諏訪春雄通信118


 今週から来週にかけて二つの博士論文の審査委員会の主査をつとめます。『中国伝統演劇様式の研究』(東洋大学助教授有澤晶子さん)『近松浄瑠璃正本の研究』(学習院大学講師森谷裕美子さん)です。学習院大学を定年退職する最後の年にこの二つの学位論文の審査をつとめることに、特別の感慨をおぼえます。

 私は卒業論文と修士論文で、
近松をテーマにとりあげました。近松は私の研究の出発点でした。それから半世紀たって、今、私は、中国をふくめた東アジア社会の芸能と演劇が単独に誕生し発展したのではなく、相互に有機的な関連をもって展開したというテーマにとりくんでいます。

 森谷さんの論文は、私の研究の
出発点をあつかったものであり、有澤さんの論文は私の研究の終着点とかかわりをもっています。そのことに、私はいい知れぬ感慨をおぼえるのです。

 
森谷論文は、宇治加賀掾と竹本義太夫という二人の浄瑠璃太夫が語った近松の浄瑠璃作品、時代浄瑠璃22作、世話浄瑠璃5作の書誌学的、文献学的研究です。その態度は徹底した実証主義につらぬかれ、日本の各地に存在するテキストはもとより、海外にわたった諸本まで、異本もふくめて、すべての実物(実物がすでにうしなわれたものはやむなく写真や写本によって)に眼をとおし、その特色を、外的(物としての書物)、内的(そこに表現されたもの)に検討、記述したものです。

 一見、そのあつかう範囲はせまいようですが、狭い入口からはいって、広大な
書誌学の海に到達しています。その徹底した細かな目配りと分析には、今の若い国文学者がすでにうしなってしまった職人芸としての技術が駆使されています。

 その結果として、

宇治座上演本と竹本座上演本の改訂事情と先後関係の分析
絵入浄瑠璃本における絵入細字本・絵入院本・梗概本・江戸六段本の四種区分の提唱と確立

の二つにわたって注目される成果をあげています。物としての正本をとおして、17世紀中葉から十八世紀前半にかけての上方浄瑠璃史が解明されました。それは、現在の文楽につらなる
人形芝居の歴史確立期の作者と太夫の根本的研究となっています。

 この森谷論文に私の論文がしばしば引用されています。私は、昭和42年4月に学習院女子短大助教授になり、昭和54年4月から学習院大学にうつっています。そのころ、近松テキストの写真版による集成を志し、最終的には
『正本近松全集』全37巻を前後20年かけて勉誠社(現勉誠出版)から刊行しました。

 共に日本各地の図書館を調査して編集にあたった守隋憲治、鶴見誠、近石泰秋の三先生はすでにお亡くなりになり、今ものこっているのは、鳥居フミ子さん(東京女子大学名誉教授)と私だけとなりました。

 森谷さんは、私が大学にうつったばかりのころの学生です。彼女の研究法にはそのころの私の研究態度が影響をあたえています。自分がのちにはなれてしまった研究法をまもりつづけ、それに一つの完結をあたえてくださった森谷さんの今回の学位請求論文に、私はふかく感動し、また感謝もしています。

 そののち私の学問は、歌舞伎、能、狂言、民間神楽、祭祀とさかのぼり、韓国の芸能・祭祀から中国の芸能や民俗へとひろがりました。平成13年には
「東アジア地域の演劇の形成過程の比較研究」というプロジェクトを発足させ、学習院大学文学部の人文科学研究所から3年間の期限で助成金をうけることになりました。有澤さんは研究分担者としてこのプロジェクトにくわわっていただいた方です。

 私の共同研究者であって教え子ではない有澤さんが、私のもとに学位請求論文を提出されたのは、あつかわれたテーマが目下私の追いかけているテーマとかさなるからです。祭祀から芸能、演劇が誕生したという考えは、日本では一般化していますが、中国の演劇研究者にはまだ普及していません。最近のほとんど唯一の業績は日本人の
田仲一成さんの著作でしょう。他方、日本の芸能や演劇の研究者で中国をテーマに包括的な研究している人はいません。

