諏訪春雄通信92


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 最近ご寄贈いただいた本を紹介します。

 
芳賀 徹氏『詩歌の森へ』(中公新書・2002年9月)
吉田敦彦氏『太陽の神話と祭り』(青土社・2003年6月)
前田憲二氏『渡来の祭り 渡来の芸能』(岩波書店・2003年6月)
延広真治氏『落語の世界1 落語の愉しみ』(岩波書店・2003年6月)
服部幸雄氏『江戸歌舞伎文化論』(平凡社・2003年6月)


 いずれも、年齢は私の前後、60歳台後半から70歳台前半にかけての方々です。これらの
熟年世代の方々がいたずらに老いこむことなく、活発に成果を発表しておられるのは、私にとっても刺激になり、このうえなくうれしいことです。長年の学問の蓄積が基礎にあって、幅広い、穏当な見方を提出しておられます。ますますのご健筆をお祈りすること切なるものがあります。

 私もなまけてはおられません。
府中市生涯学習センター石川博幸さんから以下のような内容のFAXをいただきました。

 FAXで失礼させていただきます。5月31日(土)の貴大学での先生の長江流域の太陽信仰を拝聴させていただき、とても興味を覚えました。いつもアジア文化研究プロジェクトの案内を頂戴していますが、失礼しています。さて、先生にはお忙しい所恐縮ですが、当センター主催事業のひとつに、
けやき寿学園と名前をつけた、市民向けの講座に先生の講演をいただければと考え、FAXさせていただきました。

 以下の文章は以前にこの通信に連載していた
「天皇の比較民俗学」のまとめですが、あわせて、私の長江流域の太陽信仰と日本文化の関わりについての、現時点での最新の見解です。
   
【まとめ―天皇の由来―】
 
 多岐にわたって展開してきた天皇というイデオロギーの由来についての私の考えをここでまとめておく。

 中国の黄河流域に興亡をくりかえした巨大国家を支配した根本思想は、天の委嘱によって皇帝となり、天の命にそむいて皇帝の地位をおわれるという
天の原理であった。天の原理の根底には、狩猟・牧畜・畑作農耕を主要な生業としてきた華北の地の人々の星辰にたいする信仰がある。
 
 他方、長江流域で交替した弱小王権をささえた根本思想は太陽の原理であった。
太陽の原理の根底には、稲作農耕を主要な生業とした華南の地に住む人たちの、太陽と稲魂と先祖の女神の三者を一体としてあがめる信仰がある。
 
 天の信仰は、冷徹な秩序意識によって国家を運営する
官僚組織法体系を生みだし、政治が祭祀を管理する傾向をしめす。他方、太陽の信仰は、組織の中心に祭祀をすえ、祭祀を主宰する者と政治の担当者を分離させる。
 
 これまで、中国古代の国家祭祀や信仰について論じる研究者たちの多くは、中国における太陽信仰の盛行にかなり懐疑的であった。たとえば最近の研究では、松村一男・渡辺和子両氏編集の『宗教史学論叢7太陽神の研究上巻』(リトン・2000年)に掲載された池澤優氏「中国の太陽(神)祭祀の諸類型―太陽の象徴と象徴としてのー」、森雅子氏「太陽神列伝―古代中国における太陽崇拝の残影―」という二つの論文でもおなじ見解がのべられている。両氏の見解はつぎのようにまとめることができる。

  1. 中国では太陽の信仰はさかんではなかった。

  2. しかし、文献や考古資料によって、太陽信仰の痕跡や転化した姿をさぐることはできる。


 中国の信仰や神話について、これまで日本の学者が利用してきた資料は、中国の北方で興亡をくりかえしてきた大帝国において記述、作成された文献の記載がほとんどである。たしかに、中国の黄河流域では太陽信仰はさかんではない。
 
 しかし、文献資料をほとんどのこさなかった長江流域の少数民族社会では、むかしもいまも太陽信仰はさかんである。私たちは、二〇〇一年の八月、長江流域の苗、土家、?の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽信仰に出あった。
 
 しかもこれらの地域では、
太陽の信仰は女神、稲魂にたいする信仰と結合し、三位一体となっている。これは日本のアマテラス信仰と完全に一致し、祖神を主神とした、日本の大嘗祭や新嘗祭にあたる祭りもおこなわれている。
 
 中国黄河流域、中国長江流域、日本の三者の生業、信仰形態、政治形態をわかりやすく比較してみよう。
  
  中国黄河流域  狩猟・牧畜・畑作農耕  天の信仰   強大王権交替
  中国長江流域  稲作農耕        太陽の信仰  弱小王権交替
  日本      稲作農耕        太陽の信仰  天皇の永続

