諏訪春雄通信83
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
一年の国内研修をおえて講義を担当するようになると、やはり多くの刺激をうけます。久しくわすれていたものがよみがえってくる感じです。
学生から学び、教えられるということは、教師の特権です。学習院大学の学生はこんなに授業にたいして生き生きとした反応をするのかと、毎回、新鮮な感覚をあじわっています。
学生から、二つ、重要な質問を受けました。
一つは太陽は黄色ではないかということです。月曜日の一時限、「日中霊魂観の比較」という講義をおこなっています。そこで、中国や日本の古代の人骨のそばにまかれている朱砂について、辟邪の働きをするもので、血と太陽の生命力をあらわすと説明したら、早速、太陽は黄色ではないかという質問をうけました。
日本のような山紫水明の地では太陽は赤くみえますが、砂漠地帯などでは黄色に見えます。太陽の色も土地によってちがってきます。問題としている朱砂は中国北方の北京郊外の竜骨山の山頂洞人の人骨にまかれていたものです。中国では太陽の道を黄道といいます。まさに太陽が黄色く見える代表的な地域です。つぎの時間に、朱砂は血だけの象徴と訂正しました。
もう一つは、一神教信仰地域における遠近法誕生の問題です。質問が出たのは木曜日一時限の日本文学史概説の時間でした。私は、これまで、美術における遠近法は、一神教信仰の欧米で、視点を一箇所にすえる絶対の神の信仰が生みだしたものと説明してきました。神からの遠近の距離によって大小がきまるという考えです。
この説明じたいはけっしてまちがっていないといまもおもっていますが、ずっと気になっていたのは、たとえ視点をうごかさないにしても、一視同仁、すべてを平等に見る絶対の神の眼から見て、なぜ遠近大小の違いが生れるのかという問題でした。
遠近法はルネッサンス時代にヨーロッパで誕生しました。キリスト教が世界を支配していた中世ではなく、人間が神の束縛からの自立に目覚めた時代に遠近法が誕生したということは、神の絶対的視点を地上の人間が自己の視点としたからではなかったか。
このように私がかんがえなおそうとおもったのも、授業後の学生の質問からでした。彼は、わざわざ質問にきたあと、自分は卒論を一年延ばすつもりでしたが、先生が今年で定年と知り、届けを提出しなおして、先生について、今年、卒論をまとめますといってくれました。教師であることに、誇りと喜びを感じる瞬間です。
今回は、月刊誌『寺門興隆』のためにまとめた原稿をお送りします。
日本人がはじめて幽霊と出逢ったのは平安時代でした
この講座も最終回になりました。まだまだお話したいことは多いのですが、今回はどうしても知っておいていただきたいことだけをえらんでお話しましょう。
日本人はいつごろ幽霊の存在を知ったのでしょうか。文献で調査したかぎりで申しますと、奈良時代の説話集『日本霊異記』にあらわれる幽霊は、中国の幽霊話の翻訳です。日本独自の幽霊の話があらわれるのは平安時代の『今昔物語』からです。たまたまのこされた文献をそのまま信じてよいのか。もっと古くから幽霊はあらわれていたのではないか、と疑問をもたれる方も多いとおもいます。しかし、私は、日本人が幽霊に出逢いはじめたのは、平安時代くらいからとかんがえます。
その理由は、幽霊が出現するためには三つの条件がそろわなければならず、その条件がそろったのが平安時代だからです。
第一の条件は幽霊の住む他界が現世と近いところにあると信じられなければならないということです。日本人の他界は、天、地下、山、海の四つがあります。天や海のように遠いところでは、幽霊は出にくい。山、地下などの近いところに他界が存在しているとかんがえられるようにならないと幽霊は出ません。
第二の条件は祖霊信仰の成熟です。人間の形をした霊ははじめ祖先の霊でした。祖先の霊が子孫のもとにもどるという信仰が成熟しないかぎり幽霊は出現しません。古代から現代まで多くの幽霊が家に帰りたがるのはそのためです。
第三の条件は幽霊が眼に見える存在だということです。眼に見える霊魂の信仰がなければ幽霊は出ません。
第一と第二の条件はかなり古い時代からととのっていました。問題は第三の条件がいつごろととのったかということです。寺の和尚さんたちとふかい関わりのある問題ですので、すこしくわしくお話しましょう。
幽霊の出現は仏教と関係があります
人が形のある霊魂を見た最初は夢のなかだったとおもいます。亡くなった人、遠いところいる人が夢のなかでは、ありのままの姿であらわれます。夢中の体験をとおして、霊魂が見える形でうごきまわると信じるようになりました。
