諏訪春雄通信126


 平成13年6月25日(月曜日)に1号を送った通信もこの126号で終わり、次号以降に形態を変えます。これまでは、学習院大学東洋文化研究所のホームページの一隅に間借りしていましたが、この形はこの号で終わり、次回からは、独立して、私個人のホームページとして送信します。さらに、「GYROS」専用のウェブサイト「GYROSCOPE」が近々発足し、そちらのほうに、私の「諏訪春雄の時空」、「特集について」などの文章が毎月掲載されます。併せてご覧ください。

 この一週間で、お別れの挨拶をする機会が二回ありました。一回は、3月16日(火曜日)午後6時から開催された
学習院大学文学部教員の送別の会でした。そこでつぎのようなことを申しました。

 これまで大勢の方々の定年に立会いましたが、おめでとうございます、といってよいかどうか迷いました。しかし、自分がその立場になると、
定年はおめでたいものだということが実感されます。理由の一つは、人生ではじめて自分の時間を自分で管理できるようになるということ、もう一つは、オンリーワンの存在がみとめられた良き学習院の伝統のなかでつとめをおえることができたこと、でした。

 二つめの理由についてもうすこし説明します。すでに国公私立を問わず、ほとんどの大学には
競争原理が導入され、自由な雰囲気はうしなわれています。そのなかで学習院はもっとものんびりした環境の大学でしたが、これからは否応なく競争原理にまきこまれていくはずです。そうなる前に定年をむかえることができたことを幸運とかんがえています。

 私がはじめて専任に採用されたのは、
学習院の女子部(中高等科)でした。専任としてつとめながら、東大の大学院を修了することができました。8年ほど勤務して短大にうつりました。天気がよければ外に出て、芝生にすわりながら講義をし、時には授業をやめてバレーボールをすることがみとめられるような雰囲気が当時の短大にはありました。教職員一体となってのバドミントンやソフトボールの大会などもなつかしく記憶にのこっています。

 大学では、所属した東洋文化研究所が海外調査をみとめられていないのに、大学からの予算を返上して
アジア文化を発足させ、自由に海外調査をすることができました。

 非常勤もふくめると半世紀近い学習院勤務でしたが、かなり気ままにふるまってきました。それを容認するだけの自由さが学習院にありました。

 二回めの挨拶は、つぎの17日(水曜日)にひらかれた日本語日本文学科卒業生の謝恩会の席でした。私は、博士の学位取得者を9人誕生させています。しかし、私が、真に誇りとしているのは、
専任講師以上の大学教員を9名、教え子のなかから世に送りだしたことです。最後の機会と思って、そして酔いも大いに手伝って、そんな自慢話をしました。

 3月20日(土曜日)が学習院大学の卒業式でした。この日で、私の学習院大学での教員生活も終了します。移転を終わった個人研究室、日本語日本文学科書庫、文学部棟地下の共同書庫などを見てまわりました。それぞれに思い出のつまった場所です。

 学習院大学の日本語日本文学科は
貴重な蔵書で知られています。三条西家本、殿田文庫、反町(そりまち)文庫、横井也有(やゆう)掛軸コレクション、読本・合巻コレクション、奈良絵本コレクション、宮本三郎文庫などです。これらの蔵書がどのようないきさつで学科の所有に帰したのか、本好きであった土井洋一先生はすでに退職され、さらに私が定年をむかえるとご存知の先生がいなくなる恐れがあります。私の知識の範囲内でここにこれらのコレクションの伝来についてのべておきます。

 
三条西家本は、室町時代に学問の家として有名であった三条西家に伝来した和歌、連歌、注釈、物語などの書物の一部が入ったものです。昭和24年、学習院大学の文学部に国文学科が誕生したときに、その創設準備にあたった松尾聡先生が、初代学習院院長の安倍能成先生から、10万円の金額をあずかって三条西家をおとずれ、購入した書物でした。能因本枕草子など、貴重書が数多くあります。戦後の動乱のなかで、三条西家所蔵本は分散し、学習院、東大、早大、日大などのほか海外にも流れています。

