諏訪春雄通信100


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 この通信も
100回をむかえました。2001年6月25日に第1回を送信し、足掛け3年になります。近く発行予定の会報最終記念号に内容一覧が掲載されます。

 10数年ぶりで
日本武道館の平山佳摂さんからお電話をいただきました。私のよく知っていた平山さんは、武道館が刊行している月刊誌の『武道』に、当時私が連載していた原稿を受け取りにわざわざ私の家へきてくださる編集実務の担当者でしたが、今は教育文化部出版広報課課長の要職にあります。

 用件は同誌にもうけられている
「色紙に書く 座右の銘」という欄に掲載する原稿と毛筆の色紙一枚を送ってくださいというものでした。この色紙は抽選で読者に贈呈されるという同誌の目玉企画です。

 毛筆が苦手の私は大いに躊躇しましたが、せっかくの平山さんの依頼ということで、勇をふるって筆ペンで色紙に
「細部に神宿り給ふ」と私の好きなことばを書き、つぎのような内容の一文を添えました。

「私は江戸時代の戯曲作者近松門左衛門の研究から出発した国文学者である。国文学は研究が細分化されていて、せまい専門分野から抜け出すことができない。近松の研究で出発したのなら、生涯近松をはなれないのが美徳とされる。しかし、重箱の隅をつついてわずかな資料をあさっていると、鬱屈してくる。学問はこれでよいのかという思いにとらわれる。そのときに支えとなったのが〈細部に神宿り給ふ〉というヨーロッパ近代の文化人類学者のことばであった。
 どんな些細な現象のなかにもたしかに
《普遍的な真実》つまり《神》は宿っている。問題は、その神の存在を信じ、それを発見する能力をもっているか、どうかである。」

 このように書きはじめた私は、具体例として、江戸時代の演劇の興行形態であった五幕と、時代浄瑠璃の三段目切の悲劇という、二つの問題を例にあげて、その由来を中国古代の陰陽五行思想と祭祀にささげられる供物の犠牲で説明し、最後をつぎのようにむすびました。

「私たちの日常は些事の連続である。しかし、その些事のなかに神が宿っていると信じることによって、その些事の無意味さに耐えることができる。しかし、神はただ待つだけでは顕現しない。些事のなかに神を見る信念と能力をもつ者にだけその姿を見せてくださる。
 《細部に宿り給ふ神》は
発見されることを待ちつづける神である。」

 この私の文と色紙は9月28日に発行される『武道』の10号に掲載されます。


 日本の王権神話についてのべます。

〈質問〉なぜ狩猟・牧畜・畑作農耕が天の信仰とむすびつき、稲作農耕が太陽の信仰と結合するのでしょうか。

 信仰や宗教の形態を決定するもっとも根本の要因は、食糧をどのようにして獲得するかという
生業です。生業は自然環境に左右されます。厳密にいうなら、自然環境プラス生業が信仰の形態を決めます。わかりやすいモデルとなる理論をつくりだすために、地球環境を非農耕地帯(採集狩猟地帯)農耕地帯とにわけてみますと、このご質問にこたえるための重要なヒントがみえてきます。

 もちろん、人間の文化は地球を改造して、生業の形を変えましたので、現在ではこのような区分はほとんど通用しません。あくまでも信仰や宗教が誕生してきた古代世界を主たる対象とした
モデル理論です。

 世界の宗教を
一神教多神教にわけることがあります。一神教は一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理をもち、全知全能の万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェ(エホバ)の神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の仏教、中国の道教などがこれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は
牧畜経済の砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕経済の温帯地域に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義で説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。

 これは一神教が砂漠に誕生したことと関係があるとされています。恵まれない自然環境で大地からの食糧獲得を期待できない砂漠では、地上から
超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。対する多神教は食糧を生産する豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもありました。

 中国北方を砂漠地帯とよぶことはできませんが、
黄土高原のつらなる黄河流域はゆたかな農産物を生む長江流域の南方にくらべて、生業からみてめぐまれない地帯であったことは否定できません。

 黄河流域に稲や雑穀の農耕がはじまった時期は、
長江流域に稲作農耕のはじまった時期にかなりおくれます。長江流域では、すでに説明したように、中流域から一万二千年まえの栽培稲の痕跡が発見されています。これが孤立した事例なら、疑問ももたれることになりますが、長江流域にはそれ以降連続して栽培稲の遺跡が発見されています(拙稿「稲を運んだ人びと」諏訪春雄・川村湊『アジア稲作文化と日本』雄山閣、一九九六年)。