日本人のばあい、夢とならんで大きな役割をはたしたのは、仏教の渡来とともにもたらされた仏像や仏画でした。
欽明天皇の御世、百済の聖明王によって日本に仏教がつたえられたとき、『日本書紀』の記載ではお釈迦様の仏像一体が贈られています。仏が眼に見え、手にふれられる具体的な存在であることを日本人は知ったのです。祖先の霊や自然物にやどる神が眼に見えない存在であったのとは大きな違いでした。仏教の渡来をきっかけとして、神や霊魂もまた人間とおなじ形をした存在として想像されるようになりました。
もう一つ、火葬が見える幽霊を誕生させるうえで大きな力を発揮しました。日本の社会で古くからおこなわれていた土葬は、死体がそのままのこりますので、霊魂と肉体の分離という観念を生みやすいが、身体と霊魂がともに他界へゆくという観念は生れません。ところが、身体と霊魂がともに消滅する火葬は、霊魂だけではなく身体もあの世へいったという観念を誕生させ、その身体が霊魂とともにこの世にもどったものが幽霊だったのです。
日本の火葬は奈良時代の七〇〇年に仏教僧道昭の遺体を弟子たちがおこなったのにはじまるとされています。
霊魂が眼に見えるようになるまでには仏教の影響が大きかったことがおわかりでしょう。そして、仏教の渡来と火葬の普及で、幽霊誕生の準備がととのったのは平安時代というのが私の考えです。
地獄の観念が怖い幽霊を生みました
むずかしい話がつづきましたので、ここで幽霊の話を二つ紹介しましょう。
京で貧乏暮らしをしていた侍が国守の従者となって遠国にくだることになりました。彼は長年つれそった妻を捨てて新しい妻をつれてゆきました。任がおわって帰京したとき、男はもとの妻がなつかしく、その家にたずねてゆきました。秋の月があれはてた家にさしこんでいました。門があいていたのでなかにはいると、妻が独りですわっていました。妻は夫をうらむ様子もなく、「いつ上京なさいましたか」と訊きました。男はながい間おもいつづけていたことなどを話し、「これからいっしょに住もう」というと妻はうれしそうにうなずき、その晩、二人は抱きあって寝ました。
さしこんでくる朝の光で男は眼をさましました。脇をみると、抱いていた女は干からびた骨と皮ばかりの死体でした。男は隣家にかけこみ、「隣の女の人はどうなったかご存知ないか」とたずねると、「隣の方は長年つれそった夫に捨てられ嘆き悲しんで病気になり、この夏になくなりました。野辺送りをする人もなく、まだそのままにしてあります」という答でした。
『今昔物語』がつたえる話です。廃屋での妻との再会と契り、朝の光のなかでの干からびた死体。情、景ともにそなわり、しかも凄愴の気にあふれた幽霊話の傑作です。愛する夫への恋情から出現した幽霊は怖いというよりも、哀れで悲しい存在です。もう一つ似た内容の話を紹介します。
大和の国に住む人の娘に河内国の笛のうまい男が恋をし、二人はむすばれました。三年ほど二人は愛しあって暮らしましたが、思いがけず、夫は病気となり亡くなりました。女は嘆き悲しみ、いいよってくるほかの男たちには眼もくれず、ひたすらに夫の思い出にひたって日を暮らしていました。三年たった秋の真夜中、夫を思って涙にくれている女の耳に笛の音がきこえ、女の部屋に近づいてき、「開けてくれ」という声はまさしく夫でした。
女がしとみの隙間からのぞいてみると夫が立っていました。夫は妻をなつかしんだ一首の歌を詠みかけてきました。その夫の姿は生前のままでしたが、女はぞっと恐ろしくなりました。夫の袴の紐は解け、体からは煙が立っていました。こわくて口も利けずにいると、「無理もない。おまえがあまりに私を恋いしたうのが哀れで、むりに暇をもらってきたが、そんなにこわがるならもう帰ろう。私は日に三度焦熱地獄の苦しみをうけているのだ」といってふっと消えました。
やはり『今昔物語』にのっている話です。いいよってくる男たちをしりぞけ、ひたすらに夫の思い出にひたっていた女が、わざわざ冥途からたずねてくれた夫の亡霊に逢って口も利けないほどこわがっています。亡霊だからこわいのではなく、地獄からあらわれたから恐ろしいのです。おなじ幽霊の話でも、前者に地獄観念の影響はなく、後者には顕著です。
平安時代の中ごろから日本人のなかに浸透していった地獄の観念が恐怖をよび、そこから出現した亡霊を恐ろしいものにしたのです。
幽霊に足が無くなったのも地獄のせいです
