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・・・・管理人プロフィール〔超長編〕 |
G記録室は、陸上歴40年を越えろ体育教師 兼 顧問 兼 鬼コーチ が管理しています。
これから先(下)を読む方は、かなりの「覚悟」が必要です。・・・・では、どうぞ! やめるなら今、今しかないですよ・・・ |
最終更新:2024.1 |
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教員生活(継続中!) |
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32年目(R5/2023)・・・高主将・岡野→荒川、中主将・佐々木 教頭3年目・JTO-10年目
副顧問は福士先生(区専門委員/公認審判員)、佐藤先生
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31年目(R4/2022)・・・高主将・角川、中主将・吉田 教頭2年目・JTO9年目
副顧問は福士先生(区専門委員/公認審判員)、佐藤先生。
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30年目(R3/2021)・・・高主将・松本、中主将・荒川 教頭1年目、JTO8年目(6月でJAAF競技運営委員を退任-10年間在籍) 副顧問は福士先生(区専門委員・公認審判員)、土田先生
8月~9月NTOとして、東京オリンピック・パラリンピックのTIC(テクニカル・インフォーメーション・センター)
副主任として大会運営にあたる。合計30日の ホテル←→国立競技場 という生活は、生涯二度とない
経験になりました。オリパラ間に行われた茨城全日中にJTO派遣されました。
新型コロナウイルス感染症は様々な変異株が現れ、日々の生活に影響を与え続けました。
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29年目(R2/2020)・・・高主将・松本、中主将・北岡 教務課長・JTO7年目、NTO
副顧問は福士先生(区専門委員/公認審判員)、土田先生。
新型コロナウイルスの影響を受けた始めの年になりました。休校・オンライン授業・・・日々の対応に
目まぐるしい1年でした。7月以降少しずつ大会が再開されました。
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28年目(H31→R元/2019)・・・高主将・相原→瀧川、中主将・永野 教務課長6年目
副顧問は福士先生(区専門委員・公認審判員)、土田先生。
中等科主将・永野が、1レースに賭ける勝負強さを見せて、見事全日中(大阪)出場を果たしました。
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27年目(H30/2018)・・・高主将・福田(高3)、中主将・西川 教務課長5年目
副顧問は福士先生(区専門委員/B級公認審判員)、土田先生。
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26年目(H29/2017)・・・高主将・藤村(高3)→福田(高2)、中主将・内藤。教務課長4年目
副顧問は引き続き、福士先生(区専門委員/来春よりB級公認審判員)、行名先生。
中等科は、新入部員は総勢6人に留まる不安を抱えながらも、充実の中長距離勢、伝統の短距離ともに活躍に期待がかかったが、東京都大会ではほとんどが予選敗退。唯一、中長距離で新人・永野が1年1500mで入賞を目指すがあと一歩及ばず。5年ぶりの都大会入賞なしでシーズンを終えた。夏の私学大会では、フィールド種目の加点もあって、何とか総合4位につける。9月・豊島区中学大会は、優勝(本郷)にあと3点及ばず、しかしながら堂々の準優勝を果たした。晩秋の区駅伝は、夏まで苦労した中長距離勢も安定感を増し、区中学駅伝では2003年以来14年ぶり2回目の優勝。2003年当時のチームは他の部からの助っ人4人の力を借りて(陸上部員は2人だけで)の優勝(都大会は8位入賞)だった事を考えると、実質的には区中学駅伝「初優勝」と言えるかも・・・。20位台を目標に挑んだ東京都中学駅伝は、およそ150チームの参加の中で、1年生ながら1区を任された永野が48位の好位置につけ、以後は力をつけた2,3年生がポジションを上げ、主将・内藤が最終区間で3人を抜き、歴代3番目の好成績である東京都15位という優秀な成績でレースを終えた。走った全員がほぼベストというのは奇跡的といえる。秋以後、3年生が大勢、一気に引退したのも今年珍しい現象。その後数人が戻ってきていますが・・・。でも一度、自分と陸上競技の関係を見直してみることも大切かもしれません。 |
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高等科は厳しい支部予選を突破し、3種目で東京都総体に挑戦した。1年生ながら110mHで標準記録を突破した池田、バトンワークで勝ち取った400mリレー・・・いずれも予選敗退だが、よく健闘した。一方いろんな意味で大型新人の1年村山は、助走の安定性は欠くもの支部予選を3位で勝ち抜けると、都大会でも3位入賞(1m93)。関東大会へのキップを手に入れる。千葉で行われた関東大会は、あいにくの雨に見舞われる悪コンディションのなか9位に終わる。自己記録の1m95が跳べれば全国(インターハイ)だっただけに悔やまれる大会となった。