 湖南省 彭頭山 長江中流 八千五百年前
 浙江省 羅家角 長江下流 七千二百年前
 浙江省 河姆渡 長江下流 七千年前
 湖南省 城頭山 長江中流 六千八百年前
 江蘇省 草鞋山 長江下流 六千年前

 草鞋山遺跡からは水田稲作の跡が出てきていることについてはまえにふれました。これにたいして北方の稲・雑穀の出土状況は南方に比較して四千年ほどおくれます(黄強「中国の稲作遺跡と古代稲作文化」前掲『アジア稲作文化と日本』)。

 河南省 賈湖  淮河上流 八千年前   稲
 河北省 磁山  淮河上流 八千年前   アワ
 河南省 裴李崗 淮河上流 七千五百年前 キビ

 これらの遺跡は、北方といっても比較的南の淮河上流の遺跡です。より北方の黄河流域に注目しますと、
アワの出土した五千年前の河南省仰韶文化遺跡にまでさがってしまい、長江流域の稲の出土よりも七千年もおくれます。この気の遠くなるような時間の差が、中国の南と北の環境条件の違いをあらわしています。この相違が南では大地への信仰を生み、北では天への信仰を生んだとみることができます。

 南の温和な環境では
太陽がすべての生命をはぐむ恵みの源泉ですが、北方の黄土地帯や砂漠地帯ではつよすぎる太陽光線はむしろ生物の生命をうばうことすらあります。昼間の熱気の去った夜の星が救い主だったのです。

 さらに南北の地勢と文化の違いについてかんがえます。
さきに
『楚辞』の民謡を分析したときに、巫女が朝日の視点と自身の視点を使いわけて、朝日の心境を一人称で吐露したり、巫女の視点から朝日を客観的に描写したりしていることを指摘しました。これは太陽神が巫女の身体にやどるシャーマニズムの憑霊型(ポゼッション型)がさかんであったから可能な表現でした。

 古来、中国の長江流域は神が人間に憑依する憑霊型のシャーマニズムがさかんでした。春秋時代の歴史をしるした
『国語』に楚の国王の質問にこたえて臣下が「いにしえは民と神がまじりあっておらず、民のなかのさわやかで誠実な者、厳粛公正な者に大いなる神が降られた。男なら覡、女なら巫といった。のち、徳のみだれた世がくると、民と神はいりまじって区別できなくなり、人々は自分勝手に祭りをおこない、家ごとに巫や史をつくった」とのべています。史は覡の別称です。前述の『楚辞』にはほかにも神が巫女の身体にやどる情景をうたった詩が出てきます。

 他方、黄河流域では古来人間の魂が脱け出て神のもとにおとずれる
脱魂型(エクスタシー型)のシャーマニズムがさかんでした。これもまえに引用した『詩経』で、文王の御霊は天地を昇降して天の神の側につかえていると詠まれていました。こうした表現は脱魂型のシャーマニズムの信仰のうえに成立するものです。

 天によって任命された天子=皇帝は、つねに天をまつって、その意志にしたがって政治を執行しなければなりませんでした。天の神をまつる郊祀は天子だけがおこなうことのできる特権でした。
『礼記』にはつぎのようにのべられています。『新釈漢文大系 礼記』(明治書院)から引用します。

 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月にまず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川に対して〈望〉という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を見る。(王制)
 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹と犠牲をならべ、これを燃やして天におくりとどける儀礼でした。このような儀礼の形態も脱魂型のシャーマニズムからの展開でした。

 
現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私は、かなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています(諏訪春雄「現代宗教の動向」『科学研究費補助金研究成果報告書』学習院大学東洋文化研究所アジア文化研究プロジェクト、二〇〇三年)。

 脱魂型シャーマニズムが
採集狩猟文化と関りをもち、憑霊型シャーマニズムが農耕文化と関りをもっているという事実は中国にかぎられた現象ではありません。このことは多くの研究者がみとめています。地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林太良「シャーマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社、一九九一年)。

 なぜ、採集狩猟民がシャーマニズムの脱魂型を生み、農耕民が憑霊型のシャーマニズムを生むかという問題についてはまだ正解が提出されていません。私はいまのところつぎのようにかんがえています。

