諏訪春雄通信85
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
今年度、私は中国文学講義という科目を担当しています。この科目は、これまで中国文学の専門家にお願いしてきたのですが、ちょうど講師の交替の時期にあたっていましたので、私が希望して担当することになったものです。
この通信でもたびたびふれてきましたように、学習院大学の人文科学研究所が創立されたときに、「東アジア地域の演劇形成過程の比較研究」というテーマで共同研究プロジェクトを組織して応募し、今年度で3年めをむかえることになりました。この研究は、中国、朝鮮、日本などの演劇を個々ばらばらに把握するのではなく、相互につながりのある、一個の有機的生命体としてとらえようと意図したものです。
その研究成果を、講義のなかでまとめてみようとおもったのが、中国文学講義の担当の動機でした。
まだ数回にすぎませんが、これまでに、この講義では、
『中国大百科全書 戯曲曲芸』の張庚「戯曲の起源と形成」
王国維『宋元戯曲考』
徐振貴『中国古代戯劇統論』
孫崇涛・徐宏園『戯曲優伶史』
田仲一成『中国演劇史』
などの中国演劇の誕生と形成に関する学説を批判的に要約・紹介し、それらとは異なる私じしんの考えをのべはじめたところです。
私の考えはかんたんにいえばシャーマニズム一元論です。巫覡の所作を、単独型、分業型の二種、分業型をさらに四つにわけ、全体として二種・五類としてとらえ、そのなかにのちの演劇要素、唱(歌)、念(せりふ)、做(しぐさ)、打(武術・雑技)のすべてがすでに誕生していたとかんがえることです。
そのために、祭祀・芸能・演劇の三者を区別すること、芸能はシャーマニズムの脱魂型ではなく憑霊型を母体とすること、したがって、中国芸能も演劇も南部農耕地帯にまず誕生したこと、言語行為に独白体と対話体がありその両体が巫覡所作の単独型、分業型にそれぞれよることなどの、独自の見解を用意しています。
一年をおわったときに、私の考えがどのような理論に結晶しているか、じつは自分でも大いに楽しみにしています。
巫覡行為の単独型と分業型の区別は、中国だけではなく、日本の芸能を理解するためにも、最重要の視点です。この視点から話芸を分析した文をつぎにかかげます。学習院の生涯学習センターの「日本の伝統芸能 話芸と音曲」の開講でのべたものです。
話芸と音曲を理解する五つの視点
はなす芸とかたる芸
話芸は落語、漫才、講談、浪花節など、巧みな話術によって人々を楽しませる芸だといわれる。たしかにこの四者は話芸として一つにまとめられる芸であるが、落語は〈はなす〉、浪花節は〈かたる〉といい、講談は〈よむまたはかたる〉といい、落語をかたる、浪花節や講談をはなす、とはいわない。しかし、漫才は〈はなす〉とも〈かたる〉ともいう。おなじように話芸とよばれる芸にはなす芸とかたる芸の基本的な区別があり、さらに両者の性格をかねる芸があった。あとで説明するように〈よむ〉はかたる芸の系列に属する。
日本の芸をかたる芸とはなす芸にわけてその本質をとらえてみよう。
「かたり」について石井正己氏はつぎのように説明している(『日本民俗大辞典』吉川弘文館)。
出来事を伝達し、説得する言語行為。『古事記』に始まり、あらゆる文献に見いだすことのできる語である。藤井貞和は、古代文学の中の用例を精査し、離れた場所や遠い過去に起ったこと、さらには幻想までも報知する行為であると説明した(『物語文学成立史―フルコト・カタリ・モノガタリー』東大出版会、一九八七年)。折口信夫が、「日本の声楽には、うたふとかたるとあるが、かなり完全な区別があった」と述べた(「歌及び歌物語」『折口信夫全集10』中央公論社・1966年)のは、そのとおりであった。「語り」という行為による言語芸術が、平家・説経節・瞽女歌・盲僧琵琶・奥浄瑠璃など音具を伴う語り物、そして、能や狂言の中にまで深々と入り込んでいる。
これにたいし、「はなし」について大島建彦氏はやはり『日本民俗大辞典』の中でつぎのようにいう。
散文形態の口承文芸の一種。噺とも書く。その本来の意義は、カタリとの対比によって、もっとも明確にとらえられる。ここにカタリというのが、その文句に節をつけながら、きまった長さに切ってのべるのに対して、このハナシの方は、いっそう自由にものをいうことをさしている。古くはカタリをあらわすのに、話という字を用いていたので、別にロ出・噺の字を用いるようになった。
この二つの説明によって、かたりが説得的な言語行為で音楽的な節や区切りをともなうのにたいし自由なものいいをはなしといったことがあきらかになる。
なぜ日本人の言語行為にはなすとかたるの二種があるのか。そこまで踏みこんだ説明はまだされたことがない。
