諏訪春雄通信84
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幽霊についての質問や取材をよくうけます。どうも私は幽霊評論家という見方が世間に定着しているようです。日本テレビが日曜日の朝の7時から放映しているクイズ形式の30分番組「目がテン」で柳をテーマにとりあげることになり、その台本づくりを担当しているインターボイスの林亮一さんという方から、幽霊と柳の関係について取材をうけました。電話取材を数回うけたのち、研究室でビデオの収録がありました。
柳はなかなか興味ぶかい木で、日本の民俗社会でも吉と不吉の両様の意味をもっています。柳を屋敷内にうえると病人が出る、縁起が悪い、家がおとろえるなどといいつたえている地方は、静岡、新潟、広島、秋田、山形など数多くあります。その一方で、柳の木でまな板をつくると長生きする(岡山)、柳の箸で食事すると健康によい(宮崎、大分)、柳の芽で患部をさすると歯痛がなおる(群馬)などの言い伝えもあります。
これを両義的というなら、まさに柳は吉と不吉の両義的存在です。問題はこうした柳の両義性が何に由来するのかということです。
柳と一口にいっても、しだれ柳、楊、猫柳など多くの種類があります。幽霊とむすびつくのはしだれ柳です。このしだれ柳は中国から日本へはいってきたものです。その中国ですでに柳は吉と不吉と両様の意味をもっていました。
中国人社会で冬至から百五日目の清明節は今も大きな国民的行事の一つです。この日に踏青といって、緑をもとめて郊外へ出かけて酒宴をひらく習俗がふるくからありました。その日に家の門に柳の枝をさしたり、子どもたちの頭に柳をかざったりしたのは、樹木の代表としての柳の生命力にあやかろうとしたもので、まさに柳の吉の面をあらわしています。
唐代くらいから清明節の日に墓参りをする風習がさかんになり、現在の中国人社会にうけつがれました。この風習と結合して、しだれ柳が死者の木とイメージされるようになり、棺桶や霊柩車を柳の木で製作したり、墓地に柳をうえたりすることも一般化しました。柳生といって、柳が生えると死者がでるという言い伝えも生まれました。中国において柳はすでに吉と不吉の両義的存在になっていたのです。
両義性には歴史的変化を構造的視点でとらえたものと、本来的に二つの性質をそなえるものと、二つのばあいがあります。柳の両義性はあきらかに前者の例です。
しだれ柳がいつごろ日本へわたってきたかは定かではありません。しかし、日本へわたってきたときに、すでに吉、不吉の二つの意味をもっていたはずであり、それが日本の民俗社会にうけつがれたのです。
しだれ柳のそばに幽霊の出現している絵は、近世にはいってからあらわれます。私の知っているもっともはやい例は貞享ごろに刊行された説経浄瑠璃の『すみだ川』の正本の挿絵にみられるものです。おそらくその形態が幽霊に似ているという理由も大きくはたらいていたとおもわれますが、死霊との結合はすでに中国にはじまっていたというのが、私の見解です。
歌舞伎誕生400年を記念して、国際浮世絵学会の機関誌『浮世絵芸術』が歌舞伎の特集をくみ、寄稿をもとめられました。
読者層を研究者だけではなく一般読者にまでひろげて想定したものがつぎの一文です。
歌舞伎への七つの視点
今年は歌舞伎誕生四百年か
今年、二〇〇三年は歌舞伎誕生四百年ということで、各地でさまざまなイベントが実施されている。歌舞伎は、通常、慶長八年(一六〇三)四月、お国が京都で演じた〈カブキ踊り〉にはじまるとされている。『当代記』をはじめとする当時の記録にしるされている。
カブキ踊りということばがはじめて記録にみえるのはこの年である。しかし、お国がそれ以前から演じていたのは〈ややこ踊り〉であり、彼女自身がカブキといっていたのではない。ややこ踊りの記録なら一五八〇年代からあらわれてくる。
