陽、動植物などをそのままに神とあがめる信仰です。その名残とおもわれる信仰の形態が今日も中国各地にのこっています。
中国の少数民族の人たちのなかには、山にたいする信仰が今も存在しています。私が1990年に調査にはいった四川省平武県の白馬族の人びとは、ひときわ形のうつくしい小さな山を神の山として崇拝し、その山頂で敬虔な祭りをいとなんでいました。旅をする神がここにいすわったからとも、ととのった山の形容からとも説明していましたが、山そのものにたいする古い信仰の名残が感じられます。
広西チワン族自治区の壮族や瑶族には山の神の信仰がひろくゆきわたっています。靖西県の壮族は、洞窟、絶壁、深い淵、泉などを山の神のやどるところとし、その傍に一つあるような大きな石や古い木を山の神の化身とかんがえています。山の神の祭りは、毎月、旧暦の一日や十五日、また年越しなどの祭日にいとなまれ、山にむかって焼香、拝礼します。東蘭県の壮族や瑶族は、山の神が人や家畜、財貨などをつかさどっていると信じています。山の神には麓の巨大な石がえらばれ、人びとが山にはいるときには、山の神に祈ってその許しを乞い、旧暦の年のはじめには、かならず山の神がまつられます。
中国大陸では、山の神の信仰は、樹木や石の信仰としてあらわれることが多いようです。おなじ現象は、台湾、韓国、日本などにもひろくみられます。私が1994年の11月に調査した台湾の中部から南部の地方では、現在でも、石、木などを神として信仰している例がのこっています。しかも、興味ぶかいことには、その土地がゆたかになってくると、その石や木のあったところに、石をのぞいたり、木をきったりして、神社を建てて、石や木のかわりに道教や仏教系統の神、仏などをまつるようになります。
こうした山、石、木などにたいする信仰は、古い自然物への信仰そのものか、あるいは変化したものとみることができます。また、太陽や月、蛇や虎、鳥などにたいする信仰の名残とおもわれる現象も各地にのこっています。
自然物にたいする信仰のつぎに、通信60でのべたような経過をたどって、中国人は霊魂の存在を意識し、うごきまわる霊魂を信仰する時代をむかえますが、そののちもいくつかの段階を経て複雑に変化してゆきます。
私たちは神といえば、人間の形をした存在をかんがえますが、これはかなりのちの段階の神観念であろうとおもわれます。以前にものべたように、えらばれた特殊な人間が自然を征服する力をもち、文化や社会をつくってゆくものは、そのえらばれた人間であるという認識の生じたときが、人間の形をした神、人格神の登場するときであります。
そうした信仰の発生した実年代をさだめることはかんたんにはできませんが、考古学の遺品から人間の形をした神像が出現することを一つの目安とすれば、紀元前5800年から前3000年の仰韶文化後期、紀元前3500年から前3000年の紅山文化などにまでくだってしまいます。
そのような人間の形をした神像の出現する以前の神はなにかといえば、圧倒的に多いのが動物の形をした神でした。もちろん、動物にたいする信仰は、いわゆる霊魂信仰のまえ、自然物信仰の段階からさかんでしたが、霊魂信仰の段階になってもはじめ中心をしめたのは動物信仰であり、その勢いは人格神があらわれるようになっても衰えることなくつづきました。
その資料は枚挙にいとまがないほどですが、考古学資料にかぎっても、人格神の神像のあらわれる仰韶文化や紅山文化の遺跡でも、おびただしい量の鳥、魚、獣などの模様、像が出現していますし、人格神の神像のみられない、紀元前5000年から前3500年の河姆渡文化、紀元前3300年から前2200年の良渚文化の遺跡などからも、鳥や獣の信仰をしめす遺品が出土しています。
また、中国の少数民族のなかには、自分たちの先祖が動物と血筋がつながっているとかんがえ、今もその動物を信仰の対象にしている民族は数多くいます。広い意味のトーテミズムとよぶことのできるものです。中国北京で刊行された『中国各民族宗教と神話大詞典』(学苑出版社)からひろいだしてみます。
ペー族 虎 熊 蛇 鼠
朝鮮族 熊
トンシャン族 ひきがえる
エヴェンキ族 水鳥 熊
ハニ族 蛇
カザフ族 狼 白鳥
ホジェン族 虎
ミャオ族 胡蝶
ナシ族 コウモリ 大鵬 猿 鷹 竜 獅子
ちなみに漢族は竜、虎、蛇、豹などを信仰しています。これらはあきらかに動物の力にたいする信仰に由来し、自分たちのなかに動物とおなじ血がながれていることを確認して、その動物のもっている神秘な力にあやかろうとするものです。
このような動物の力にたいする信仰はながくつづき、それは現在にまでゆきわたっている信仰ですが、一方で、徐々に自然を克服して文化をつくる人間の力にたいする自信が生まれてきます。人格神の段階の到来です。
次回は中国の女神、対偶神、男性神などの人格神からのべはじめます。
今回はこの辺で失礼します。