諏訪春雄通信97


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 この通信の更新をしてくれるゼミ生の都合で、今回だけは金曜日に通信をお送りします。

 卒業生下野ひろ子さんからいただいた暑中見舞いの中に研究を継続することのむずかしさを訴える文言がありました。
大学院を出られ、いったん家庭に入られた方が、再度研究を志したときに出会う種々の困難を、下野さんはかかえておられます。典型的な例とかんがえられますので、この通信でとりあげさせていただきます。

 
下野さんの悩みはつぎのようにまとめられます。

  1. 院生時代にとりくんでいた近世の演劇研究から南米文化にテーマを変更したこと。

  2. 研究の拠点を失ったこと。

  3. 成果を発表する機関がないこと。

  4. 同じテーマに取り組む相談相手がいないこと。

  5. 成果がなかなかまとまらないこと。

  6. フィールドワークに参加せず、他人の研究に依拠する後ろめたさ。

 の問題は、下野さんにとってかならずしも不利にはなっていません。夫君について南米ペルーで数年すごされ、そこで関心をもたれたテーマですから、研究意欲をつよく持続することのできる課題です。語学のできることが貴方の最大の強みです。

 はたしかに研究を困難にします。資料を見せてもらう場合でもまず身分を問われ、大学や研究機関に所属していないと断られるケースがあります。@学習院大学大学院修了で通す、A学習院大学図書館の紹介状をもらう、B文化人類学系の教授の縁故をつくりその紹介をうける、C関連する学会に所属するなど、いくつかの方法を講じるよりほかありません。

 、学会に所属して、その学会誌に発表するというのが、最良ですが、べつに、きわめて興味ぶかいテーマですから、はやく成果をまとめて、一挙に単行本にすることをかんがえた方がよいかも知れません。そのさいには、私がご相談にのります。

 、図像学的テーマですから、私にはふかい関心があります。すでに下野さんの発表は数回聞いていますが、私自身大きく啓発され、中国古代の図像との共通の法則を感じとっています。私のまわりには、下野さんとおなじように家庭にはいられながら、研究を継続している方々が多数います。それぞれのテーマは違いますが、この方々が最良の研究仲間であることは、下野さんも感じとっておられると思います。

 、これは下野さん自身の問題です。全体をつらぬく強力なテーマを設定し、すべての研究が最終的にそこへ収斂してゆくように心がけること。その目的にむかって、地道に一歩ずつ積み重ねてゆくこと。専門外の読者にも理解してもらえるように、文章を練ること。などなど、注意しなければならないことは多数あります。

 、日本民俗学の創立者
柳田国男はある時期からフィールドワークはやっていません。全国の民俗学愛好者からよせられた情報を成城の自宅で収集し、あれだけの膨大な研究を完成しました。不滅の名著『金枝篇』をまとめて、文化人類学の父フレーザーもロンドンをはなれずに、伝聞で膨大な資料をあつめています。欧米の考古学界では、現地調査をせずに他人の成果を利用して理論を構成する比較考古学という学問が市民権を得ています。他人の研究にいかに誠実に対応するかという問題です。

 自信をもって研究をつづけてください。

 今回は朝鮮と日本の鬼についてのべます。


【朝鮮の鬼】
 鬼についての思索は朝鮮半島でもつづけられていた。朝鮮半島は多くのばあい、海をへだてた日本よりもはるかに直接につよく、中国の民俗や習俗を反映している。朝鮮の代表的な鬼に関する見解を昭和のはじめに編集された『朝鮮の鬼神』(朝鮮総督府、一九二九年、国書刊行会から一九九五年復刻)によって紹介する。
 十八世紀に李朝の学者李ヨク(「さんずい」に「翼」)は「鬼は人と同様に知覚があり、人のなすべきことはすべてできないものはない。また鬼は気であるから、はいってゆけないところはなく、木石を透徹することもできる」とのべ、「鬼は陰の霊であり、神は陽の霊である」としている。このような陰陽で鬼と神との関係を説明しようとすることは、同時代の李朝の金時習という人の説にもみられ、おなじ考えはそののちの朝鮮の学者たちに代々うけつがれている。源は中国の陰陽説であり、その影響をうけている。
 
 ほぼおなじ十八世紀に生きていた学者の張継弛は「人のはじめて死するや鬼神あり、久しければすなわち鬼なし」といっている。つまり鬼は人の死霊であって、死後しばらくのあいだは存在するが、長く時間が経過すればなくなるとかんがえていた。