日本人のかんがえる幽霊には足がありません。幽霊に足がないのは日本だけで、中国の幽霊も朝鮮半島の幽霊にも足はあります。日本の幽霊もすべてに足がないのではなく、『怪談牡丹灯篭』に登場するお露の亡霊は駒下駄をはき、足音をさせながらあらわれます。
日本の幽霊が足をうしなったのはなぜでしょうか。
足のない幽霊があらわれるもっとも古い例は、今のところ、寛文十三年(一六七三)刊行の浄瑠璃本『花山院后諍(きさきあらそい)』です。この作に登場する藤壺の怨霊の挿絵にはあきらかに腰から下がありません。つづいて、元禄三年(一六九〇)の実録小説の『死霊解脱物語』のかさねの怨霊の挿絵にも足がありません。日本の幽霊は江戸時代にはいって足をなくしたのです。
亡霊が足をうしなった理由は二つあります。一つは雲です。中世以来の日本人の絵画表現では、神、仏、亡霊などの超越的存在が乗り物として雲を使用しています。たとえば、中世の絵巻『法然上人絵伝』で、法然上人が夢中に中国の浄土教の始祖善導上人に逢い、専修念仏をうけつぐ二祖対面の図で、善導上人の亡霊は雲にのって飛来しています。また、『北野天神縁起』で、日蔵上人が金峯山で修行中に頓死したのち、天神の道真にともなわれて六道をめぐるときの乗り物も雲です。この雲の乗り物では足が見えません。そして、超越者は雲にのらなくても飛行できるという観念が生れたときに足が消えます。
もう一つの重要な理由は、地獄で亡者は鬼卒に足を切られることがあると信じられたことです。中国で成立した経典『十王経』によると、冥土には十王とよばれた十人の裁判官がいて、亡者の罪をさばきます。中有をさまよう亡者たちはこの十王のもとを遍歴して罪の裁きをうけます。
その三番目におとずれる宋(そう)帝王(だいおう)の宮殿で、亡者は鬼たちによって手足を切りとられました。たとえば日蓮上人が『十王経』について説いた『十王讃嘆鈔』にはおおよそつぎのようにのべられています。
宋帝王の宮殿へゆく道に業関とよばれる関があり、通行税をもたない亡者は、ここで鬼によって手足を切られる。手足は鉄板のうえにならべられ、亡者は気絶してしまう。
このような観念が普及することによって、幽霊は足をうしなったのです。
幽霊が額に三角布をつけるのはなぜでしょうか
あるトンネルの入り口に、白いワンピースを着た女の亡霊があらわれ、車のドライバーをまねきます。そのトンネルではよく事故がおこります。
母親がウトウトしていると亡くなったはずの息子があらわれ、「眼鏡をわすれてよく見えない」といいます。母親は眼鏡をお棺に入れわすれたことを思いだし、お墓に入れたらそののち息子の幽霊はあらわれませんでした。
この二話は現代の怪談です。幽霊は死の直前の執念にこだわりますが、それだけではなく、死の直前の服装や持ち物で出現します。白いワンピースの幽霊は、彼女がその姿をしてトンネルの入り口で車にはねられて死んだからです。生前、眼鏡をかけていた息子の幽霊はあの世にいってからも眼鏡がないと困るのです。
幽霊画にえがかれる幽霊はよく額に三角の布をあて、白い浴衣のようなものを着て、首から頭陀袋をぶらさげています。おなじみの幽霊のスタイルです。
白い衣装はいうまでもなく死装束で経帷子といわれるものです。帷子は裏をつけないひとえもののことで、おくみや背に経の文句を書くことがあったので経帷子といいました。
頭陀袋は死者が冥土を旅してゆくという想定のもとに、握飯、山椒の実や葉、死人の持ち物、茶、六文銭などを入れました。こうした習俗も現代ではすたれてきましたが、先の母親も本来なら頭陀袋のなかに死んだ息子の眼鏡も入れておくべきだったのです。
おもしろいのは三角布です。これもまた伝統的な死装束で、紙でつくることもあったために額紙とか紙冠などとよばれました。死者の罪障の消滅や魔よけを目的としたかぶりものでした。さかのぼれば、修験道の山伏が山にはいるときに、魔よけにかぶった頭巾や宝冠などにまでたどることができます。
三角は修験道や仏教の宝剣、曼陀羅などにもしばしば見られる図形で、その形じたいが魔よけのシンボルなのです。古代の古墳の壁面などにも三角形をつらねた模様が出土しています。その原型は蛇の鱗です。古代の日本人が、神としての蛇に託した信仰が遠く今にまで生きつづけているのです。
現代、幽霊の存在をそのままに信じている人は多くないかも知れません。しかし、日本人が長い間幽霊の実在を信じてきたことには疑問がありません。幽霊の研究は、日本人と日本文化の本質の解明につながります。
皆さんがこれからも幽霊に関心をもちつづけてくださるようお願いして私の講座をおわります。
以上です。
今回はこの辺で失礼します。