村山は秋の新人戦では東京都5位に終わり、普通ならそこで敗退のはずが、東京都開催のルールに救われ関東大会に出場。ここでは6位に入賞し、来年の全国大会(伊勢・三重県)がようやく視野に入ってくる。助走、クリアランス技術の向上に加えて、基礎的な体力の向上が望まれる。授業中に寝てはいけません。 |
JTO(日本陸上競技技術員)として4年目。大阪の日本選手権で運営支援を行う。
他にも2020東京オリンピックを控え、5月の川崎・ゴールデングランプリには報道担当で審判参加、
さらに8月に行われたロンドン・世界選手権では通常なら視察のみのところを、特別に競技者係として招集所
での審判活動のお手伝い・・・英語力の無さに今更ながら悩む5日間でした。
男子400mリレーの日本・銅メダル獲得(ボルトの途中棄権)を生で見られました。(もちろん招集所にはすべて
の選手が来る訳なので、内心は終始ハイテンションでした。)
昨年のアジアツアーに引き続き、北米での説明会ツアーに参加。サンノゼ、LA、メキシコシティ、シカゴ、NY
(ニュージャージー)の5都市の日本人学校や補習校での学校説明会を開きつつ、それを11日間で回る(やっぱり)
強行ツアー。でも、昨年のアジアツアーに比べれば水や食べ物の心配がなく安心???・・・という旅でした。 |
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25年目(H28/2016)・・・高主将・松橋(高3)→藤村(高2)、中等科主将・村山。 教務課長3年目。
副顧問は福士先生(7年目)と、久々の行名先生。 新中1入部はようやく2桁。中等科部員は35人。
高等科は、2年跳躍の落合、春名が都大会に進む。学年別では松橋、松原、山中らのコツコツと頑張ってきた
3年生たちが成果を見せた。
中等科は、主将となった3年村山が、前年秋の活躍からさらに躍進。春先から全国標準を次々とクリアし、
代表となった関東中学(駒沢)で、自己記録を更新する1m94をマークし準優勝に輝く、
勢いよく乗り込んだ全日中(長野・松本平)では予選をTOP通過。しかし疲れの見える決勝では思うような
跳躍ができず10位に終わる。
夏を経て10月下旬に横浜(日産スタジアム)で行われたジュニアオリンピックで、1m92をマークし自身初の
全国入賞(第5位)を果たした。
都大会では他に入賞された種目もあったが、いずれも届かず。2年生主体で臨んだ都駅伝は目標の20位台
に届かず、37位に終わった。JTO(日本陸上競技連盟技術委員)も3年目。そのジュニアオリンピックのJTO
主任としてトラック、投てきを担当する。村山の跳躍は100m離れた投てきピットから「何となく」観戦できました。
今年の世界・学校説明会ツアーはアジア1週間。過酷なスケジュールでタイ、インドネシア、台湾、フィリピン
を回った。その後数週間は胃腸の具合が不調でした。
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24年目(H27/2015)・・・高主将・田代(高3)→松橋(高2)、中主将・福田。教務課長2年目。
副顧問は引き続き、福士先生、益子先生。
中等科は昨年度活躍の村山(2年・走高跳)と地域別優勝の福田(1年・100m)に期待がかかったが、
いずれも怪我によって実力が発揮できず総体・通信ともに入賞なしで終わる。
高等科は支部予選を通過できない厳しさ。短・長ともしっかり練習ができているし、実力も着けてきて
いるだけに支部の壁の厚さを感じる・・・。
恒例の夏合宿(菅平)を終えて、私学対抗では中等科が7種目入賞(うち優勝1)で総合4位。
秋の豊島区も何とか本郷に次ぐ2位。
区代表として出場した東京都支部対抗では、1年400mRが6位、3年青木が3走を務めた
選抜リレーが5位。さらに村山が接戦を制して1・2年走高跳で優勝(1m82)。
来年の全日中(長野・松本平)まであと3cmのところまでたどり着く・・・。
皇居の区民駅伝では中等科教員(+長谷場コーチ)が大活躍。
JTO(日本陸上競技技術員)として2年目。愛知・瑞穂のジュニア・ユースでは跳躍種目を担当。
今年もシンガポール1泊3日ツアーに出張。前任者も含め4年間のプロモーションが実り、
シンガポールからの出願が急伸しました。
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23年目(H26/2014)・・・高主将・北條(高3)→田代(高2)、中等科主将・藤井。 3年間の生徒課長から教務課長へスライド。
副顧問は引き続き〔5年目〕の福士先生と益子(前教頭)先生。
新中1入部は微妙な2桁越え、中等科部員は2年生の少なさにより30人台にとどまる。
都大会には個人8種目9名とリレー2チームが進出。文字通り大型新人の1年村山が1年走幅跳、支部対抗の1・2年走高跳で入賞。
東京都私学大会で久々の総合準優勝。豊島区夏季大会でも本郷に次いで準優勝。今年は特に幅・高のフィールド勢の得点が光った。
高等科では都大会へ進めたのは400mH内藤(高3)のみ。
都新人では、学習院としては珍しい競歩への出場で、2年石橋が5位入賞。(競歩での南関東進出は4位まで)
2013年度のJTO試験に合格し、今季よりJTO(日本陸上競技技術員)として活動。今年は全日中(香川・丸亀)のトラック種目を担当。
教務課長として中等科の教務・広報・入試を担当。広報ビデオの企画・撮影・編集・プレゼンテーションを1人で行い、初の海外一人出張
として、6月にシンガポールで学校・入試説明会を行う。
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22年目(H25/2013)・・・高主将・秋元高3)→北條(高2)、中主将・松木。生徒課長3年目。副顧問は引き続き、
岩本先生、福士先生。