シャーマニズムの二つの形態
芸とか芸能といわれるものの起源は宗教、それもシャーマニズムにおける巫の神がかり=トランス状態になっての託宣行為にある。その実際は現在の世界各地にみることができる。日本にかぎったばあい、古代の『日本書紀』や『古事記』にもその実態をうかがうことができるし、現在でも沖縄から東北までの日本各地にみることができる。その巫の託宣行為は単独型と分業型とにわけられる。
単独型とは神が直接に巫に憑依して意志をつたえ、その間に媒介者の存在しない型である。つまり、巫の口をかりて神が直接人に意志をつたえるタイプである。
『日本書紀』の「神功皇后摂政前紀」の第一の一書に、海の神である住吉大社三神ほかの神が、神功皇后の夫仲哀天皇の臣下ウツヒコマツヤタネと皇后に神がかりした話がつたえられている。神々ははじめ臣下に神がかりして「天皇に宝の国をさしあげよう」と申し出、マツヤタネがあまりよい被降神者でなかったせいか、「皇后に琴をさしあげよ」と命じる。琴は巫の降神用具である。神宮皇后は抜群の巫女であった。琴をひきながら神がかりした神功皇后の口をかりて、船と土地を神々に寄進するなら金銀ゆたかな国を天皇にさしあげようと申し出たが、天皇はこれを拒否され、そのために神々の怒りを買って急病で崩御している。
この場面で神と天皇は直接に対話している。神のことばは、トランスにはいったマツヤタネ、のちには神功皇后の口をかりてつたえられている。このようなタイプを単独型とよぶ。
これにたいして、分業型とは、神と神をまつるもの、巫のほかに、さらに第三の人物が介在し、共同して憑依現象を成立させるタイプである。この分業型にもいくつかのタイプがあり、私はつぎの四つにわけている。
ものまさ型 さにわ型 よりまし型 護法神型
ここではさにわ型についてかんがえてみる。この型は、先の神と憑依される者とのあいだに、さらにさにわとよばれる仲介者が介在する。先の引用とおなじ『日本書紀』の「神功皇后摂政前紀」の正伝にくわしい記事がみられる。
九州の熊襲討伐をおもいたった皇后は、神祭りをおこなわれ、吉日をえらんで神をまつる斎宮にはいって、みずから祭主となり、武内宿禰に命じて琴をひかせ、ナカトミイカツノオミをよんで審神者(さにわ)にしたという。
このさにわは、『政事要略』に「神明の託宣を審察するの語なり」と説明されており、『釈日本紀』に、「分明に祟る所の神を請うて知る人なり」とあるように、本人じしんが神がかりをするのではなく、神がかりをした人物から神のお告げを聞き、その意味を解く人であった。神がかりしたのはここでは神功皇后じしんであった。
この場面で、神功皇后が知りたいとおもわれたことは、前年、夫の仲哀天皇が熊襲討伐をおもいたち、やはり神意を問うたときに、顕現して天皇に託宣した神の名であった。その皇后の願いをいれてあらわれた神は、みずから神名を告げているが、神に問いただす役をさにわがおこなっている。
さにわのもとの意味はさ庭(さは神聖の意味)で、神をまねいてお告げを聞く場所であった。この意味のさにわの用例は、仲哀天皇が神意をたずねた『日本書紀』の記事に対応する『古事記』の中巻にみられる。そこで神がかりしたのはオキナガタラシヒメ(神功皇后の日本名)であり、さにわに位置して神のお告げを請いもとめたのは武内宿禰であった。このさにわは人ではなく原義の神聖な場所の意味でもちいられている。
神託を解く人の意味は、場所のさ庭にいて神意を解く人の意味から変化した。この審神者という意味のさにわの用法はいまも沖縄に生きている。また『政事要略』によると、神をまねくために琴をひく人をもさにわといった。
私は、日本人の言語行為の一つかたりは、このシャーマニズムの単独型の神から人へのお告げ、独白体から誕生したとかんがえている。神のことばであるために荘重に韻律をともなって、音楽的につたえられる。これにたいするはなしは、分業型におけるさにわのことば、対話体に由来する。さにわのことばは人がわかりやすく人にむかって解説する言語行為である。この自由さがはなしのスタイルをつくりあげた。
落語と講談・浪花節は成立を異にする話芸である
落語は滑稽なはなしの終りに落ちをつける話芸である。つまり落語は、民間のはなしが高度にねりあげられた芸である。江戸時代の前期、上方で流行した〈軽口ばなし〉がのちに江戸に文化の中心がうつったときに、江戸で小ロ出がおこなわれるようになり、落しロ出とよばれた。落語という字も十八世紀の中ごろから使用されたが、おとしばなしと読まれ、明治二十年代になって〈らくご〉とよまれた。
落語家の祖先は中世の末、戦国武将のそばにあって話相手をしたお伽衆にさかのぼることができる。彼らは自由な話で主君の退屈をなぐさめるとともに、支配者としての必要な知識をあたえる一種の教育係りでもあった。