 
有澤論文は大きく二部にわかれています。第一部は、中国の伝統演劇の歴史的展開のなかで、表現方法としての型(中国で程式)とその効果である象徴の両者が重要な意味をもっているにもかかわらず、19世紀末から20世紀にかけての演劇改良運動のなかで、その両者の母胎となった祭祀性が迷信として排除されていったために、正しい認識がうしなれていった事実をあきらかにしています。
 
 
第二部は、型と象徴の由来を民間祭祀との関りのなかでさぐっています。まず、戯曲(有澤さんは日本語としてこのことばを使用しています)や演出の結末の大団円、番組構成の始めと終わりにすえられる口上、舞台清めなどの儀礼的演目、役柄、手と足の表現、一卓二椅の舞台構成などが祭祀に由来することを豊富な事例で説きます。

 ついで、中国近代、現代における伝統演劇の伝承と再生の実態が、唯一の高等教育機関である中国戯曲学院の教育システムの分析をとおして解明されます。

中国伝統演劇における特色を
型と象徴の二語によってとらえる斬新で鋭利な視点を設定し、型と象徴の由来を祭祀にもとめて、そのつながりが、諸国の過去と現在の祭祀についての豊富な資料を駆使して説かれています。さらに、圧巻は、斉如山という埋もれた伝統演劇研究の先駆者を発掘し、彼と名優梅蘭芳のコンビによる伝統演劇再生の試みがあきらかにされていることです。
ご自身がまなんだ中国戯曲学院の建学精神とカリキュラムの分析も説得力があります。

 日本の伝統演劇が近代に対応しようとした各種の模索の軌跡が
演劇改良運動でした。ほぼおなじころに、中国でも伝統演劇と近代との葛藤、再生の運動があったことは、私にとっては新鮮な知見でした。ことに斉如山という巨人の伝統演劇の型分類の精緻さ、体系性は、日本の研究者の型の分類などの遠くおよばない業績となって圧倒されます。

 学習院での教壇生活の最後を、多少とも自分の学問の影響をうけて書きあげられた二つのきわめて優秀な、しかも対照的な内容の学位論文の審査で飾ることができたことを、私はこの上ない幸運とかんがえています。


 前回につづいて『鶴屋南北』の文を掲載します。 
  
5 紺屋の出身であった鶴屋南北
 
歌舞伎と賤民との関係は、これまでみてきたように、歌舞伎をふくめて、ひろく芸能を自己の支配下におこうとした賤民側にたいし、その支配からのがれようとした歌舞伎関係者の抵抗としてとらえることができ、しかも、時々の幕府の意向がそこに大きくはたらきかけて、動向を左右してきた。
 そうした動向のなかでおきなおしてみることによって、伝記や作風についてのいくつかの問題点を解明できるのが四世鶴屋南北である。
 
 鶴屋南北の生まれた場所については、江戸日本橋の乗物町とする『作者店おろし』(三升屋二三治)の説と、日本橋の元浜町とする『戯作者小伝』(岩本活東子)のつたえる北斎の説があるが、両者ともにその出身を
紺屋とする点では一致している。
 
 この紺屋を、近世において賤民側が自分たちの支配下におこうと画策してきたことは、各種の資料からみて、疑うことはできない。
 紺屋は京では
青屋とよばれた。この青屋が賤民として中世以来えた頭の支配下にあり、関西ではえたの仲間とみられていたことについては、はやく喜田貞吉が大正八年(一九一九)七月に発表した「青屋考」(『民族と歴史』)によってあきらかである。
 
 京都については貞享元年(一六八四)に成立した地理と歴史の案内書
『雍州府志』につぎのようにのべられている。

 およそ京都の市中市外の紺屋で、藍汁で衣服を染める者を青屋といい、また藍屋ともいい、紺屋は染色業者の通称である。そのうち青屋はもともとえたの仲間であり、刑罰のあるたびに刑場に出かけ、はりつけやさらし首の業務を担当する。

 この記事は
、『京都御役所大概覚書六』におさめる享保二年(一七一七)発布の法令「えたや青屋の任務について(穢多青屋勤方之事)」のつぎのように列挙されていることによって確認される。