中等科は仮入部期間の時点で、心配していたとおり久々の新入部員1ケタ。
しかしながら少数精鋭の1年生とともに編成した低学年リレーは運の強さも味方につけ、総体・通信と連続優勝。
これは、平成20年の共通リレー以来となる快挙でした。
高等科は昨年の雪辱に燃える400mH浜中(高3)が、春先の軽いけがを引きずり都総体では5位、
自身初出場となった関東大会では実力が出し切れずレースを終えました。
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21年目(H24/2012)・・・高主将・山根(高3)→秋元(高2)、中等科主将・中澤。生徒課長2年目。
副顧問はそれぞれ引き続きの岩本先生と福士先生。
新中1入部は微妙な2桁越え、中等科部員は5年連続の40人超えとなる。
都大会には個人10名とリレー2チームが進出。四種競技で3年玉水が入賞に惜しくも
もう一歩届かずの9位。平成13年から続いていた都大会連続入賞は11年で途絶えてしまいました。
高等科では関東へ挑んだ400mH浜中(高2)が都大会予選で10番目で敗退、
再度挑んだ都新人では、他の選手の転倒に巻き込まれ4位(3位までが関東)と不運な展開となりました。
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20年目(H23/2011)・・・高主将・藤(高3)→山根(高2)、中主将・北條。東日本大震災に日本中が大きく
揺れる中、生徒課長に就任。副顧問は引き続き、岩本先生、福士先生。 新中1が3たび2桁入部で4年連続の
40名越え。
高等科はスプリントの2台エース藤、松島(ともに高3)が春先から10秒台を連発。東京都総体でもそれぞれ4位、
2位に入賞。南関東大会では松島が準決勝まで進むが惜しくも敗退。期待されたヨンケイも都総体決勝で8位に
沈んだ。
中等科はスプリントのエース北條に怪我のトラブル。それでも意地で総体100mでは決勝まで進むが8位に終わる。
長距離エース左近も決勝までは駒を進めるが、やや消極的なレースに終わる。
それでも総合力から、豊島区夏季大会(国立)では2年ぶり4回目の総合優勝を果たした。
そんな中、通信大会では低学年リレーが7位入賞を果たす。秋の駅伝では3年生左近、稲垣、濱田を中心に
東京都駅伝突破を狙うが、東京都全体のレベルアップの中で16位に終わる。2年生以下の力の伸びもあり、
翌年へ夢をつなぐ形となった。
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19年目(H22/2010)・・・高等科主将・内藤(高3)→藤(高2)、中等科主将・秋元→北條。中3主管へ無事に進級。副顧問は引き続きの岩本先生と定年退職された井上(勝重)先生の後任として赴任した福士先生。
またもや新中1が大量入部!さらに14名が加わって中等科部員は今年も40人超え。
高等科は春から好成績が見られ、5年ぶりの関東(南関東)出場は何と3名。100mで5位、6位に滑り込んだ2年藤と松島。昨秋の都新人をインフルエンザで欠場し、関東新人を逃した3年主将の内藤が400mHで2位の好成績。茨城県・笠松で行われた関東大会では惜しくも全員が予選落ちに終わってしまったが、この勢いを秋につなげたいところ・・・。
そして秋の新人戦シーズン。都新人ではいきなり初日にヨンケイが2位となる快挙!関東選抜新人への出場権を獲得します。2日目にはさらに100mで藤・松島のダブル入賞!新人戦好調の藤はこの種目で2位となり個人種目での関東新人出場。最終日は200mで松島が個人2種目目の入賞。マイルリレーも決勝に残る善戦。総合でも第7位に入った。
栃木で行われた関東選抜新人では、冷たい雨に調子が上がらず残念ながら両種目ともに予選敗退。来春へ向けてレベルアップの必要性を痛感した。 |
中等科は大所帯ながら春から少々苦戦。お家芸(?!)のリレーで迷走が続き、地域別大会の入賞者は近年では非常に少ない2名。
例年なら通信(上柚木)→総体(夢の島)が定番であったが、今年はまず総体(上柚木)、そして7月下旬に通信(江戸川)の順で開催されます。
さて、上柚木で行われた都総体には多くの選手が挑戦しますが、入賞は2年100mの北條のみ(第2位)、北條は江戸川で行われた通信大会でも2位となり、関東大会に出場しました。
千葉で行われた関東大会。北條は昨年の出場では予選敗退。予選では中盤までいい走りを見せますが、終盤に追い込まれ予選4着・・・しかし何とかプラスアルファで決勝に残り、その決勝で7位入賞を果たしました。
秋に入り国立で行われた豊島区大会の結果7人が都支部対抗に選抜(豊島区代表)、3人選ばれたハードル勢(3年浜中、2年内藤、1年玉水)、3年100m小林は予選敗退。これまで都大会入賞のなかった中長距離2年生エース・左近が決勝で積極的な走りを見せます。中盤、お互いのけん制でペースダウンした瞬間に先頭へ飛び出しレースをリード・・・結果的には5位に終わりましたが、来年につながる好レース。
短距離2年生エース・北條、予選の走りが重く、ギリギリで決勝進出。しかし決勝では意地の2位。さらに豊島選抜の2走として力走、優勝を果たす。 |
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18年目(H21/2009)・・・高主将・内藤(高2)、中主将・寺嶋。中2主管へ進級。副顧問は引き続き井上(勝重)、岩本先生の両先生。
新中1が3たび大量入部!さらに14名が加わって中等科部員は、なんと45名に。史上最大規模を更新して活動中。高等科にも異変(?!)が・・・部員勧誘にがんばり、獲得した新入部員が14名!高等科も総勢25名という賑やかな状態で「盛り上がって」活動中!