慶長八年の京都の興行が注目されたのは「茶屋遊び」という寸劇のなかに踊りをくみこんだからである。当時、京都の盛り場でみられるようになった、酒を飲ませ、女たちが接待する茶屋の遊興、つまりのちの遊女遊びに男装のお国が客としてあらわれ、女装した男優たちを相手に酒宴をもよおすという倒錯した性の趣向が受けて、カブキ(傾き)、異端とよばれた。カブキ踊りはこの茶屋遊びにくみこまれて登場したという点で、それまでのややこ踊りとは一線を画していたとかんがえれば、慶長八年が歌舞伎誕生の年であるとみることはまちがってはいない。
お国は美人ではなかった。年齢もややこ踊りつまり少女踊りにふさわしい時期をすぎていた。肉体の魅力に自信をうしなったお国の懸命の工夫が男たちの視線をあつめたのである。
お国は京都へのぼるまえに佐渡へわたっていた。当時の佐渡は金山、銀山の発掘でにぎわい、諸国から一攫千金を夢みた男たちが押し寄せていた。それらの男たちの欲望むきだしの視線にうったえるための毎日の舞台興行のなかで、あたらしい演出が工夫され、この自信のある出し物をもってお国は京都にあらわれたのであった。
四条河原は歌舞伎誕生の地ではない
京都の四条の歌舞伎劇場南座の横手、鴨川に面した場所に「阿国歌舞伎発祥之地」の石碑が建っている。また四条の河畔には出雲阿国の石像もみられる。お国歌舞伎は四条河原で最初に興行したと信じられてきたことになる。各種の洛中洛外図にえがかれる四条河原風景にもきまって歌舞伎小屋がえがかれ、お国らしい主役が猿若という道化の供をつれて登場している。この絵画資料も、お国が京都の四条河原で最初の歌舞伎興行をおこなったという通説の定着に大きな役割をはたしてきた。
しかし、お国が京都にのぼって最初に興行した場所は五条の端の東詰であり(『東海道名所記』)、慶長八年当時、四条河原はまだ行楽の場所として開発されていなかった。お国は、間もなく、北野の天満宮社の東、右近の馬場にうつり、ここに常設の小屋をつくった。
おなじ洛中洛外図や初期の歌舞伎図でも、この天満宮の社域に場所を設定したものは、情報も正確であり、成立も古くさかのぼるとみることができる。お国の舞台を四条河原にえがいた洛中洛外図は、回想の場面か遊女歌舞伎との混同である。
はじめお国の舞台では伴奏楽器として三味線をもちいなかった。お国歌舞伎も慶長九年以降、舞台で三味線を使用するようになったが、その利用は限定されたものであり、三味線演奏を中心にすえたはなやかな演出をえがく初期歌舞伎の舞台図は、お国につづく遊女歌舞伎とみなければならない。遊女歌舞伎の時代になっても猿若らしい道化は登場していたので、しばしばお国歌舞伎の舞台と混同されてきた。
歌舞伎の源流は二つあった
お国歌舞伎は歌舞伎全体の母胎ではなく、二つの源流の一つにすぎなかった。発達したお国の舞台運びは、京都大学所蔵、松竹図書館所蔵の二種の『歌舞伎草子』によると、小歌にあわせた踊りと茶屋遊びの二部にわけられる。この構成は、のちの元禄時代の上方歌舞伎の構成につらなるものであった。茶屋遊びの強みは、酒宴の場面で種々の芸尽しを演じる枠組、のちの「世界」に似た機能をもっていたことであった。そのために、複雑な筋をもちながらも中心に遊女買いの場面をすえた上方歌舞伎の母胎となることができた。
もう一方の江戸歌舞伎の源流は若衆歌舞伎であった。若衆歌舞伎がクローズアップされたのは、お国歌舞伎の後継者である遊女歌舞伎の禁止ののちであったが、事実はこれらの女歌舞伎と並行しておこなわれていた。しかし、若衆歌舞伎は、女歌舞伎とはかなり異質の演出をおこなっており、その構成は、踊りだけを数番くみあわせるか、能、狂言、幸若舞、舞楽、獅子舞、人形技など、ほかの種類の芸能を踊りとくみあわせていた。少年たちの身の軽さを生かして軽業なども演じていたし、放下、枕返しなどの見世物芸もとりいれていた。