 粟田口での鋸びきの処刑・同所での火あぶりの処刑・はりつけの処刑・首切りとさらし首の処刑・西土手での首切りなどがあるときには出勤し、東西の処刑場所の掃除、牢屋敷内外の掃除などの任務をつとめる。

 青屋は、はじめ直接にこれらの役にあたっていたが、十八世紀はじめの宝永年代くらいからは、分担金を出すだけで、実際の仕事は、京の天部村以下の六か村の賎民村のおこなったとするのが、喜田貞吉以来の通説であったが、これには、山本尚友氏の異論が提出されたことがあった。

 山本氏は、
「新青屋考」という論文(『京都部落史研究所紀要4』一九八四年三月)中に、やはり前掲の『京都御役所向大概覚書六』から、

 京都市中市外の青屋たちには、粟田口ならびに西土手で斬罪などがおこなわれたさいに、五か村と合同で役割をつとめさせている。以前は青屋たちが直接におもむいて任務をつとめていたが、寛永年代からはその任務の代りに一か年、一軒につき銀六匁づつうけとり、右の五か村から人足を出してつとめた。斬罪などの任務につく人足の多い、少ないにかかわらず、右のとおりの額を毎年うけとっている。

 しかし、この文中に「寛永」とある年号は、つぎにあげるいくつかの理由によって「宝永」の誤りとかんがえられる。
おなじ『京都御役所向大概覚書六』につぎのような内容の文がおさめられている。

 以前、えた頭下村文六は、二条城城内の掃除、斬罪の任務などを、京の賎民村五か村、近在十三か村、近江の十三か村ならびに青屋とともにつとめていた。しかし、文六が死去したのちは、二条城城内の掃除をこれらの村々はつとめなくなり、その代りとして、牢屋敷外の勤務を命じられた。 

 この文によって、京都えた頭下村文六の死が契機となって、京都内外の賎民の業務に変化のあったことがあきらかになる。
えた頭下村文六が死んだのは、宝永五年(一七〇八)の七月二十六日であったことは、
『諸式留帳』(『日本庶民生活史料集成』)によってたしかめられる。また、おなじ『京都御役所向大概覚書二』によると、宝永五年に文六が病死したとき、「末期の願いもかなわず」朱印をとりあげられ、二条城の掃除の役をやめさせられて、牢屋敷外番の役を命じられたとある。

 宝永七年(一七一〇)の四月十八日、右の二条城掃除役のために生前下村文六がさしだしていた人数について、天部村以下の年寄に問いあわせがあり、文六の所持していた帳面の写しが提出されたことがあり、その内容が『諸式留帳』にのせられている。そこには、各村々から供出された人足数とならべて、
  千人 青屋
と明記されている。かなりの人数を青屋がえた役のためにさしだしていたことがわかる。
 
 そこで問題になるのが、山本氏引用の『京都御役所向大概覚書六』の文である。これを
『諸式留帳』にのせるつぎの一文、

 洛中洛外の青屋どもがつとめていた任務は、粟田口、西の土手の断罪処刑の役であった。以前は、青屋もともに直接におもむいてつとめていたが、宝永年中から人足の代銀として、一か年に一軒につき銀三匁ずつうけとって、右の六か村がつとめるようになった。

と比較してみると、内容なまったく同様で、「寛永」が「宝永」の誤りであったことが判明する。まえの文で「六匁」が「三匁」となっているのは、代銀が、京都役所と実際に任務を代行した賎民村とで折半されたためであろう。

6 紺屋と青屋の関係
 鶴屋南北の出身は紺屋であって青屋ではない。紺屋と青屋はどのような関係にあったのか。
 近世の上方において、青屋と紺屋に区別があったことは、山本尚友氏が前出の論文でのべておられることである。氏は、山川隆平氏の論考「徳川時代の京染屋雑考」(『上方』一〇二号)が引用する
「紺屋仲間定書」と「藍本染仲間定書」という二つの史料によって、十八世紀半ばの宝暦年間の京都において、紺屋と藍染屋とはべつべつの組合を結成しており、この藍染屋こそが青屋であったと結論づけている。
 