協力高1が加わり、春先から好調の高等科。ヨンケイでは8年ぶりに高等科記録を更新!マイルリレー(4×400mR)では都高校総体の決勝に進出。決勝は上位校との力の差を感じる結果に終わったが、確実に歴史に名を刻んだ。
中等科はまず1年北條が総体2位で関東大会出場。秋の支部対抗でも入賞を果たす。中3を中心に得点を重ねた東京都私立対抗では
中等科が2年ぶり3度目の総合優勝。そして何と高等科が史上初の総合第2位。中等科は私学大会の勢いで豊島区夏季大会も史上3度目の総合優勝を果たした。
冬の中学都駅伝では6年ぶりに立川・昭和記念公園での開催。総合入賞を狙ったもののそれには届かず・・・しかし3年主将の寺嶋が史上初の区間賞を獲得した。 |
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17年目(H20/2008)・・・高主将・栗原(高2)、中主将・藤。生徒課から4年ぶりに中1主管へ異動。副顧問は昨年度に引き続き井上(勝重)、岩本先生の両先生。
新中1がまた大量入部!さらに17名が加わって中等科部員は43名に。(多分)史上最大規模で活動中。
前半戦は全日中・インターハイを目指す競技会が続きます。IHを目指す高等科はエース木地が都総体400mで入賞。1年生大会では昨年都2位の内藤が110mJHで2位。
リレーで全国をねらう中等科ヨンケイチームは順調に通信大会を優勝。しかし、総体では主軸メンバーの故障から出場を棄権。残念ながらリレーでの全日中出場は夢に終わってしまいました。しかし、2年生の末に野球部から転部の松島が総体の100m決勝で全国標準を見事突破。関東大会と併せて大舞台へ進んだ。
連日の雨に見舞われた夏合宿(菅平)を終え、後半戦に突入。
夏休みの終わりを飾る私学対抗では、中高ともに活躍が見られた。中等科の3連覇は成らなかったが、惜しい準優勝でした。
秋の都高校新人では2種目入賞の木地(400mでは2位=関東新人大会進出!)、400mHで伸び盛りの1年内藤が5位に入賞。
激戦豊島区を勝ち抜き、支部対抗へ進んだのは松島(3年100m・選抜リレー)、藤(共通400m・選抜リレー)、寺嶋(新主将・2年1500m)と選抜リレーメンバーに3年大内が加わる。藤は400mで2位、松島は100mで3位入賞。選抜リレーは藤-松島と繋いで、後半を巣鴨のエース2人に任せる布陣。見事43秒70で優勝を飾る。
秋も深まり、駅伝・ロードシーズンに突入。高等科は5年ぶり(?)の都・高校駅伝出場を果たす(結果は今後に期待しましょう!)。
中等科は3年2名、2年3名、1年1名のメンバーで東京都駅伝に挑戦。混成チームで記録した中等科記録に迫る勢いで、目標を上回る19位。1,2年生のメンバーが充実している中長距離は来年度、さらに上位が狙えそう。 |
16年目(H19/2007)・・・高主将・宮永(高2)、中主将岡本。教務課から生徒課に異動しました。
(座席の移動は1mほどですが・・・)
副顧問には初の井上(勝重)先生、そして昨年に引き続き岩本先生。
新中1が大量入部!なんと17名が加わって中等科部員は30名超に。これからどんな風に伸びていくのか、非常に楽しみ。
前半戦はやはり2・3年生を中心に活躍。2年100m藤が通信・総体と連勝。共通110mHでは内藤が8位入賞。共通400mリレーは3年2名、2年2名の編成で全国大会に挑戦したが、通信2位・総体3位と今年も(昨年に続いて)一歩及ばず・・・残念。
藤は関東大会でも7位入賞(入賞は史上2人目)を果たす活躍!
