諏訪春雄通信93


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 昨日は
「東アジア演劇の形成と展開」のシンポジウムがありました。五人の講師、それぞれが充実した発表をされたために、きわめて質の高い(久しぶりに出席された桜井徳太郎先生のおことばです)会となりました。中国、日本、韓国の三国の芸能や演劇を有機的な繋がりのなかでかんがえる視点が確立されたのはありがたいことでした。いずれ一書にまとめてご覧にいれることになります。

 うっとうしい雨の日がつづいていますが、間もなく梅雨もあけることでしょう。夏は幽霊の季節です。この通信でも幽霊については、何回かふれてきましたが、今回から数回、日本人にはめずらしい
中国の幽霊についてのべます。

 日本の妖怪を考察するうえで中国の妖怪が参考になりますし、その逆もいえます。同様に中国の幽霊についての知識が日本の幽霊の知識をふかめ、日本の幽霊の知識が中国の幽霊をかんがえる参考になります。まず、泰山信仰についてのべます。以下は私の下書き原稿からの引用となりますので、「である」調になります。

 中国の幽霊についてかんがえるうえで大きな意味をもっているのが
泰山信仰である。泰山信仰では、人間の死後の世界が泰山の近くに想定され、そこに死者の霊があつまって生活していると信じられていた。
 
 泰山は中国山東省にある山で、標高は一五三二メートル、いわゆる
五岳の一つの東岳である。古くから名山として知られ、秦の始皇帝や漢の武帝がこの山にのぼって、天神に即位の許しを請う封禅の祭りをおこなってからは神秘性をたかめた。
 
 ここがいつのころからか、冥府つまり死人をとりあつかう役所とかんがえられるようになり、
泰山府君とよばれる神の支配のもとに、人間の生死寿命や死後の審判などをつかさどった。すでに漢代の古詩や『後漢書』『魏志』などに泰山が死者のあつまる冥府であることをのべた記述がみえるので、紀元前二世紀までには泰山信仰が生まれていた可能性はかんがえられる。

 四世紀のころに新しく死者のあつまる場所として
羅ホウ山の信仰が成立し、道教の教義では泰山は羅ホウ山の出先期間として、中央政府にたいする地方政庁的な位置づけがなされたが、泰山信仰そのものは民間にふかく浸透しておとろえることがなかった。
 
 泰山信仰は説話化され、『捜神記』や『幽明録』などの
六朝以後の志怪小説のなかに登場している。そのいくつかを紹介し、当時の人びとが想像していた泰山の冥府を再構成してみよう。
 
 泰山府君は冥府の壮麗な宮殿に住んでいた。その宮殿は泰山にあったが、生者にその道筋はかくされていて、赤い服を着た
冥府の役人が目隠しをしてつれていった。生者が希望して宮殿をおとずれるときは樹木をたたいて自分の姓名を名のった。その宮殿には生者の利用できる便所があり(『捜神記四』)、まわりは城壁にかこまれた門があり、門番がいて、あやまって冥府へつれてゆかれた人間が現世へもどされるときは西門をとおった(『捜神記十五』)。
 
 泰山府君にはすばらしい
美人の娘たちがおり、彼女たちは東海の神や黄河の神にとついでいて、旅をするときには暴風雨をおこした(『捜神記四』)。
 
 泰山府君は冥府に君臨していたが、生者に私的な用をたのむときには、食事を出したり、宴会をもよおしてもてなしたたりした(『捜神記四』)。泰山府君は宮殿にいるだけではなく、大勢の供をつれて諸国を巡察した。その一行の人馬の物音は生者の耳にもきこえるが、姿を見ることはできなかった(『捜神記十五』)。
 
 冥府には多くの役人がいた。赤い制服を着た
下役人、泰山府君の近侍、城壁をまもる門番、人間の生死をつかさどり、各人の寿命をしるした帳簿を管理する司命、人間の死骸をあつかう尸曹、役所の小使、泰山の知事、地方官で記録・帳簿などを管理する録事などである。
 
 これらの役人に任命されたのは死者である。死者が冥府でどの役につくかは生きているときから決定されていたが、上役への嘆願によって転任することもでき(『捜神記十六』)、直接泰山府君にうったえて労役をまぬがれることもあった(『捜神記四』)。
 
 冥府の役人は多少だらしないところがあった。
 帳簿に記載されている人物とちがう人間をあやまって冥府へつれてくることがよくあったし(『捜神記二』)、冥府へつれてゆくはずの人間に命乞いされると心をうごかされ、まだ寿命のつきていないよく似た代わりの人間の頭に鉄ののみをうちこんでつれ去ったりした(『捜神記十六』)。
 
 あやまって冥府へつれてこられた人物が、帳簿と照合してまだ寿命のあることが判明し、現世へおくりかえされることになった。そのときにその人物が足をいためてあるけなくなると、冥府の係官はべつの人物の足ととりかえてつけ、現世へかえした。そのために彼は生涯西域人の醜悪な足を身につけて過ごさなければならなかった(『幽明録』)。

 冥府へつれ去るために迎えにきた人物の部屋へはいるとき、
敷居をとびこす拍子に、冥府の役人は記憶していたその人物の罪科をわすれてしまうことがあった。そのために、現世の人々はわざと敷居を高くつくらせた(『幽明録』)。

 現世の男から酒肴をもてなされ寿命をのばしてやった冥府の役人が露見して上役に鞭うたれることもある(『述異記』)。
 
 右のような中国の泰山信仰には、すでに
道教の影響は色濃いが、仏教の地獄・極楽観の浸透は顕著ではない。そのために、地獄・極楽観に特有な凄絶さや因果応報の考えはまだあまりみとめられず、他界と現世とは折合いをつけながら共存していた。
 
 このような泰山信仰にしめされた中国人の他界観を整理するとつぎのようになる。
 

  1. 現世とあの世との断絶観が希薄で、幽霊は自由に二つの世界を往来している。


  2. 冥府には人間の寿命や禍福をしるした帳簿が保管されており、この帳簿がかなり杜撰で、まだ寿命ののこっている別人があやまって冥府によばれるといった類の話が多い。このばあい、生者が地獄と現世を往来している。

  3. 冥府には現世と同様の官僚組織が存在していた。冥府の役人も現世の役人とまったく同様にわいろや接待によわく、手違いもやるし、ごまかしもする。中国歴代の官僚組織の弱点をそのままに反映していた。

 佛教が浸透し、その地獄観が民衆にゆきわたるようになると、幽霊も恐ろしい相貌を呈してきます。その変貌については次回以降にのべます。

 今回はこの辺で失礼します。  


諏訪春雄通信 TOPへ戻る

TOPへ戻る