諏訪春雄通信104
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
前回の通信でふれました『東海道四谷怪談』の放映日が11月12日(水曜日)ときまりました。制作会社のAMAZONからはそののちもよく問い合わせがありますので、この作品で何を描こうとしているのか、意図がよくわかります。
『東海道四谷怪談』を単なる怪奇幽霊話としてあつかうのではなく、この作品が表現する男と女の本質が現代にとってどのような意味をもつのか。その一点にしぼって映像の力でうったえようとしています。
スタッフの方々からの質問に応対していいますと、学問が最終的に何をめざすべきなのか、いろいろと考えさせられます。作品の完成が楽しみです。
二人の孫のうち、上の六歳の孫は両親についてアメリカのテキサスに行ってもう三年になります。こちらは気が強くて、初めて幼稚園に入ったとき、ことばが通じないためにまわりと喧嘩ばかりしていたようです。
ついに手を焼いた担任の先生から両親に呼び出しがかかりました。保育を断られるのではないかと、おそるおそる出頭した娘夫婦に、担当の若い女の先生は、「ヒロ(孫の名)のことばが私にわかりません。日本語をおしえてください」と真剣に頼んだそうです。この話をきいたとき、アメリカという国の底知れぬ懐の深さを感じました。
下の三歳の孫がつい先日、これも両親の都合で渡米してメリーランド州に住むことになりました。こちらのほうは気がよくて、いじめられてもやりかえすようなこともありません。
しかし、この子はこの子なりに、きっとアメリカの子ども社会にうまく適応してくれることでしょう。
どちらの孫も私の家にやってくると、母親にしかられながらも私の部屋にやってきて、膝のうえにのって私の机をひっかきまわすことを無上の楽しみにしていました。
アメリカでそだつ二人の孫が大きくなったときに、日本の伝統文化に誇りがもてるようになる研究をのこしておいてやりたい、というのがせめてもの私の願いです。親馬鹿ならぬ祖父馬鹿です。
(質問)日本の国生み神話にはイザナギによる黄泉国訪問譚があとにつづきます。中国の洪水神話にもこうした物語があったのでしょうか。
洪水神話に黄泉国訪問譚の結びついた神話を私はまだ中国で発見していません。おそらくこの二つの物語の結合した神話は中国には存在しないのではないでしょうか。
以前にも述べましたように、『日本書紀』の正書には黄泉国訪問譚はありません。十一種もの異伝をつたえる一書でも『古事記』のようにととのった形の訪問譚をそなえているのは、第六、第九、第十の三種にすぎず、『古語拾遺』にもありません。洪水神話と黄泉国訪問譚をむすびつけたのは、日本神話の構想だったのではないでしょうか。
黄泉国訪問譚の成立は複雑なようです。イザナミが黄泉国の食物を食べたために現世に戻れなくなってしまうヨモツへグイ、妻の姿を見てはならないという見るなの禁忌、さらにみずらや櫛を葡萄や筍に変えて逃げる呪的逃走、桃の実を追手に投げつけて撃退する桃の呪力などについての研究がこれまでに積み重ねられています。それらの研究はすべて正しい方向を指しており、日本神話の成立の複雑さを示しています。
愛しい夫の迎えを受けたイザナミは、ヨモツヘグイをして、もう現世には戻れないのですが、黄泉国の神と相談して現世に戻ろうと考えました。そして自分の姿を見ないでほしいと夫に言い残して御殿の奥深く入っていきました。そのあいだに待ちかねたイザナギが爪櫛の歯に火をともして妻の死体を見ると、その身体には蛆がわき、各部から八種もの雷が生じていました。
この個所に古代の葬制の「殯(もがり、あらきとも)」の反映をみようという説が定着しています。「もがり」というのは、人が亡くなると、遺骸を納めた棺をある期間埋葬せずにおいて、蘇生することがないのを確認してから墓に葬った埋葬法で、弥生時代の後期から貴族社会に火葬が実施されるようになった八世紀のころまでおこなわれたといいます。
『古事記』や『日本書紀』などの記載によると、天皇が亡くなりますと、遺骸を納めた棺を安置しておく「もがり」とか「あらき」などとよばれた建物を宮殿の庭につくっています。その期間は一年以上五年を超えることさえありました。その期間をすぎたあとに正式な墓をつくって埋葬しました。
一般に複葬または二重葬制と呼ばれることもある弔い方は、人間の死を、肉体の死とその死後の直後の時期、中間の時期、最終の儀礼、の三段階に分けて捉えます。死の直後から中間の時期までは肉体が腐敗してゆく期間であり、このあいだは死者の霊魂はまだ死者の肉体に留まっていて、生者を脅かし続けるきわめて危険な危険な時期であり、また不浄な状態にある時期です。したがって厳重な喪にも服さなければなりません。