一方、高等科は1年生が主体の若いチーム編成。厳しい支部予選を勝ち抜いて2年主将・宮永が都高校総体でも7位入賞(走高跳1m88=高等科新記録)。しかし予想をはるかに越えるレベルの高さに狙っていた関東大会出場を逃してしまった。他にも1年生ながら400m木地が堂々の都大会出場。400mR、1600mRでも東京都大会出場を果たした。
今年から8月中旬に移動した夏合宿を終えて臨んだ「東京都私立大会」では、中等科が初の連覇を果たす。3種目で優勝、実施15種目中12種目で入賞する活躍を見せた。
夏には、高等科主将・宮永、両リレーの要である高1小巻がそれぞれ海外留学へ出発。厳しいはずの状況の中臨んだ支部新人では、1年木地が200m、400mの2種目で都新人進出。リレーも2人の抜けた穴を埋め見事、四継・マイルともに支部入賞を果たし、都新人へ。
他にも2年生では唯一の投てきパート武田が砲丸・円盤ともに都新人進出を果たした。
東京都新人大会での入賞は成らなかったが、来春に大きな期待がふくらんだ。
中等科は連覇のかかった豊島区大会では、3年生の主力が怪我で力を出し切れないというアクシデント。惜しくも連覇は逃してしまった。
しかし、6種目の優勝を含めて多くの選手が活躍し、この結果、豊島区選抜男子19名中、6名が本校から選出された。(各学年からちょうど2名ずつ)
臨んだ東京都支部対抗では、2年藤が100mで今季3勝目。(中等科記録に並ぶ11秒42(+0.9m))
今季は総体8位入賞が最高だった3年内藤が110mHで見事2位!
来季の全日中の行方を占う2年4×100mRは、終盤まで先頭に立ったもののフィニッシュライン直前で交わされ100分の5秒差の2位。
来年の全日中出場はかなり現実味を増してきた。この冬の頑張りが歓喜を呼ぶことになる。がんばろう! |
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そして季節は駅伝・ロードシーズンに突入・・・。
リハーサルを兼ねる豊島区駅伝では副将・伊藤が区間賞。チームは4位に終わったが期待できる走り。この大会学習院史上最多の4チームでエントリーした。
翌週の都駅伝は今年も冷たい雨。37位に終わってしまった。
何年か振りに出場した区民駅伝(皇居周回コース)では最終区まで立教池袋とのデッドヒート。惜しくも敗れてしまったが、1・2年生主体の若いチームが善戦した。
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15年目(H18/2006)・・・高3主将・岡本、中3主将栗原。教務課も3年目
中等科初代の外部コーチとして、OB朝倉くん(早大院)に就任依頼。快く引き受けて頂きました。以来、忙しいスケジュールの中ほぼ毎週、短距離の指導にあたってくれています。
前半戦は好調。大型新人も加わり、総合力がUP!東京都総体で総合第2位は史上最高位!400m木地は通信・総体の全てのレースで52秒台前半の好タイムをマークするが、あと一歩全国に届かず・・・。しかし堂々の関東大会出場を果たした。共通400mリレーも2度目の全国を狙うが、通信・総体ともに東京都3位。
恒例の夏合宿(菅平)を終え、迎えた49回東京私立中高対抗では中等科史上初(実は大昔に優勝してるようですが・・・)の総合優勝を果たした。
その勢いで豊島区夏季大会でも2度目の総合優勝。支部対抗出場の豊島区く選抜19名のうち8名を学習院が占めた。
その支部対抗では、1年100m藤が現3年栗原の記録を100分の3秒更新する「豊島区新記録」を樹立。(2008年に立教池袋・桜田君により記録更新)
大内も粘りで8位入賞を果たした。400m木地は全国大会出場者に果敢に挑戦し、力尽きたもののしっかり2位をキープ。100mハードル内藤は中等科記録に迫る好記録で5位入賞。1年400mR、共通400mR(豊島選抜のうち3名)もそれぞれ5位に入賞した。これで東京都大会入賞数は史上最高となり、まさに第二次(?)黄金時代と言えるかもしれない(平成11年あたりを第一次・・・として)・・・。
駅伝チームも奮起して活躍。豊島区3位、東京都19位で、総合記録はH15に8位入賞した時の記録に迫る実力を見せた。完全な寄せ集めチームだったH15と違って、今年は「純正・陸上競技部チーム」。その点では「史上最強の駅伝チーム」ということになる。
しかし、私はこの駅伝シーズンから体調を崩し、ほぼ1ヶ月間医者に処方された抗生物質のお世話になった。
14年目(H17/2005)・・・高3主将・山口、中3主将内野。教務課2年目、中の副顧問に石井先生(美術)、岩本先生(英語)のお二人が初登場!いきなりのリレーカーニバルで中ヨンケイが2位!高支部予選では主将・山口が100m、200mで都大会出場! 新中1部員も10名獲得!大型新人が多く、期待も大きい!
都中学通信では2年・木地が6位入賞!さらに総体では3年宮永、1年岡本のフィールド陣が入賞!低学年ヨンケイも優勝こそ逃すが堂々の東京都2位!都高校選抜では新主将・岡本が8位入賞!