 
殿田文庫は、金沢大学教授で、俳諧研究者、コレクターとしても著名であった殿田良作氏の蔵書が、氏の没後に売りに出されたときに、私の先輩であった小高敏郎教授などがはたらきかけて、私学の図書助成金で購入したものです。俳諧のコレクションとしては有数のもので、西鶴や上方の歌舞伎役者が名をつらねた『道頓堀花みち』写本などがふくまれています。

 
反町文庫は、戦後の日本最大の古書商、弘文荘の主人反町茂雄氏が寄贈された古活字本写真版のコレクションです。氏の娘さんが、当時の国文学科を卒業されていた縁で、氏のあつかった古活字版のすべてを写真製本して一括寄贈されたものでした。すでに海外にながれてしまった貴重な書物が数多くふくまれています。

 
横井也有掛軸コレクションは、江戸中期、尾張の俳人で俳画の名手でもあった横井也有の自筆の掛軸の一大コレクションです。これだけそろったものは他にはありません。日本一のコレクションです。学習院のフランス文学科の教授で、デュマの名作『三銃士』の翻訳者として知られた鈴木力衛先生の家に伝来したものを国文学科(当時)がゆずりうけたものです。日本近世文学会を学習院大学で開催したときに「横井也有掛軸展」を文学部棟の展示室で催しました。そのときに鈴木先生の未亡人をご招待しました。会場をめぐりながら、なつかしそうにご覧になっていたことを思い出します。

 
読本のコレクションは、私学の図書助成金で、やはり小高教授の時代に購入したものです。後刷りなどもまじっていますが、数の多さでは、早大、天理、国会、東大などにならびます。この購入図書とはべつに、馬琴の無二の親友であった伊勢松坂の国学者殿村篠斉旧蔵のきわめて保存のよい『南総里見八犬伝』の美本があります。その伝来はまったく不明で、登録もされないままに、書庫の棚の上におかれています。おそらく、卒業生からの寄贈書でしょうが、先輩教授のどなたに訊いてもいきさつを知っている方はいませんでした。

 
合巻コレクションは、つい数年まえ、やはり私学の図書助成金で、神田の大屋書房から一括購入しました。当時の助手であった加藤次直君(現東海大学講師)に整理を頼みました。やはり合巻のコレクションとしては誇ることのできる質と量です。

 
奈良絵本のほとんどは、私自身で、文京区西片町の弘文荘に出かけて購入したものです。私立大学では図書購入の助成金が毎年文部省(当時)から出ます。その使途は、ローテーション方式で、各部、各学科に割りあてられています。国文学科(当時)では、土井洋一先生などのご意見で、数回、つづけてその助成金で奈良絵本を購入することになり、私がその交渉にあたりました。反町さんが蔵から応接室まではこびだしたもののなかから、予算金額に見合う絵巻をえらびました。『よしうぢ』、『張良物語』など貴重なものが数多くふくまれています。

 先任教授であった
宮本三郎先生がお亡くなりになったときに、ご蔵書の整理にあたった私は、そのなかから版本類の良書を、未亡人とご相談して、学科におさめていただきました。宮本三郎文庫という名で、俳諧関係の良書がふくまれています。

 書物、ことに古書には、その伝来にかかわった人々の思い出がつきまとっています。今、この文をつづりながら、多くはすでに亡くなった関係者の方々の面影をなつかしくしのびました。


 「GYROS」1号の刊行が秒読みの段階になりました。つぎは創刊号のために私の執筆した編集後記です。

 会合の流れで、ある出版社のベテラン編集者と飲んだときに、本誌の構想を話した。彼は、しばらく考えたのちに、
出版界の常識に反するが、本誌が成功したら出版の流れを変えるでしょうといった。
 