 全体として中国の鬼観の影響下にあった知識人の鬼の観念と対応しながら、一般の民衆のあいだにも鬼についての見方は存在した。多くは、学者の考えと一致していたが、独自のものもすくなくなかった。やはり、『朝鮮の鬼神』のなかで、「民間の鬼神観」としてまとめられているものをつぎに概観する。
  
1 鬼の善悪
 「鬼は善もあるが悪もある。鬼はさだまった形がなく、宇宙のあいだに充満していて、さかんに人間と交渉する。人と交渉するときは善としてよりも悪として交渉するばあいが多く、したがって一般民間の人は鬼を悪とみなすことが多いのである」
 鬼が本来善の性格をもつか悪の性格をもつのかという問題は、中国でも日本でも大きな議論をよんできた。中国の学者は、すでにのべたように、鬼じたいは本来善悪両様の性格をもち、人間の祭り方によって善にも悪にもなるのだと説明している。日本についてはのちにかんがえるが、朝鮮の民間でも、もともと両方の性格をもつが、人間と交渉するときは主として悪の性格をあらわすのだとかんがえていた。やや苦しい説明法であるが、大陸の鬼の性格の重要なものを指摘していることはたしかである。
  
2 鬼と陰陽
 「神が陽の存在であるのにたいし、鬼は陰の存在である。したがって、鬼は陰気をこのんで陽気をきらう。鬼のこのむものは、腐敗、汚濁、欠陥、弱小、衰退、暗闇、柔軟など、すべて陽気のさかんなものをきらい陰気のまさっているものをこのむ」
 陰陽の見方は中国にはじまって、朝鮮の知識人のあいだにひろくみられ、朝鮮の民間にもひろまっていることがわかる。
  
3 鬼のたたり
 「鬼が人と交渉するばあい、『たたる』『憑依する』という方法をとる。これは鬼が人によってその要求をみたそうとすることである。鬼は陰の存在であるから、人にたたるばあいでも、元気さかんな人によりつくことはない。人によりつくときには、人の外にあってあやつるばあいと、人の内にはいって害するばあいがあり、多くは後者である。鬼が人の内にはいる出入りの門は、主として口であり、つぎに耳で、目と鼻はさける。口からはいるには、よごれた空気とくさった食物を媒介とする」
 人が病気にかかることを鬼のたたりとみていたことが、これらによってわかる。
  
4 鬼の誕生
 「鬼の誕生については、もともと存在したもの、別のものから転生したもの、の二つのばあいがある。もともと存在したものは、山川、湖沼、山沢、川辺、林間などの陰気に満ち、人を恐れさせるところにもともといた鬼であって、この鬼の由来は不明である。別のものから転生した鬼には、生物と無生物の二種類がある。生物は人間をはじめ、鳥獣虫魚などがある。人は死ぬと魂と鬼と魄の三つにわかれる。魂は天にのぼり、魄は地に帰り、鬼は空中に存在する。この魄と鬼が正当な祭りをうけないと鬼となる。人間以外の生物が鬼になるのは、その寿命が長くなって人との接触が多くなったもの、あるいは人から苦痛をあたえられたものが、精気がこってたたりをする鬼になる。無生物、たとえば家具、器具などが鬼となるのは、その使用期限が長くなったもの、あるいは人体にふれたもの、ことに人の血、汗などにふれたものが鬼となる。これらの無生物が鬼になるのは、そこに鬼がやどるためとも、それらの無生物にも精霊が存在し、その精霊が鬼になるのだともかんがえられている」
 これまでみてきた朝鮮の鬼の見方は中国の鬼の観念とおどろくような一致をしめしている。人格化された精霊であること、本来は善悪を超越した存在であるが人間に接触するときには主として悪の性格をあらわすこと、などは中国と同様であり、しかも中国のあいまいさを払拭している。

【日本の鬼】
 中国や朝鮮半島の鬼と比較したとき、日本の鬼はどのような本質をもつのか。日本の鬼も「人格化された精霊」という本質は中国や朝鮮と一致するが、仔細に検討すると日本の独自性もそなえている。これまでに獲得した知識を総合して、日本の鬼の正体を捕捉してみよう。

イ 日本の鬼は神と区別される。
ロ 日本の鬼にも自然系と人間系の両者がある。
ハ 日本の鬼にも生者系と死者系の両者がある。
ニ 日本の鬼にも善悪両者がある。基本的に、修験道系の鬼は善であり仏教系の鬼は悪であるが、佛教系にも善鬼が存在する。
ホ 日本の鬼も妖怪や幽霊とかさなるがずれる部分もある。

 この五点のうち、完全に中国と区別されるのはであり、以下の四つは、一部は中国とかさなるが、一部はずれている。

 今回はこの辺で失礼します。


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