5種目が豊島区代表となって臨んだ中学支部対抗では宮永・木地が再び入賞。2年400mRは優勝を狙ったが惜しくも2位に終わった。
13年目(H16/2004)・・・高3主将・栗原、中3主将・岡部。中高の合同練習も上級生の面倒見が良くなりかなり軌道に乗ってくる。リレーカーニバルで高等科マイルリレーが東京高校を破って優勝する快挙。(残念ながら都総体で決勝進出はならなかったが)
東京都3位で南関東大会に進んだ栗原(高3・400H)は無念の予選敗退。中1栗原は1年100mで関東大会を狙うがこれも惜しくも4位。低学年ヨンケイは総体4位と健闘。私立大会では中等科が3冠。主将・岡部は途中バランスを崩すも実力で優勝。宮川が3年100mで11秒42(+2.0)の快走!1年100mも栗原が貫禄勝ち(12秒10+1.4豊島区新記録)。
7人の高等科新人チームは4種目で都新人出場。中学支部対抗には区代表として6種目に出場。宮川(3年100m)が6位、1年400mRチームが優勝を果たした。9月より第1グランドが人工芝に全面改装。中等科は初の2回入試(2/2.3)そんなときに限ってその入試などを担当する教務課。副顧問に新人(社会)の安井先生。
12年目(H15/2003)・・・中3主将・大西がなつかしの札幌(高校編参照)で(800m6位)!さらにジュニアオリンピック(横浜:800m)でも入賞(6位)を果たす。通信大会でマークした1分57秒62は従来の記録を1秒以上短縮する「東京都中学新記録」(2008年に目黒・東山中の田中君により記録更新)
通信大会の全国集計では全国1位に輝いた。栗原(高2)は400mHで南関東大会進出。中学総体ではリレーがダブル入賞!(共通400R7位、低学年400R7位)、都中学駅伝で混成チームが初の東京都8位入賞!中3主管(担任)主に成績処理と修学旅行(金沢-糸魚川-立山)を担当。長年、顧問・副顧問を務めていただいた清水先生(音楽・声楽家)が定年のためご退官。
11年目(H14/2002)・・・中3主将・柿本(短距離・跳躍)、山口(副主将)とともに走幅跳で中等科歴代2位・3位となる5m90台、80台の記録をマーク。6月、高2新主将・中村の申し出を承諾。中・高の陸上競技部の一本化(日常も合同練習体制)に乗り出す。中2大西・ジュニアオリンピック(横浜)Cクラス1500mに出場。駅伝混成チームは東京都15位と過去最高位。後半は中学・高校の両方の試合に行く忙しさからか体調を崩す。
10年目(H13/2001)・・・中3主将・都井(短距離)、彼もケガに泣き思い通りの成果を残すことができなかった。中3栗原(800m)は関東大会出場をもう一歩のところで逃す。中1大西、総体で優勝(1年1500m)関東大会へ出場。中1主管(担任)
9年目(H12/2000)・・・中3主将・中村(短距離)、前年からの疲労がケガに悪化し不本意なシーズンを終える。中距離エース永田(800m)は力がありながら活躍の場に恵まれなかった。コーチのミスと言えるだろう。中2栗原が2年連続のジュニアオリンピック(横浜)Cクラス110mHに出場。
8年目(H11/1999)・・・中3主将・高橋光、中3胡間(現コーチ)、中3深澤、中2中村で組んだ4×200mRが通信・総体と優勝し、東京都代表として全日中(富山)へ出場(深澤は200m個人でも標準記録を突破し出場)ランキング13位(?)を跳ね返し、見事6位入賞!を果たす。都支部対抗で2年4×100mRも2位に入る活躍を見せる。
7年目(H10/1998)・・・主将・米田。3年相澤は2年の秋に始めたハードルで奇跡的な進化!?を遂げ、通信の4位に続き総体では全日中の標準記録を突破する活躍。を決めた。秋のジュニアオリンピック(国立)ではBクラス110mHで準決勝へ進出した。2年の高橋、胡間、深澤、3年主将の米田などが活躍し、当然のように都大会入賞を果たした。生徒課参与。
6年目(H9/1997)・・・主将・佐藤(某管理人)。2年米田が総体100mで5位入賞。那須塩原から新幹線通学の1年高橋は総体1年走幅跳3位・地区対抗1年100mでも3位、リレーも総体で低学年400R、地区対抗では1年400Rが入賞。、副主将・河野(前コーチ)は豊島区選抜として地区対抗4×200mRに出場。このときのメンバーには2年後にインターハイ100mで3位入賞を果たす巣鴨・米田がいた。・・・この活躍は「黄金時代!?」の幕開けだったのか。 |
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2006夏合宿(菅平) |
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2006関東中学・開会式(神奈川・等々力) |
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2005夏合宿(菅平) |
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夢の島競技場での練習(2005.7/15) |
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桜満開の第1グランド(2005.4/7撮影) |
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人工芝工事・完成間近の第1グランド(2004.9)
・・・まだ人工芝の張り合わせ部分が見える |
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5年目(H8/1996)・・・主将・小峰。鳳櫻祭で陸上競技部として初の団体参加。体育館フロアを使った現在のスタイルはこの1年目から踏襲されている。
4年目(H7/1995)・・・主将・石田(元コーチ、社会人ながら大学コーチ&現役アスリート?!)。中1主管(担任)、7月に結婚。