女歌舞伎を代表する茶屋遊びも演じていたが、猿若、茶屋の女などの役柄を抜いていた。つまり茶屋遊びが本来もっていた芸尽くしの枠組みとしての機能をなくし、舞台で演じられた多くの出し物の一つに変更していた。
多くの演目をならべるのが若衆歌舞伎の特色であった。この特色はのちの元禄時代の江戸歌舞伎の演出にうけつがれていった。
政治とことばが歌舞伎の方向を決定した
歌舞伎の歴史の形成にはたらきかけた要因は多様であるが、外因から一つ、内因から一つ、もっとも深刻な影響をあたえたものをえらぶなら政治とことばをあげることができる。
江戸時代の歌舞伎史を通観するとおもしろい現象に気づく。為政者が無能呼ばわりをされ、幕府の政治がうまくいっていない時代に、名優や名作者が活躍して、歌舞伎の隆盛時代がおとずれている。たとえば、元禄時代は、多くの歌舞伎研究者が、最初の歌舞伎の大成時代として評価しており、歌舞伎だけではなく、ほかの美術、文学、染色、織物などの方面でも飛躍的な発展をとげていた。しかし、政治面では、深刻な財政難、凶悪な犯罪の増加、生類憐れみの令、貨幣改鋳令の発布などで、けっして安定した時代ではなかった。
この現象は、領主財政と庶民生活の食い違いとして説明できる。領主財政が放漫浪費で破綻したときに庶民は豊かになって文化がさかえ、逆に領主が健全財政を維持してひきしめ政策をとるときに景気がわるくなって文化が沈滞した。
このような事情を反映して、江戸時代の歌舞伎はつぎの五つの隆盛時代をもっていた。
創始期 元禄歌舞伎 天明歌舞伎 化政歌舞伎 幕末歌舞伎
この各期の境界には、五代将軍綱吉による天和の治、八代将軍吉宗による享保の改革、老中松平定信による寛政の改革、老中水野忠邦による天保の改革をもってくると、きわめてすっきりとした時期区分になる。元禄期、天明期、化政期、幕末期の四期は、それぞれに、天変地異、凶作、一揆などに政権担当者の経済上の放漫政策がかさなって、幕府の政治が破綻をみせていた時代であった。
すでにみたように上方歌舞伎と江戸歌舞伎はかなり異質であり、その特質を決定したものは舞台のことばであった。上方と江戸でははじめから舞台の用語がちがっていた。
上方歌舞伎の源流となったお国の舞台で使用されたことばは上方の口語をベースにして、中世の狂言の用語に近いものであった。一世紀ほど経過した元禄時代になって上方のはなしことばにもかなり大きな変化があり、上方歌舞伎のせりふはこの時代の上方口語を使用していた。上方歌舞伎が現実の人間にモデルをもとめた写実的な演技を展開することができたのは、共通のことばがあったからである。
近世にはいって急速に都市としての景観をととえた江戸は、諸国の人々の入り込みの地で、武士社会の用語をべつとすれば、方言がまじりあって、共通の江戸語は十八世紀の末まで生まれなかった。そのために、江戸歌舞伎の舞台用語は、武家用語を基本にすえ、より古い文語をまじえて使用していた。江戸歌舞伎は、したがって、荒事に代表されるような、現実の人間の動きとはかなり異なるリズムの演技を展開しなければならなかった。
そこから、ことば中心の上方歌舞伎にたいし、肉体中心の江戸歌舞伎という対照的な本質が形成された。
歌舞伎に思想を注入したのは人形浄瑠璃であった
近世という時代が生みだした演劇でありながら、歌舞伎と人形浄瑠璃は、人間と人形の違いだけではなく、多くの点で対照的であった。
歌舞伎は、役者が舞台上で自己の肉体を素材に芸という形で自己主張する行為、つまりは役者の芸尽くしである。対する人形浄瑠璃は、浄瑠璃の語り手の太夫が、人形と三味線の助けをかりて、背後の作者の思想と世界観を説きあかす芸能である。したがって、歌舞伎役者の演技が身体の動きをたいせつにしたのにたいし、人形浄瑠璃は思想と精神にこだわる。