 雑誌は、大きく、夢を売る系統と、情報を売る系統に二分される。前者は、フアッション誌、後者は週刊誌に代表される。この区分に従えば、本誌は
情報を売る雑誌になるが、一つのテーマに限定し、長文の論文スタイルの文をならべるなど、通常の情報誌から逸脱している。常識に反するという評価はそこから生まれる。
 
 本書の最大のねらいは、
情報に思想性と体系性をあたえることにある。情報の断片を売るのではなく、生き方の根本に関わるような思想をまとまった形で提供する。想定する購買層は各社新書の読者であり、本誌一冊に新書二十冊を超える情報を盛っている。
 よりよく生きたいという人間誰しもがいだく根源の願望
に応えて、本誌第一号を世に送りだす。


五 南北の生世話

1 『心謎解色糸』
 文化七年(一八一〇)正月の江戸市村座。一番目は吉例の曽我狂言『春栄松曽我
(はるのさかえときわぎそが)』、二番目が世話狂言『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』であった。立作者は勝俵蔵で、ほかに二世桜田治助、福森久助、清水正七などが助作者として名をならべていた。
 
 大名赤城家の紛失した重宝定家の色紙詮議の筋にお糸左七、お房綱五郎の二組の恋がからむ。赤城家の家臣山住五平太は恋慕している深川芸者のお糸を身請けする金をととのえるために主家の重宝定家の色紙をぬすみだして質に入れた。赤城の家臣本庄綱五郎は色紙紛失の罪をひきうけて浪人する。
 
 本町糸屋の妹娘お房は浪人した綱五郎と恋仲になっていた。お房に横恋慕している番頭の佐五兵衛はお房の婿取りの話をさまたげるためにあとで蘇生する毒薬をお房に飲ませた。綱五郎は、墓地からお房をほりだして蘇生させ、夫婦になった。
 
 お糸は鳶の者お祭り左七とふかい仲になっていた。その左七が詮索している色紙を入手するため、心ならずも左七に愛想尽かしして誤解した左七に殺害された。赤城家の若党十右衛門は半時九郎兵衛と名をあらため、糸屋の姉娘小糸とともに悪事をはたらいていたが、左七に命をたすけられて前非を悔いあらため、色紙詮議に協力した。色紙は無事にもとにもどる。この作品の特色をつぎにあげる。

  1. 下層の庶民風俗の描写

  2. 当時の江戸語によるせりふ

  3. テンポのよい場面転換

  4. 笑いの対象とされた死

ことに4については、「この人、常に棺桶を狂言につかう事を好み、棺を用いたる狂言を見れば作者は南北也と江戸の来賓は云う事なり」(『伝奇作書』)といわれた南北の特徴であった。南北の生世話(きぜわ)とよばれた作品の特色のすべてがこの『心謎解色糸』にそなわっていた。

2 生世話のことば
 南北の生世話の本質をさらに追う。
 生世話は「木世話」(文政元年上演、南北作『四天王産湯(うぶゆの)玉川(たまがわ)』)とも、「気世話」(西沢一鳳『伝奇作書』)ともしるされた。ほかに「真世話」(同書)ともよばれたことがあり、「生」は生粋の意味と解される。
 
 しかし、この生粋説には異論をとなえる研究者もいる。その一人、服部幸雄氏は南北の「キゼワ」は従前の「世話」の概念をはみだすものがあるとして、生世話が演じられる二番目狂言の特色七項を指摘した(「歌舞伎の興隆」『日本文学全史4近世』学燈社)。

 第一に、二つ以上の筋(世界)を「ない交ぜ」の手法によって複雑にからませ、からませ方の工夫で旧知のストーリーを全く新しいものに変えている。
 第二に、筋、場面設定、舞台転換、早替りやケレン芸などに自由奔放な趣向を案出した。
 第三に、市井の最下層に生きる人たちを積極的に描いている。
 第四に、既成の倫理に反逆する猥褻や残忍な局面を描いている。
 第五に、世話の写実な仕組みの中に亡霊を出現させる怪談物が多い。
 第六に、道化・滑稽・戯画化・パロディがあげられる。
 第七に、演出のテンポとせりふに特色がある。