この危険な時期が終わり、最終の儀礼の段階になると、多くはそこで洗骨がおこなわれ、正式に埋葬されます。
イザナミの死体が現世にもどる可能性をのこしたまま放置されていたのはたしかにこの「もがり」の期間とみることができます。
黄泉国神話が当時の葬制を反映しているのは以上にとどまりません。
古墳時代の横穴式石室の入り口近くでまれに土製のかまどに釜とこしきをのせた炊具一式が発見されています。この遺品について、イザナミのおこなったヨモツヘグイに相当する儀式が実在していたのだと考えたのは小林行雄氏でした(「黄泉戸喫」『考古学集刊二』一九四九年、のち『古墳文化論考』平凡社、一九七六年に収録)。
この論考をうけて、さらに、白石太一郎氏は、石室の閉塞部内におかれた土器などを根拠に、イザナギが黄泉国から逃走して現世に帰還するさいにイザナミにむかって夫婦離別のことばをいいわたした、いわゆるコトドワタシの儀礼が実際に当時おこなわれていたとかんがえました。つまり、横穴式石室をとじるときに、死者の飲食用の器材として土器などを埋葬して、ほうむられた人に死者と生者の別離を宣言する儀式が実施されていたとかんがえたのでした(「コトドワタシ考―横穴式石室墳の埋葬儀礼をめぐってー」『橿原考古学研究所論集 創立三十五周年記念』吉川弘文館、一九七五年)。
このような考古学者を中心とした研究によってあきらかにされた黄泉国神話が古代日本の葬制を反映していたことは認められるでしょう。しかし、だからといって黄泉国神話が古代日本人の独創であったときめつけることには問題が残ります。古代日本の葬制の由来は大陸にあったと考える余地があるからです。
たとえば「もがり」という習俗はあきらかに中国南部に存在していました。『魏志倭人伝』に倭人の習俗をしるしたつぎのような記事がのっています。
その死には、棺あれど槨なし。土を封じて冢をつくる。はじめ死するや、停喪すること十余日、時に当りて肉を食わず、喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲酒す。すでに葬れば、家をあげて水中にいたりて澡浴し、以て練沐(れんぼく)のごとくす。
注を加えます(佐伯有清『魏志倭人伝を読む 上下』吉川弘文館、二〇〇〇年、参照)。棺は死体をじかに収納する箱で、内棺といいます。槨は死体をおさめた棺をめぐらす外箱で外棺ともいいました。「土を封じて……」は土を盛りあげて塚をきずくことです。停喪は、人の死後、遺体を棺に納めて「もがり」をして埋葬しないことをいいます。『晋書』の賀循伝にも江南の地方にもがりの風があったことをしるしています。『魏志倭人伝』の記載は基本的に中国江南の習俗をしるしていると判断できます。
長江下流域には今も「もがり」がおこなわれています。一九九三年四月から五月にかけて、上海、無錫、舟山列島、浙江省寧波市、同奉化市、同テイ県などを調査してまわったことがあります(「中国舟山列島に日本文化の源流をさぐる」『中国東海の文化と日本』勉誠社、一九九三年)。この地方一帯にもがりの習俗がおこなわれていました。死者が出ると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに殯廓とよばれる仮の埋葬の墓をつくっておき、一年または三年を経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。
『魏志倭人伝』の「水中にいたりて……」の記事も黄泉国神話との一致が注意されます。澡浴、練沐ともに水で身体を洗い清めることです。『古事記』や『日本書紀』によれば、黄泉国から戻ったイザナギは筑紫の日向の橘の小門のアハギ原で水中に潜って禊をしています。
そのほか、イザナギの呪的逃走とハニ族の野辺帰りの習俗との一致を説く曽紅氏の論も注目されます(「ハニ族の葬俗と日本の葬俗との比較」『東アジアの古代文化 71号』大和書房、一九九二年)。
黄泉国神話の背景になった横穴式石室は、割石や切石を積んで墓室をつくり、土でおおって墳丘とするもので、遺体を安置する玄室とそこへの通路の羨道(えんどう)から成っています。日本へは四世紀末ごろに朝鮮半島からはいったとされていますが、その源流は中国大陸の墓道をもつ墓室にもとめる説が定着しています(『国史大辞典』吉川弘文館)。
黄泉国神話の原型も中国大陸南部の原夫婦神話にもとめることができる(大林太良氏発言「中国東南に集中する原夫婦神話」『倭族と古代日本』雄山閣、一九九三年)とおもわれます。
〈質問〉日本神話には黄泉国神話のあとに三貴子分割統治の物語がつづきますが、この物語の源流も中国南部にもとめられるのでしょうか。
この問題については次回でおこたえします。
今回はこの辺で失礼します。