発生時からこのような本質を内包して出発した二つの演劇は、そののちの活発な交流のなかで、たがいの性格をあゆみよらせ、変質させていった。この両者の交流は大きく二つの時期を画することができる。その第一期は十八世紀半ばまでの相互交流の時代であり、第二期は十八世紀後半以降の義太夫狂言の形成時代である。
第一期の相互交流の時代は、歌舞伎は人形浄瑠璃から主として脚本を借りて、芝居の内容を整備して多幕劇をつくりあげ、他方、人形浄瑠璃は歌舞伎から役者の動きを取りいれ、人形の動きの改良につとめていた時代であった。
お国のおどりや茶屋遊び、少年たちの舞踊や軽業などを主要な見せ場として出発した歌舞伎は、幾度かの手痛い禁令を経験して十七世紀の後半にいわゆる狂言尽くしの時代をむかえ、演劇性の開発をせまられることになった。
このときに歌舞伎が手本にあおいだのが、能、狂言、幸若舞、人形浄瑠璃などの先行、並行の芸能であった。とくに、歌舞伎が幕をつらねて長篇物をつくりあげていったときに直接の脚本の源となったのが「浄瑠璃物語」以来の高度な物語の伝統をもっていた人形浄瑠璃であった。人形浄瑠璃が好んで仕組んだ武家のお家騒動は上方歌舞伎のお家狂言の形成に直接はたらきかけ、また、江戸歌舞伎が好んでしくんだ天下動乱の筋の粉本は金平浄瑠璃にあった。
元禄の上方歌舞伎は、大名家のお家騒動の大筋のなかに、若殿の遊蕩の果ての零落と放浪、忠臣たちの犠牲行為によるお家の再興というパターンをつくり、くりかえし上演していた。つまりは、人形浄瑠璃から取りいれた筋の展開のなかに、お国歌舞伎以来の遊女買いの見せ場を配列したものであった。
これとまったく同様の芝居のつくり方が江戸歌舞伎にもみることができる。江戸家歌舞伎が長篇の枠組に採用した金平浄瑠璃は、十七世紀の半ば、江戸と上方に同時におこなわれた。平安時代に実在した源頼光とその部下の四天王、さらにその子たちの架空の子四天王を縦横に活躍させた人形劇であった。謀反人によって乱された天下の秩序を英雄・豪傑の活躍によって安定させるという主題は江戸歌舞伎に採用されて脚本の定型を形成し、そのなかに若衆歌舞伎以来の各種見せ場を配置して多くの作品はつくられた。
歌舞伎が江戸上方ともに、元禄までにつくりあげた、熟知の人物とストーリーによって筋の大枠をきめておき、そのなかに毎回、新しい事件と人物をはめこんで変化をはかるという方法は、「世界と趣向」とよばれ、のちにうけつがれる。
現世風俗の反映や見世物芸の羅列にはじまった歌舞伎には、諷刺性や感覚の刺激はあっても、思想や世界観は存在しなかった。歌舞伎が思想をもつようになったのは、趣向をつつむ世界という方法を手に入れてからであり、人形浄瑠璃にまなんだ結果であった。両者の交流第二期の義太夫狂言がこの傾向をさらに助長させた。
江戸歌舞伎が演習方式なら現代歌舞伎は講義方式である
守田勘弥、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎らによって推進された明治の演劇改良運動は江戸歌舞伎の性格を大きく変えた。現代の歌舞伎はこの演劇改良運動によって方向を規定された明治歌舞伎を直接にうけついでいる。当然、現代の歌舞伎は江戸時代の歌舞伎とはかなり異質である。
わかりやすくたとえるなら、江戸時代の歌舞伎が演習方式であったのにたいし、明治以降の近、現代歌舞伎は講義方式に変わったといえる。演習方式は、役者と観客が一つになって相互に協力しあいながら舞台をつくってゆく。全体の段取りはあらかじめきめられていたが、その日の観客の反応によって、変更することが可能なゆるやかな取り決めであった。これにたいする講義方式は、観客にあたえられる情報や知識はあらかじめきめられていて、その変更はよほどのことないかぎりゆるされない。情報の発信者は舞台上の役者にかぎられ、観客が舞台づくりに参加する道はとざされた。