 以上の七点は、しかし、南北の二番目狂言の特色というよりも、一番面も含めての南北劇の特色をしめしたものであり、生世話の本質とは何か、という問題は依然のこる。
 この点をつきつめてみせたのが落合清彦氏のつぎの提言である。

 生世話物が、上方系世話狂言の主流である情痴心中物とちがうところは、そこに無頼美のポイントがあることである。単なる町人社会のリアルな写生があるだけではなく、それは生世話ではない。また、時代物、お家物と断絶したものが生世話だという説も正しくない。時代でもお家でも王代でも軍談物でも、その劇中に、江戸後期社会の市井の無頼の表現が存在するとき、それは生世話とよぶことが可能となる。(「ヤクザ芸術論序説―無頼美術の伝統」『江戸の黙示録』思索社)。

 落合氏はその実証として南北作の『四天王産湯(うぶゆの)玉川』を例としてつぎのようにのべている。

 その第一番目大詰・童子長屋切見世の場で、頼光四天王の一人渡辺綱が、大江山の切見世・童子長屋の主の鉄門鬼兵衛(実は相馬六郎公連)のところへ、『妹背山』の鱶七もどきに鉄棒(かなぼう)ひきの勇みの姿で上使に来て対面する。そこで「主はこっちの店頭、今日の上使は勇み肌、そんなら物事木世話にして、跡で話をつけやせう」うんぬん、というセリフを言う。言われた相手の鬼兵衛は、酒呑童子を生世話にやつした格で、切見世の女郎屋の亭主という姿なのだ。この作品は顔見世狂言である。顔見世といえば江戸かぶきの見本市のような性格の、ごたまぜな内容を特質とする。

 劇形式を問わず、江戸後期社会の市井の無頼の表現が存在するときに生世話とよぶことができるという落合氏の規定は興味ぶかい。
 この落合氏や前掲服部氏の主張を参照して、生世話の成立要件として、

  1. 江戸ことばの使用

  2. 江戸下層庶民風俗の舞台化

の二点をあげておきたい。

 この規定を説明するうえで参考になるのが、落合氏も引用された『四天王産湯玉川』第一番目六建目大詰めの大江山童子長屋の場である。
 
 この個所は大江山の酒呑童子の岩屋を江戸の岡場所の切見世に見立てるという、時代と世話の二重写しの南北らしい機知にあふれた趣向がほどこされている。ト書きにも、「本舞台三間のあいだ、鬼の岩屋、酒呑童子の居間を切見世の裏手にしたる体」とか「このみえ、酒呑童子を世話にくだきし見え」とあるように広義の時代物、より厳密には王代物の頼光四天王の世界に江戸の下層庶民風俗をかさねあわせて奇想天外なおあかしみをかもしだしている。
 
 この切見世の親方(店頭
(たながしら))の鬼門鬼兵衛は、以前は将軍太郎良門につかえて相馬六郎公連といった武士であったが、朝敵としての主家の行為に見切りをつけていまは町人となっている。そこへ、頼光四天王の一人渡辺綱が、故主のよしみで良門をかくまっているなら、その首を討ってさしだし、源氏へ味方するようにという源頼光の命令をつたえに上使としてのりこんできた。その綱の姿も「好みの上下、大小にて、そろばんしぼりの手ぬぐいを鉢巻、鉄棒を引く」という有様で、時代風の武士と勇み肌の祭りの練り衆をかさねあわせたような珍妙なスタイルである。そして、鬼兵衛とのあいだで、時代がかった武士ことばと世話がかった江戸ことばを用いてのやりとりが展開する。