 上方で青屋と紺屋に区別があり、青屋は賎民の支配下にあったが、紺屋はその支配をうけてはいなかった。このことはみとめられる。しかし、賎民側はこの紺屋をも支配下におこうとして争いをおこしていた。
 『諸式留帳』におさめられている宝永七年(一七一〇)六月に天部村、六条村、川崎村の年寄たちが、奉行所に提出した文書によると、青屋と紺屋の中間に位置する
〈かせ染紺屋〉という名称の連中が、青屋役を命じられていた。
 
 この文書がしるすことときの事件の経過はつぎのようなものであった。

 京の大宮通西寺内一町目上ル半町青屋治兵衛、同鍛冶屋町五条上ル町青屋平右衛門、同本誓願寺通り千本東入ル町米屋与三次の三名は、紺屋をしているので、青屋役をつとめるいわれはないと、牢屋敷外番をつとめようとしなかった。

 これにたいして、賎民村の年寄たちはつぎのように主張した。彼ら三名のほかにも、京都の町中に「青屋紺屋」といって二つの商売をしている者たちが多くいる。出身が何であろうと、「青屋紺屋」をしている者は、古来、青屋役をつとめてきている。右の三名の者にも青屋役をつとめるよう命じて欲しい。
 
 この主張がとおって、右の三名の「かせ染紺屋」にたいし、青屋役をつとめるよう命令が出されている。
 
 右の事件の争点は、結局、紺屋を青屋同様に賎民支配におくかどうかにある。奉行所は、しかし、紺屋をすぐに賎民とすることはみとめず、「かせ染紺屋」という
境界的名称を設定し、賎民支配にくみこむことによって決着をはかったのであった。
 
 紺屋を支配下におこうとする賎民側の努力はそのあともつづけられていた。
 享保六年(一七二一)十一月には、京の賎民たちが、市中の紺屋にたいし、
「青屋なみの役義」を負担させようと願い出た事件がおきていた。『諸式留帳』におさめる天部村、六条村、川崎村の年寄九名連記の願書によって事件の経過がうかがわれる。

 京の町中に、紺屋で、近年藍壷を多くすえて藍染めをする者がいるために、藍染屋のなかには商売をやめる者も出て、集まる銭もすくなくなって、私どもの配下の者どもも、ことのほか、困窮して迷惑しています。右の藍染屋から一軒につき一か年に役銭として三匁ずつ出しています。わずかな額ですが、私どもにとっては、ことのほか、お救いにもなっておりますので、藍壷をすえている紺屋からいくらかでも私どもに代価を出すようおおせつけてくださればありがたく存じます。

 藍壷の有無を紺屋と青屋(藍染屋)を分ける目安としている。しかし、藍壷をおかずに紺屋の商売が成りたつともおもわれず、紺屋と青屋の区別は、慣習的なものが大きくはたらいていたとみられる。
 
 江戸でも青屋と紺屋の区別は存在したとおもわれるが、江戸の染色業者はすべて新興の人たちであり、はじめから紺屋を名のって、賎民支配をまぬがれようとしたはずである。したがって、えた頭弾左衛門は、全国えた総支配の面目にかけても、この紺屋を自分の支配下におこうとした。
 
 
弾左衛門の戦略は、京におけるばあいとおなじく、青屋の名称をあいまいにしていって、紺屋をそのあいまいな名称のなかに包括していこうとするばあいと、紺屋の名称のままで直接に賎民支配におこうとするばあいの二つがあったことが、幾種ものこされている例の賎民支配の職種を列記した由緒書によって判断される。
 
 前者の例としては、

宝永四年九月(藍屋) 宝永五年三月(紫屋) 享保十年九月(染物屋)

などがあり、紺屋と明記した後者の由緒書には、

享保十年二月に西国長吏頭へ宛てたもの
文化十年閏十一月写しの肥前国長吏頭へ宛てたもの
年代未詳の京の下村庄助と連名の細工人由緒書(赤穂部落文書)

などがある。

 ことに注目されるのは、宝永六年(一七〇九)十二月、弾左衛門家から弾左衛門没後の相続の件で幕府に提出した文書である。そのなかで、京の長吏下村庄助が「地方で禄高を百五十石頂戴し、そのうえ紺屋の上前をうけている」と明記している。
江戸の賎民頭にとっては紺屋はまぎれもなく青屋であった。

 今回はこの辺で失礼します。


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