このような講義方式が歌舞伎の主流になったのは、もちろんそれなりの理由があった。
まず、劇場が大きくなり、観客が増加した。たくさんの観客を満足させるためには、芝居の運びや目的があらかじめ決定されていなければならない。
つぎに観客の階層が分化し、考え方や感じ方が多様になった。この複雑な観客を舞台にひきつけて感動させるためには、役者の側から強制的に観客をコントロールしてゆく必要がある。
三つめに、役者の側の変化があげられる。役者たちのそだった環境がさまざまであり、役者の素質や演技力が全体としてひくくなった。その場にのぞんで、臨機応変に工夫をくわえたり、演技の内容を変えたりすることができなくなった。あらかじめ役の意味をうごかないものにきめておかなければならなくなった。
演出制度の導入が歌舞伎を変える
最近、さらに伝統歌舞伎を決定的に変える現象が目立ちはじめた。中村扇雀(現在の鴈治郎)の近松座、市川猿之助のスーパー歌舞伎、中村勘九郎の隅田川歌舞伎(平成中村座)など、もっとも先鋭な現状打破の試みのなかにみられる演出家の存在である。
江戸時代の歌舞伎に演出家にあたる役は存在しなかった。
新作狂言の製作過程を検討してみよう(拙稿「狂言作者」『元禄歌舞伎の研究 増補版』笠間書院、一九八三年)。
新作は座本が一座の中心役者や作者に相談して決定する。座本が発案した狂言製作を具体化するのは作者であるが、この過程でも座本や役者の意向が十分にとりいれられていた。梗概がきまると配役がきめられ個々の役者にせりふがつけられる。このせりふ付けは稽古の場で作者を中心におこなわれた。そのさいにせりふの抜き書が役者たちにわたされた。稽古は幾度もくりかえされたが、役者たちは全体の筋を理解していたわけではなく、自分の出演する場面だけを頭に入れていた。全体の展開を理解していたのは作者であった。しかし、作者の役割を現代劇の演出家とかんがえることはゆるされない。役者はそれぞれに演技パターンをもっており、狂言の各場は役者たちの得意芸を配置してくみたてられた。役者は全体の筋を知らなくとも演技に支障をきたすことはなかった。作者の役割は最小限のアンサンブルに注意をはらう程度で、役者の演技指導までおこなったのではない。
以上は元禄期を中心とした新作狂言の製作の実態である。作者部屋が成立し、複数の狂言作者が関与するようになった幕末から明治にかけての新作造りでも基本原理に変更はなかった。河竹黙阿弥の『狂言作者心得書』(河竹繁俊『歌舞伎作者の研究』東京堂、一九四〇年)で検討してみる。
新作は立作者が座元や座頭と相談して立案した。世界と筋が決定すると、二枚目三枚目の作者も動員して一場ずつ脚本を書かせた。脚本ができあがると、座頭宅で内読み、楽屋の三階で役者たちに本読みをして聞かせた。そのあと、立作者は自宅に下級の狂言方、見習などをあつめてせりふの抜書きをつくらせた。楽屋の三階で総稽古がおこなわれる日、立作者も参加し、一日の芝居を見、せりふなどの誤りを正し、だれる所はその場に出演する役者と相談し修正をくわえた。ここでも作者は演技指導にはふみこんでいない。
江戸時代に演出はいなかった。全体を見通す演出がいなくて、個々の演技を役者がそれぞれにかためてゆき、その集成として全体の芝居がつくられた。部分から全体へという方法で江戸時代の歌舞伎はつくられた。
現代の演出は全体を見通し、その全体の構成に合わせて部分をかためる。全体から部分へという方法をとる。
評価はべつとして、このヨーロッパ演劇の方法の導入が歌舞伎の本質を変えていきます。
今回はこの辺で失礼します。