諏訪春雄通信81
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
国内研修を終了して、1年ぶりに校務に復帰しました。週七つ(ほかに京都造形芸術大学での初講義)の授業を担当してみると、やはり忙しいというのが実感です。連日の講義の準備に追われて、なかなか自分の研究時間がとれません。この多忙のなかで、どうやってこれまでの研究と執筆を継続してゆくかが目下の課題です。
多くの本をいただきます。ざっと眼を通して礼状を出すのですが、それも最近は滞りがちです。そのうち、礼状をわすれてしまったりすることが、ままあります。せめて、備忘録がわりに、最近いただいた本をこの通信で、紹介しておきます。
鳥居フミ子『元禄浄瑠璃の展開』勉誠出版
鳥居さんは私の東大大学院の先輩です。東京女子大の先生をながくお勤めになって、数年まえに定年退職されました。ご一緒に近松書誌研究会を組織して、長年月をかけて『正本近松全集』全35巻、別巻2巻を勉誠出版から刊行しました。
各地の図書館を調査し、最良のテキストを刊行するという作業をおこないました。ご専門の土佐浄瑠璃を核に元禄期の浄瑠璃を総合的にとらえた意欲作です。最初、5人で出発した研究会も、守随憲治・鶴見誠・近石泰秋の3方が泉下におもむかれ、残りは2名だけとなりました。鳥居さんのご健康、ご活躍を心からお祈りしています。
鵜飼宏明編『東京大学・学生演劇七十五年史』清水書院
吉田節子さんから贈られました。吉田さんは日大の芸術学科の卒業生ですが、はやくから東大の学生演劇に参加されて舞台で活躍されました。私が歌舞伎学会の企画委員長だったときに委員としてたすけてくださった方です。岩淵達治・前田愛・秋元実などの知人・友人の若い日の姿に写真で接し、感慨ひとしおです。
吉野裕子『陰陽五行と日本の文化』大和書房
陰陽五行説で日本文化を論じ、多くの著作のある吉野さんの最新作です。吉野さんは私が学習院女子部につとめていたときの先輩です。英語の先生でした。定年まえに学習院をやめられて、民俗学の研究生活にはいられました。私が学習院短大にいたときに日本文化論の非常勤講師をお願いし、アジア文化でも幾度か講師にお招きしました。私の家のすぐそばに吉野さんも住んでおられたのですが、今は奈良にうつられました。上京されるとかならずお電話をくださり、食事をご一緒したのですが、最近はほとんど上京されこともなくなりました。幽霊を陰陽五行で解釈された「幽霊の法則性」の一章がおもしろいとおもいました。
小林保治『平安京の仰天逸話』小学館
平安時代から中世にかけての各種説話集から有名無名の人々のエピーソードを紹介、解説した本です。小林さんは早稲田大学教授です。お願いしてながく学習院大学の非常勤講師をつとめていただきました。そんな縁から、著書を出されるとかならず贈ってくださいます。古典をわかりやすく現代に紹介するという小林さんのお仕事は、現在私たちがとりくんでいる「新古典百選」にもたいへん参考になります。
秋山虔・三田村雅子『源氏物語を読み説く』小学館
私が東大で直接まなんだ先生で、今もお元気なのは市古貞次先生と秋山虔先生のお二人だけとなりました。秋山先生は、私が大学院にはいった年の暮れにお亡くなりになった池田亀鑑先生の後任としてお見えになった先生で、颯爽とした当時の先生の風貌はよくおぼえています。私は先生の最初の東大での演習『伊勢物語』に出さしていただきました。この本に掲載されている先生の風貌が当時とすこしも変わっていないのは驚きです。国文学の正道からはずれ気味の私の研究ですが、本をお送りするたびに、いつもていねいな礼状があり、そのなかで、私の研究を高く評価してくださっています。また、先生も本をお出しになるとかならず送ってくださいます。ありがたいことです。
犬丸治『市川新之助論』講談社現代新書
犬丸さんも、私が歌舞伎学会で企画委員長、編集委員長などをつとめていたときにご一緒に仕事をした方です。いかにも慶応ボーイらしいおっとりした方でしたが、歌舞伎への熱愛は人並み以上で、評論家として現在は活発に活動しておられます。この本も新之助への暖かい眼が隅々にまでゆきわたっています。こんな方々に見守られていることを新之助はきびしく自覚しなければなりません。
石崎芳男『よしわら 吉原』早稲田出版
「洞房語園異本をめぐって」とサブタイトルにあるように、江戸時代の考証随筆『洞房語園異本』の吉原に関する記述を厳密に考証検討しながら吉原の歴史を再構成した書です。石崎さんは、浮世絵の研究から吉原の研究にすすまれた方で、国際浮世絵学会の最初からの会員です。吉原に関する著書も多くある方です。学会の会員の方々から時折このような労作をお送りいただき、驚くとともに、多くのことをまなんでいます。
アジア文化研究プロジェクトの本年度の活動の大綱がきまりました。
5月31日 土曜日 午後2時から 研究会 西5−202教室 講師諏訪春雄
7月13日 日曜日 午前10時から 講演・シンポジウム 「東アジア演劇の形成と展開」 百周年記念会館
9月21日 日曜日 午後 アジア舞踊交流・研究会 黛民族舞踊財団と共催 百周年記念会館
12月上旬 土曜日・日曜日 「日本文化の形成と展開」 百周年記念会館
5月31日の研究会のテーマと要旨をつぎにかかげておきます。
中国長江南部の太陽信仰と日本の王権
中国の太陽信仰は課長クラスか