講談は、神道講釈、仏教の説法、古典の教養娯楽的講釈、さらに室町時代以来の太平記読みなどを源流として、江戸時代に発展をとげ、明治時代に最盛期をむかえた。江戸時代には講釈、講談の双方が使用されたが、明治時代以降には講談が多くもちいられている。
講談は、通常「ヨム」といわれる。ヨムは、鎌倉時代の源氏読み、室町時代の物語僧、安土・桃山時代の物読みなど、いったん形をなした、多くのばあいは文章の形で成立したテキストを読むことを得意とした話芸の専門家に源流をたどることができる。ヨムは有形・無形のテキストの存在を前提とする言語行為であり、そのテキストははなしではなくかたりにもとづいている。講談は〈かたる〉とよばれることがあっても〈はなす〉といわれないのはそのためである。
浪花節を〈かたる〉といって〈はなす〉といわない理由も、源流をさかのぼってかんがえれば容易に納得がいく。浪花節は浪曲ともよばれ、三味線を伴奏に独演する寄席芸能である。山伏の祭文から想を得た願人坊主たちの門付け芸の系譜をひき、江戸末期にはちょんがれ、ちょぼくれ、でろれん祭文、浮かれ節などとよばれていた芸が、浪花節という呼称に統一されたきっかけは、明治五年(一八七二)に新政府教務省の指示により、組合が結成されたことにある。
祭文は、神仏をまつる祭儀の場で、むかえる神仏の由来を説明する祭司つまりシャーマンの語りにはじまり、〈かたり〉の正統を継承した言語行為である。浪花節が、節をつけて歌う部分と、啖呵とよばれる語りや対話の部分に二分されるのも、謡曲、浄瑠璃などとも共通する語り物の基本の構造をそなえている。
漫才の原型は分業型のシャーマニズムである
正月を中心に民家の門口に立ち、祝いのことばをのべて米銭を乞う祝福芸人の存在は遠く古代にまでさのぼって知られている。烏帽子に直垂または素襖姿で扇をもった太夫と大黒頭巾で鼓をもった才蔵の二人一組がふつうであった。それらは千秋(せんず)万歳とか万歳とよばれた。
この万歳の一部が明治に二十年ごろから大阪の場末の小屋で、二人の芸人による滑稽な軽口問答を演じる寄席芸となり、万才とよばれた。この万才がさらに漫才と表記され、この文字が定着した。その名付け親は吉本興行の林広高であったといわれている。従来の万歳の太夫と才蔵の系譜をひくボケとツッコミの掛け合いの妙味を、鼓などの音曲抜きで演じたのが特色で、その先駆けとなったのはエンタツ・アチャコのコンビであった。
漫才は上方で発達した芸で、現在では三味線やギターなどの楽器をもちいたり、三人、四人でおこなうものなど多様化している。大阪の寄席では漫才が主流で落語その他は色物とされるのにたいし、東京の寄席では漫才が色物の一つとされている。
漫才の原型である万歳の太夫と才蔵のコンビは、古代の巫の分業型にさかのぼることができる。トランスにはいって神のことばをつたえるシャーマンとそのことばをわかりやすく自由に解釈するさにわのコンビが芸能化して、太夫と才蔵、ボケとツッコミのコンビに変わったのである。
分業型はかたりとはなしの組み合わせで成立する。漫才がかたる、はなす、両様のいい方ができ、一方に限定されないのはそのためである。
音曲は神の出現する音響に由来する
音曲は音楽の別称として使用されるばあいと、大衆的音楽や軽音楽にたいして三味線を伴奏として寄席などで演じられる俗曲の類をいうばあいの二種がある。この二種の関係は、前項の万歳と漫才の関係と同様に、音楽を母体として三味線音曲が生れた。
ここではその両者をふくめて、シャーマニズムと音楽との関係についてかんがえてみる。音楽ははじめ神の出現のさいに発する音響として誕生した。そのイメージをつくったのは、雷鳴、山鳴り、風の音、川の音、豪雨、霰、動物の鳴き声、植物の実のはじける音などの自然界の発する音響であったとおもわれる。しかし、しだいに音響は神のこのまれるものとみられ、神の出現をうながす依代として使用され、リズムとメロデーをそなえるようになり、多様な楽器や歌が工夫された。
先に引用した『日本書紀』の「神功皇后摂政前紀」の神がかりの記事で琴が演奏されたのは、この依代としての音楽である。『古語拾遺』では、古代のシャーマンであるアメノウズメは天岩戸のまえで鐸(さなぎ、大きな鈴)をつけた矛をもち、伏せた桶を踏みとどろかしながら歌舞を演じたとある。また『梁塵秘抄』には鼓を打ち、鈴を振りながら舞う民間の巫女が登場している。太鼓、大小の鼓、琴、笛、笙など楽器の種類もふえ、弓の弦なども神降ろしに使用された。三味線の登場は江戸時代にはいってからであった。
すべての芸と芸能の源流は、シャーマニズムの憑霊型にあるとかんがえることができる。そこから距離が遠ざかるにしたがってより人間的、娯楽的に変化していった。
今回はこの辺で失礼します。