綱 いかさま、この前来た時は、大きな板に女のしゝむら、血酒の馳走は中くらいでごんしたが、ちっとのうちに世の中も、かわればかわる大江山、鬼の岩屋のきり見せへ、時代の上使もちっとこじつけ。
鬼兵衛 イエく、今の世の中じゃア、いさみも上使に来そうなはめだ。シテマア、こなさん、何のわたりに上使の形(な)りで。
と伝法な江戸ことばの対話があって、上使に来た理由を問われた綱は、
綱 咄しやしょう。店頭のこなさんに、女郎子どもの立引なら、ツイかうくとはなしやしょう。殊に以前は侍でも、今は町人鉄門鬼兵衛。そのこなさまの内ゆえに、上使ながらも商売相応、遠慮なくがってん、世話たっぷり。しかし、それでもはなされまい。わしも詞を改めて、上使の口上いうからは、又こなさんも昔に帰って。
鬼兵衛 ここで上使の受こたえ。承知しやした。窮屈ながらちっとのうち、また侍で三つ指は、三ツ星付けた御上使へ詞をわしも改めて。
とやりとりがあり、二人はここで急に武士ことばとなって、
鬼兵衛 上使とござらば、イザまずあれへ。
綱 上座は御免。
鬼兵衛 お通りあられましょう。(思い入れ)

と、以下、綱が頼光からの命令をつたえ、故主良門をかくまっているなら首を討って出せとせまると、鬼兵衛は身に覚えのないことと否定する。この対話は終始時代がかった武士ことばではこばれ、とどのつまり、綱が奥へ踏みこもうとし、鬼兵衛がこれを止める所作がって、問題の、

綱 こういいだしては刀の手前、石城なりともふみ込んで。(思い入れ)トサ、いうのは野暮な武士付合、あるじはこちの店頭、今日の上使は勇み肌がそんなら物事木世話にして、跡で咄は付けやしょう。

という綱のせりふとなる。この『四天王産湯玉川』は文政元年(一八一八)十一月の江戸玉川座の顔見世として上演された。翌文政二年正月刊行の評判記『役者優面合(ゆめあわせ)』は渡辺綱に扮した市川団十郎について、つぎのような批評をくだしていた。

 頭取;…五立目、渡辺綱上使役、三升つなぎの長上下、むこう鉢巻、日和下駄にて、かな棒を突いての出端(では)
 三升組;気が替ってよいぞく。
 頭取;江戸っ子いさみの詞遣いを、武士の時代詞に打まぜての仕打、イヤモウ大できく。
 見巧者;この場、騒がしく花やかばかりでとりしめなく、狂言らしくはないぞ。
 当世人;今はこれが流行さ、むずかしい入組みはやめて、とかく茶番く。

 綱と鬼兵衛がつかいわけた武士ことばと江戸っ子の勇みことばの応答がもっとも好評を得たことがわかる。
 綱のせりふに出てくる「木世話」もまずそのもちいることばにかかわるものであった。世話の原義は世俗でもちいることば、口語、俗語をさしていた。世話物とか世話狂言という用法も、本来はそこに使用される口語や俗語に由来していた。
 
 世話物は南北以前の江戸歌舞伎にも存在した。しかし、南北以前の世話物は、たとえば桜田治助のそれのように、世話物発生の地であった上方の影をひきずっていた。江戸風俗を描写するばあいでも上方の役柄名を借りていたし、役柄名と風俗が江戸のものとなっても、使用することばから上方語の影響を払拭しきれなかった。まだ江戸語がなかったからである。
 
 生世話の生は文字はいろいろであっても、生粋の意味とかんがえなければならない。その生粋は、時代物にたいする世話物の純粋さをいうのではなく、「上方にたいする純粋な江戸のことばと風俗」をさすものとかんがえられる。
 
 南北の生世話物は多くのばあいに、時代の様式的な演出や演技と複合させられていた。それが性急に組みあわされ、交代するときには、「四天王産湯玉川」でみたように茶番じみた滑稽さを生むことになるが、組み合わせの方程式を誤らないときには時代の様式性が、生世話のリアリズムを浮きたたせて抜群の相乗効果をあげることになる。

 今回はここで終ります。リニューアルされた次回以降の諏訪春雄通信にご期待ください。


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