 採集狩猟民は食物をさがしまわります。ことに狩猟民は
獲物の獣を追いかけます。その食物、獲物は身体の内部に神をやどしています。その神は獣という物体の本拠にとどまってうごかない神ですが、それをやどした獣ははげしくうごきまわり、狩猟民は神をつねに追うことになります。この人たちのあいだに天の信仰が誕生したとき、獲物の獣は神の子、分身と意識され、神のもとへおもむことは天へのぼることと観念されました。幾世代にもわたる神を〈追う〉生活が脱魂型のシャーマンを誕生させました。

 他方、農耕民は大地をたがやして
収穫を待ちます。農耕時代をむかえて神は収穫物という物体の本拠をはなれてうごくようになりましたが、その神をやどした依代としての収穫物は待つことによってしか農耕民の手にはいりません。幾世代にもわたって神を〈待つ〉生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンは、自己の肉体に神を待ちうける憑霊型を誕生させました。最高神の太陽神は、地上のシャーマンにやどるようになったのです。これが私の考えです。

 
〈生業が信仰を決定する〉という私の判断がその根底にあることはいうまでもありません。
 
〈質問〉中国南方と日本古代の神話や信仰の一致が偶然ではないなら、人的、文化的交流があったことを証明する必要があります。日本へ渡来してきたといわれる中国長江流域の倭人(わじん)と越人(えつじん)について説明してください。

 中国の
長江下流域には古来倭人とよばれる人たちが住んでいました。前掲の『川海経』、『漢書』(一世紀成立)、『論衡(ろんこう)』(一世紀成立)そのほかの書によると、長江南部のほかに、朝鮮半島南部日本などにも倭人はひろがっていました。倭人ということばの意味は、背がまるくてひくい人とか、中央から遠い土地の人とか、従順な人とか、もともとあまりよい意味ではありませんでした。

 右のような歴史の書物をしるした中国の中央の人たちからみて、異なった文化をもった遠い国の人々を多少見下げてこのようによんだものとかんがえられます。
倭人が住んでいた江南の地にはまたふるくから
越人とよばれた人たちが住んでいました。彼らのことは、『呂(ろ)氏(し)春秋(しゅんじゅう)』(四世紀)、『漢書』顔氏(がんし)古注などに「百越(ひゃくえつ)」として登場してきます。

 たとえば、『漢書』の顔氏古注には「交趾(こうし)(現在のベトナム)から会稽(かいけい)(現在の浙江省)に至る七、八千里のあいだに、百越が入りまじって住んでおり、それぞれに違う姓をもっている」と説明されています。
長江にそって南側の地に多くの越人が住んでおり、なかでも下流の江南地方に住んでいた人々がとくに倭人とよばれていたことになります。

 この百越に属する種族にどのような種類があったかについても記録がのこっています。漢代の儒教経典『周礼(しゅうらい)』そのほかによると、於越(于越)、南越、区呉、駱越、南揚、甌人、目深、夜郎などの名があがっています。現在の中国五十六の少数民族のうち、チワン族一三三七万人、プイ族二一二万人、スイ族二八万人、トン族一四二万人、リー族八一万人、タイ族八三万人、高山族四〇万人などが、むかし越人とよばれた人たちの子孫であったことがわかります(『百越史論集』)。

 この百越は、新石器時代晩期ごろからそれぞれの土地に住みついたであろうといわれています(前掲『百越論集』および『壮族通史』)。
中国の新石器時代晩期は、紀元前五千年くらいまでさかのぼりますので、日本では縄文時代、それも早期とよばれる時代にあたります。そのころから中国南部、それも海岸地帯を中心に住みついた越人たちも、やがて北方に商、周などの王朝が成立しますと、その統治にはいる民族もあらわれ、さらに春秋戦国時代を経て、秦、漢などの強力な統一国家が生まれますと、その支配に組みこまれて歴史の表舞台からは姿をけしてしまいました。

 しかし、商、周の下にありながらも、しだいに力をたくわえていった越人たちの一部は、紀元前八世紀に犬戎(けんじゅう)の侵入をうけた周(西周)が弱体化して、春秋時代がきますと国をつくる種族もあらわれました。越と呉(ご)です。

 
は、いまの浙江省の紹興を中心に勢力をもった国で、百越の一つの於越(おえつ)(于越(うえつ))の人たちが、紀元前七世紀のころに建国しました。これにたいする呉は、やはり百越の一つであった句呉(こうご)の人たちがたてた国で、現在の江蘇省の太湖の周辺にひろがり、越ととなりあっていました。