 この比較によって、中国黄河流域の文化体系は日本と一致点がないのにたいし、中国の長江流域の文化体系と日本は多くの点で一致している。異なるのは、長江流域では弱小王権が交替をくりかえしているのにたいし、日本の天皇制が永続していることである。天皇永続の謎を解明するための鍵は長江流域の文化にあることをこの比較がしめしている。

 日本の王権が永続することのできた秘密を解く理論はこれまでいくつか提出されてきた。
 河合隼雄氏は一九八二年に発表した『中空構造日本の深層』(中央公論社)で、日本の天皇は第一人者ではあるが権力者ではなく、その周囲にある者が中心を擁して戦ってきたと説明した。おなじ事実を中村哲氏は、虚政つまり天皇は君臨すれども統治せず、実際の政治権力は天皇家以外の家系がにぎってきたといい(『宇宙神話と君主権力の起源』法政大学出版局、二〇〇一年)、大隈清陽氏は、天皇制永続の原理を、日本の古代社会の基層にあった呪術性や神話的特性にもとめた(「君臣秩序と儀礼」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社、二〇〇一年)。

 
中空、虚政、呪術性、神話的特性とことばはちがっても、内容には共通性がある。王権の中枢に位置する天皇家は、祭祀や信仰をになう主体であって、実際の政治の権限は、周囲の官僚機構がもっていたという事実である。

 東京都つまり日本の中心部に皇居という巨大でうつろな祝祭空間がよこたわり、実際の俗事は、その周辺の霞ヶ関、丸の内、日本橋などが担当、執行しているという現代日本の空間構造がまさに日本の王権のあり方のみごとな象徴となっている。

 こうした日本の王権の原型ははるかに遠く、二世紀後半から三世紀にかけて、倭人が建国した邪馬台国の卑弥呼とその弟の関係にまでさかのぼることができる。ふつうに
ヒメ・ヒコ制とよばれるもので、王位にある女性がその霊力で祭事を、従属者である男性が政治を分担する制度である。そののちの長い歴史の経過のなかで、ヒメ・ヒコ制の基本原理は制度をささえた精神とその根底にある女性の霊力にたいする信仰と、つぎの二つの方向にわかれて、日本の王権と社会の民俗にふかく根をおろしてゆく。

  1. 古代の王権で女性が王位を継承する巫女王=女帝の制度は八世紀以降、日本の国家制度が整備されてゆく過程のなかで、皇位継承権を男性天皇にゆだねて衰亡してゆくが、しかし、天皇は実際政治に関与せず、祭事に専心するというヒメ・ヒコ制の制度にかかわる精神は日本の王権に継承され、現在にまでうけつがれている。

  2. 他方、女性がその霊力で男性兄弟を庇護するというヒメ・ヒコ制をささえた基本信仰は、後宮制度、伊勢信仰、オ(ヲ)ナリガミ信仰などに分化して、やはり日本文化の底流を形成してゆく。


 日本の王権と文化の原型を列島に移植した
倭人は越人ともよばれた長江流域の各種の少数民族である。一万二千年まえに稲を発見し、稲の農耕法とそれにともなう多様な文化をたずさえて、縄文時代から弥生時代にかけて幾次にもわたって日本列島に渡来してきた。

 女神と稲魂と太陽が一体となった信仰はいまも長江流域の少数民族社会にみることができ、また女神信仰とふかくかかわる女性の霊力にたいする信仰も存在する。ヒメ・ヒコ制ののちの形態である
オナリ神信仰がイ同族社会に存在する事実も報告されている。日本の天皇の原型は長江流域にあったのである。

 ただここで注意すべきことがある。ヒメ・ヒコ制、あるいはオナリ神信仰がそのままに日本の王権の形を決定したのではない。日本の信仰体系の源流となった長江流域の王権がすぐに交替をくりかえしたり、北方大帝国に併呑されたりしていったのにたいし、日本の王権が永続した事実をかんがえなければならない。

 もちろん、海にかこまれた島国であったという立地条件は考慮される。しかし、それだけではない。日本の王権は、太陽信仰を核とした中国の南方原理を中心にとりこむとともに、その周辺を天の信仰を核とした中国北方原理でかためたのである。

 七世紀から八世紀、日本は先進中国の北方大帝国の律令や官僚制度をとりいれ、国家としての体制をととのえていった。その試行のなかで、
中心に祭事、周辺に政治という、東アジア社会ではユニークな国家体制を形成することに成功した。長い歴史の過程で、中心と周辺の対立、拮抗、交替などの現象はたえずおこったが、しかし、全体の国家構造を破壊しきるまでにはいたらなかった。そこに天皇制永続の秘密があった。私は本書でそのことを論証してきたのである。

 以上です。いまのところ日本の王権についてこのような説をのべているのは私ひとりのはずです。

 今回はこの辺で失礼します。


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