3年目(H6/1994)・・・主将・小町(短距離)。短距離勢が都大会出場を逃がし、途絶えるか・・・というところを長距離エース・竹中が小さな体で意地を見せて1500mでの標準記録突破。唯一の都大会出場を果たした。この年から都中学駅伝がオープン出場(前年までは区代表1チーム)になり混成チームで出場。
2年目(H5/1993)・・・主将・小島(短距離)。練習がキツいという噂でも飛び交ったのか部員数が伸びない。三種競技Aで清水が地域別大会入賞。バスケ部からの転入(2年生のとき)・上野が都通信3000mで7位入賞、コーチとして初の都大会入賞選手。教務課参与。
1年目(H4/1992)・・・主将・鈴木(800m)、マネージャー・太田(3000m)などキャラクターが揃った部員たちは突然乗り込んできた(?!)顧問に戸惑いつつも、あっという間に慣れたのか本格的な練習に取り組み始める。1学期末には第1回学習院グランプリ(校内記録会)を開催。 |
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大学時代 (1988-1991) |
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大学陸上競技場 |
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体育・芸術棟正面 |
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一般入試で茨城県にある某国立大学に合格(体育専門学群は30パーセントくらいが推薦。陸上の推薦基準は高校で全国8位以内!?)。大学の寮(自転車5分)で一人暮らしを始める。日本の大学トップレベルの施設(専用400mオールウェザートラック)・選手(インターハイスター選手続々)・コーチングスタッフらに圧倒される。受験勉強のブランクから競技者としては低迷。陸上部の部員は200名。(=同級生は50名)
大学2年生(H元/1989)~3年生(H2/1990)
科学的な練習に加え、各種スポーツ科学の習得、ウェイト・トレーニングにも精力的に取り組み、体力的・技術的に改善されてきたが、インターカレッジ(インカレ)出場には遠く、主に記録会の出場。
大学の寮は2年までなので3年生になると近くのアパート(自転車5分)へ転居。当時は自転車や友人から1万円で譲ってもらった原付バイクでふらっと出かけるのが主な休日の過ごし方だった。
陸上部の友人から引き継いだゲームセンターのアルバイトは、今考えればアルバイトっていうよりほとんど「店長」だった。預かったカギでシャッターを開けて開店・・・銀行へ行って両替・・・トラブル処理・・・清掃の後閉店。お陰で「テトリス」はプロフェッショナル(?!)
地元に帰って県選手権400mHで優勝。県代表になっての四国選手権では400mHで6位。
大学での練習も短距離ブロック(約50名)の中でもスタミナ系(インターバルなど)には強く、特にロングジョグだけは全国チャンピオンにも負けなかった。(それが勝負どころかどうかは不明?)
大学4年生(H3/1991)
4年生まで不要と思われる単位も取りまくった。(多いのは問題ないので)体力低下を恐れ、担当教授にお願いして下級生の体育(バスケットボール)もとらせてもらった。(もちろんこれも完全に不要な単位)
研究室(ゼミ)は授業を聞いていて、最も不思議な感じがした「運動学」を選択。ドイツ語文献と格闘した。卒業論文「A4判100枚」が生涯で最も一生懸命取り組んだ課題だろう。
競技者も続けながら陸上競技部主事(マネージャー)として部の運営役に。大学チームは、全日本インターカレッジ男子3位、女子優勝。教員を目指して教育実習は出身高校に戻り4週間(なぜかウチの大学の教育実習は長かった・・・前身が「東京教育大学」のせいか・・・)、そこで後輩だけでなく実の弟の授業(保健)も担当。
その主事(マネージャー)をしていた事が就職につながる・・・。 |
高校・中学・小学校時代 |
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高校3年生(S62/1987)
地区[南予]予選大会には4種目で出場。(400m、400mH、4×100mR、4×400mR)。400mで優勝。400mHは3位。
県総体では400mH優勝(54秒9当時の大会タイ)・400m4位(50秒4)・4×400mR3位(3分23秒5)。
四国総体(徳島)400mHで2位(2年に負けてしまった)、4×400mRは5位。→2度目のインターハイ(札幌・厚別公園)出場。
ヨンパーではせめても準決勝と思いがんばったがあと一歩届かず予選落ち。マイルリレーも同様。
9月(国体予選400mH・優勝は果たすが、またも派遣標準記録に届かず)まで現役続行の後、周りの同級生たちに相当遅れて受験体制に入る。共通一次試験(翌年から大学入試センター試験に変わる)はまずまずで、2次試験もソツなくこなし国立大学2校に合格。
・・・このとき自分は緊張場面に対してものすごく強くなっていることを実感。大きな試合に出場できたことの効果だと思う。すべり止めの私立大1校(順大)にも合格。(しかし、後でわかった事だがこの私立一般入試が最も難易度が高かったようで順大落ちて某国立大に合格した人もいた・・・知らないってことは恐ろしいことだ・・・すべり止めじゃなかったのね)・・・結果として学術レベルとコスト(国立はリーズナブル!)を考え、茨城県の某国立大学に進学。一人暮らしを始める。
高校2年生(S61/1986)
実力のある3年生が医学部等受験のため突然の引退!短距離の3年生は1人を残すのみとなって2年生が主力メンバーになる緊急事態。
地区予選には5種目で出場(200m、400m、400mH、4×100mR、4×400mR)。400m、400mH、マイルリレーで優勝。ヨンケイはバトンミスで失格だったような・・・ 県総体では400m(50秒3)・400mH(56秒?)ともに4位。四国総体では400mH(ドシャ降りの中、56秒0)5位→初のインターハイ(山口)出場。これが暑い暑い。実力不足のため、予選を最下位で終了。