昨年の一月、田中(旧姓福)寛美さんの学位論文審査会の席、沖縄研究で有名な外間守善さんとご一緒になった。審査の意見開陳がおわってくつろいだ雑談のさいに、「中国で太陽信仰を調査しましたが、いくらさがしても太陽信仰はありませんね」とおっしゃった。中国で太陽信仰は顕著ではないというのが、研究者の常識になっているようである。
中国古代史研究家の尾形勇氏も、中国でもっともたいせつな祭りは天と地をまつるお祭りであって、国家的儀式として、毎年、都の南の郊外で行われていたのにたいし、東の郊外でおこなわれる太陽の祭りは大したことはなかった、とのべたのち、「天の神様、地の神様が社長だとすると、月の神様、太陽の神様は部長、課長クラスであるということです」(山折哲雄・上田正昭・中西進『古代の祭式と思想 東アジアの中の日本』角川選書、一九九一年)とむすんでいる。
おなじような考えをのべている学者はほかにもいる。松村一男・渡辺和子両氏編集の『宗教史学論叢7太陽神の研究上巻』(リトン、二〇〇〇年)に収録された池澤優氏「中国の太陽(神)祭祀の諸類型―太陽の象徴と象徴としての太陽―」、森雅子氏「太陽神列伝―古代中国における太陽崇拝の残影―」という二つの論文もほぼおなじ結論を出している。この両氏の見解はつぎのようにまとめることができる。
中国では太陽神の信仰はさかんではなかった。
しかし、文献や考古資料によって、太陽信仰の痕跡や転化した姿をさぐることはできる。
長江流域の太陽信仰
私がアジア文化研究プロジェクトの公式ホームページで連載している諏訪春雄通信にアクセスしてくださったことのある方々なら、右のような中国の太陽神信仰にたいする認識がけっして正しいものではないことをよくご存知のはずである。
中国の民俗や信仰について、これまで日本の学者が利用してきた資料は、中国の北方で興亡をくりかえしてきた大帝国についての文献の記載がほとんどである。たしかに、中国の黄河流域では太陽信仰はさかんでない。社長クラスの天の星座にたいして部課長どまりという判断はまちがってはいない。
しかし、文献資料をほとんどのこさなかった長江流域の少数民族社会では、むかしもいまも太陽信仰はさかんである。私たちは一昨年、2001年の8月、長江流域の苗、土家、イ同の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽神信仰に出あった。
しかもこれらの地域では、太陽の信仰は女神、稲魂にたいする信仰と結合して三位一体となっている。これは、日本のアマテラスの信仰とかんぜんに一致している。
日本の稲作文化の起源地が長江中流域に決定している現在、日本のアマテラス信仰の原型も長江中流域の少数民族社会であったことを示唆している。
日本の王権永続の秘密
河合隼雄氏は一九八二年に発表した『中空構造日本の深層』(中央公論社)で、日本の天皇は第一人者ではあるが権力者ではなく、その周囲にある者が中心を擁して戦ってきたと説明した。おなじ事実を中村哲氏は、虚政つまり天皇は君臨すれども統治せず、実際の政治権力は天皇家以外の家系がにぎってきたといい(『宇宙神話と君主権力の起源』法政大学出版局、二〇〇一年)、大隈清陽氏は、天皇制永続の原理を、日本の古代社会の基層にあった呪術性や神話的特性にもとめた(「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社、二〇〇一年)。
中空、虚政、呪術性、神話的特性とことばはちがっても、意味する内容には共通性がある。王権の中枢に位置する天皇家は、祭祀や信仰をになう主体であって、実際の政治の権限は、周囲の官僚機構がになっていたという事実である。
こうした王権のありようの一つのモデルは、倭人の建国した邪馬台国の卑弥呼とその弟にまでさかのぼる、いわゆるヒメヒコ制にもとめることができる。王位にある女性が祭事を、従属者である男性が政治を分担する制度である。
倭人は越人ともよばれた長江流域の少数民族の別名である。日本の王権の原型の一つは、長江少数民族社会にあったのである。
ただ、ここで注意しなければならないことがある。ヒメヒコ制、あるいはその後期的形態であるオナリ神信仰(注)が、そのままに日本の王権の形を決定したのではない。日本の王権は、太陽信仰を核とした中国の南方原理をとりいれるとともに、その周囲を天の信仰を核とした中国北方原理で強化したのである。
ヒメヒコ制だけなら、日本の王権はこれほどの永続きはできなかったはずである。ヒメヒコ制を総体としてそのまま核心にすえながら、さらにその周囲を強固な中国北方巨大帝国の官僚制度でかためたところに、日本の王権の特性があった。
中国南方の太陽信仰文化と中国北方の天の信仰文化、その両文化の長所だけを生かした統合にこそ日本の王権永続の秘密がかくされていたのである。
注)オナリ神信仰と同一の信仰が長江中流域のイ同族社会に現存することは、イ同族出身の民俗学者、林河氏が指摘しておられる。
この文は、会報次号の特集「太陽信仰」のために執筆したものの流用です。ここで私がのべていることの要点は、この通信で連載したものですが、連載中と多少アクセントの据え方が異なっているのは、日本の王権の原型を邪馬台国のヒメヒコ制にもとめたこと、ヒメヒコ制とオナリ神信仰をむすびつけ両者の源流を中国長江流域の少数民族社会にもとめたこと、の二つです。萌芽的には連載の通信でのべましたが、研究会ではこの二点に焦点をあてる予定です。
研究会でお眼にかかれれば幸いです。
また、7月13日(日曜日)の講演・シンポジウム「東アジア演劇の形成と展開」の講師の人選もすすんでいます。近々ご紹介できるとおもいます。
今回はこの辺で失礼します。