 『史記』によると、呉を建国した太(たい)伯(はく)は、周の古公亶父(たんぽ)の長男でしたが、後継者問題で身の危険を感じ、この江南の地にのがれて文身(いれずみ)・断髪し、後継者となる意志のなことを表明して句呉と称したといいます。こうした事情を知って、この地の人々千余家が彼にしたがいました。建国の時期は不明ですが、越にすこしおくれたのではないかといわれています。

 紀元前四七三年、春秋時代の末、呉は夫差(ふさ)が王の時代に越王勾践(こうせん)によってほろぼされました。このときに、呉の国の越人たちは朝鮮半島に亡命し、さらに日本へわたったとおもわれます。

 中国の六朝(りくちょう)時代の歴史を記述した『晋書(しんじょ)』(七世紀成立)や『梁書(りょうじょ)』(七世紀成立)に、中国を「おとずれた
日本の倭人が、自分たちは呉の太伯の子孫だと名のったとあるのは、彼らがこのときの亡命者たちにつながる人たちであったことをしめしています。また、日本の広島、高知、大分などの地名に呉が多いこと、室町時代の京都の僧侶中巌円月(ちゅうがんえんげつ)(一三〇〇〜七五)の著書『日本書』に、日本の神武天皇が呉の泰伯の子孫だとしるしてあるのも、この事実に対応しています。

 呉をほろぼした越王勾践は、北上して山東半島の南側、亜熱帯性気候の北限にある現在の青島(チンタオ)市の西南方の琅邪(ろうや)に一時都をうつしました(漢代成立の『呉越春秋』)。ここからは海峡をへだてて朝鮮半島は目と鼻の先です。越人はことに航海術にすぐれていた人たちでしたので、すぐ朝鮮にわたり、その南の端に自分たちの故郷と似た風土の土地を発見して住みつき、さらに環境条件のよく似た日本へもうつり、海岸低地に居住したとおもわれます。また、紀元前三三四年ごろには、越が楚によってほろぼされました。このときにも大量の越人が、朝鮮半島や日本へわたったとみられます。このように、
日本や朝鮮半島への越人の渡来は幾次にもわたっていました。これが、日本や朝鮮の倭人でした。

 中国の学者たち、ことに考古学者たち は、百越に共通する文化的特徴として、「印紋陶(いんもんとう)文化」をあげています(『百越史論集』『壮族通史』など)。つまり紋様のついたやきものであり、そのなかにはいわゆる土器もふくまれますので、
日本の縄文土器や弥生土器との関係も生まれてきます。

 しかし、越人の文化はやきものにかぎりません。
 『三国志』(三世紀成立)の「魏志東夷伝」の倭人の記事、一般に
『魏志倭人伝』とよばれる資料には、日本の倭人の習俗がかなりくわしく記載されています。
海の魚をとって生活し、航海にすぐれ、目立つ習俗として、文身、断髪、蛇や竜にたいする信仰、貫頭衣(頭からすっぽりかぶって顔を出す袋型の衣装)、航海における持衰(じさい)(犠牲者をあらかじめえらび、航海がうまくゆけば手厚くもてなし、うまくゆかないとすべての責任を負わせて殺害する習俗)、双系的親族組織(父方、母方双方の血筋をたどることのできる親族制度)、歌垣や妻問い婚、一夫多妻制、ヒメが聖(神祭り)を担当しヒコが俗(政治)を担当するヒメヒコ制、王殺し、などをあげることができます。これらは、いずれも越人の住んでいた中国南部、ことに江南の習俗とかさなっています(大林太良氏『邪馬台国』中公新書、一九七七年)。
 
 『魏志倭人伝』にみえる
邪馬台国の記述は、二世紀末から三世紀の事情をつたえるもので、考古学の時期区分では、弥生時代の後期後半にあたる。したがってこの記事は、日本の弥生時代の記述としても読むことができます。『魏志倭人伝』によれば、「稲や苧麻(ちょま)を植え、蚕から絹糸をつむぎ、絹織物や綿織物を生産する」とあり、水稲耕作がひろくおこなわれていたことがあきらかです。
 
 越人の一部である倭人が、中国の江南から日本へもちこんだ文化が、
日本の弥生文化の重要なものを形成したことは疑問がありません。

〈質問〉長江中流域から越人、倭人によって日本へつたえられた縄文、弥生の文化のうち稲作以外の文化について説明してください。
〈質問〉日本の王権神話の最初に登場してくる国生み神話と中国南方の少数民族神話との関係についてお話ください。

 この二つの質問については次回でおこたえします。

 今回はこの辺で失礼します。


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