8月からは駅伝チームに加わる(高校の駅伝チームは自分も含め16名)。長距離ブロックでの初レースは真夏の10000m(36分16秒)このときレース中なのに他校のヨンパー仲間からヤジられる仕打ちを受ける。県新人では1500mで6位(4分16秒5)。
優勝(都大路)を狙って出場した県高校駅伝では1位に1分差をつけられ総合第2位。自分は2区(3km)・区間タイ記録9分07秒(目標は9分00だったが・・・)で2位。勝ち進んだ四国高校駅伝では総合8位、自分も思わぬ不調で2区(3km)区間8位に終わる。
高校1年生(S60/1985)
地元の進学校(自転車で15分)に進む。勉強には厳しい学校で(おかげで毎年のように東大合格者を輩出していたが)、入学前に買わされた問題集の範囲が指定されたと思ったら、入学直後に確認の実力試験。その後も定期考査(中間・期末)とは別に、毎学期のように受験のための実力考査が行われる。
そんな中、陸上競技部に入部、初めて本物の陸上に出会う。熱心な指導者(定年退職後もまだまだ現役で活躍中)に恵まれた環境で、グランドは250mトラック内でラグビー部、隣に野球部。当然、仕切りなしという状況。考えると今よりも危険な環境だったと言える。
これも強豪校のためインターハイ予選種目で1年生に残ったのは 110mH と 400mH のみ。「どっちに出るか?」と顧問の先生に聞かれて答えたのは
「ハードルの低い方でお願いします・・・」
・・・これがヨンパー(400mH)との運命の出会いだった!
そうやって出たインターハイ予選地区大会(こっちでいう支部大会)では 《 ハードルジャンプ!&ダッシュ×10(当時はハードルが超下手だった) 》 で3位入賞→県大会出場!
しかし県総体では予選落ち。その後、厳しい夏合宿を終え、8月の国体予選で400m優勝(52秒0)・・・しかし国体派遣標準記録(51秒5)に0.5秒届かず。
秋の県新人では400mで2位(50秒7!)400mHは4位に入賞。 |
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札幌インターハイ 4×400mR予選 |
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札幌インターハイ 400mH予選 |
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母校正門 |
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中学3年生(S59/1984)
同学年の話し合いによりバスケ部主将になる。バスケットボールで快進撃!市内大会に優勝。ブロック大会優勝。
ブロック代表として臨んだ県総体ではベスト4で敗退した。
(中学総体には2種目での参加ができないため陸上競技での試合出場なし、オレが出れば・・・なんて思いながらも応援に回る)。県総体での敗戦を最後に引退。受験体制に入る。志望校は地元の進学校一本で、自分は合格圏内だったためそんなに努力しなかったかも。
中学2年生(S58/1983)
中学校のバスケ部は結構な強豪チームで先輩達も強く、部員数の多さもあってなかなかベンチの12名に入れない・・・そしてこの年も市内陸上大会に出場。2冠達成(100m12秒2、400m60秒1)
昨年に続き100m、400mで県総体に出場、400m54秒9で4位。
各県の代表選手による四国中学総体(高知)では6位入賞(6位に入らないと新聞に名前が載らないと思ってがんばった!)
バスケ部でも秋の新人戦からレギュラー出場。市内を勝ち抜いてブロック大会へ出場した。
中学1年生(S57/1982)
地元の公立中学校(徒歩15分)に入学。当時は5クラスあったが現在は生徒数が減っているらしい(田舎だから仕方ないが)。丘の上にある中学校のため毎日プチ登山だった。バスケットボール部に入部。この中学校には陸上部が無く(実は市内に陸上部のある学校はなかった)、なるべく走り回りたい私はこの部を選ぶ。6月頃に各部からの選抜メンバーで学校代表チームを編成(某駅伝のように・・・)市内の陸上大会に出場。100m12秒7(1位)、400m63秒?(2位)。100mでは市の代表で県大会に出場したが、あっさり予選落ち。しかし、これが人生初のオールウェザートラック。(インターハイ開催のため作られた競技場はサブグランドもしっかりあって東京より立派。) |
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丘の上から海岸線を望む |
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小学6年生(S56/1981)
4月から水泳部に入れられスパルタ指導(朝練習で2000m?!そして午後には本練習でさらに・・・飛込みなんてやったことないのに「跳べ!・・・)のお陰で体力増強!(50m自由型で県ランキング(32.7)入り)秋には陸上の市内大会に出場。なんと3冠!100m13秒6、60mH9秒1、4×100mR(4走)56秒1。身長はすでに今と変わらず当時は「大物」だった!?児童会長とかやってました。
小学5年生(S55/1980) 四国IH(55総体)
地元の小学校(徒歩7分)では、3年生あたりから4年生まで肥満児だったため、担任に無理やりダイエットのため水泳部入りを命じられる。お陰で締まった体に肉体改造!?そこで秋には陸上大会デビュー・・・市内大会に走幅跳で出場。4mくらい(練習では4m30~50跳んでたと思う)で予選落ち。100mは14秒7だったと思う。
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