紹介



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有 川 治 男 (ありかわはるお)
1948年生まれ 54歳

私がやっているのは、芸術史、芸術学という仕事です。
 人が何かを語りたいとき、何かを伝えたいとき、何かを語らずにはいられないとき、でもそれを、日常私たちが伝達のために用いている言語にはどうしても載せることができない、通常の言語構造ではどうにもうまく伝えられないと思うとき、あるいは、そもそも日常的な言語が機能しなくなっているとき、私たちが発する表現、それが「芸術」と呼ばれる表現、そして伝達です。「芸術」を促すのは、私たちが日々生活している日常に他なりません。
 けれども、日常がすべて日常の言語で表現でき、伝達できるわけではありません。日常が、そのもっとも日常らしい側面をもって強く私たちに働きかけるとき、私たちは逆に日常の言語を失います。日常の生活の中で私たちが愛と呼ぶもの、美と呼ぶもの、畏れと呼ぶもの、悲しみと呼ぶもの、神と呼ぶもの、運命と呼ぶもの、死と呼ぶもの、あるいはもっと普通の、夜と呼ぶもの、風と呼ぶもの、花と呼ぶもの、または、私と呼ぶもの、あなたと呼ぶもの、そうした全てのものが、私たちに本当に強く迫り、強く感じられるとき、私たちはもはや、それを、愛と、美と、畏れと呼んで済ますことはできません。私たちは、私たちを強く揺り動かす、それらのものに、何らかの形を与えようと、表現を求めます。ときには、それらから逃れようとして、それらを何かの表現に閉じ込めようとします。良きにつけ悪しきにつけ、私たちを発語不能の状態に陥れる、それらのものに表現を与えることによって、私たちは、私たちに強烈な力を及ぼすそれらのものを統御し、そのことによって、私たち自身を統御しようとします。
 わたしたちをそのような状態に陥れる、あるいは高める、そして芸術的な表現を促す、それらのもの、それらのことというのは、とりたてて神秘的な、超越的な経験であるわけではありません。それらは、いずれもごく日常的なものです。そのことは、たとえば、『古今和歌集』の目次を眺めてみれば分ります。私たちを詩歌の表現に導く、それらのものとは、春夏秋冬であり、賀、離別、旅、物名であり、恋、哀傷であるのです。あるいは、別の和歌集の部立に現われてくる神祇・釈教(神仏)をそれに加えることもできます。
 それらは、いずれも日常生活の中での私たちの個人的な体験に根差しています。それがゆえに、それらは、個人的な、個別的な表現を要求します。いま私の心を揺り動かしたものを、「今日は好い天気だ」というような社会に共有される日常的な言語でも、あるいは、「日本上空を高気圧が覆っている」というような科学的な言語でも捉えきれないとき、私たちは、その表現を、必ずしも誰にでも共有されるわけではない、個人的な発語に委ねようとします。
 けれども、そうして表現された個人的言語――言葉であれ、造形表現であれ、音楽であれ――が全く誰にも共有されないことを、私たちは想定しているわけでも、望んでいるわけでもありません。どれほど個人的な言葉であろうと、それは発語された瞬間、共有へ向けて開かれてゆきます。私たちの言葉を受け取り、共有するのは、ただ一人の恋人だけかもしれませんし、家族だけ、友人たちだけかもしれません。けれども、私たち自身が望むと望まないとに関わらず、私たちの発した個人的な言葉は社会全体の共有に向けて開かれてゆきます。
 そして、それが社会的に共有されたとき、それは「作品」と呼ばれることになります。あなたがいま恋人に向けて書いている手紙は、あなたとあなたの恋人に共有されています。しかし、そのことと同じほど確かなのは、そのあなたの手紙が、いまという時代、ここという空間、あなたとわたしもまたその中にある社会の中にあるということです。そのあなたの手紙も、いつの日か、もしかしたら「作品」と呼ばれることになるかもしれない。そのことをあなたは確信をもって否定できますか?
 芸術史、芸術学というのは、そうした、私たちが、あるいは私たちの先に生きてきた人たちが、個人的な体験の場から発した個人的な言葉が、どのように個人の場において受け取られ、そして社会の場において――「芸術」として――受け取られ、共有されてきたかということを考え、また、その共有のメカニズムについて考える、そういう仕事です。というか、私自身は、そのような仕事として、いま、芸術史、芸術学に取り組んでいるのです。


Q:いつ頃から、美術、芸術についての研究をしているのですか?
A:美術史の勉強を始めたのが30年ほど前のことです。大学では学部1年半、修士課程2年、博士課程5年(うち、ミュンヘン留学2年)、美術史を勉強しました。あとは、美術館での実地。美術だけでなく芸術全般に対象を広げたのは、10年ほど前に大学へ移ってからです。

Q:美術史を始めた動機は?
A:消去法です。経済学部へ進むのがいやになって、出来るのは文学部ぐらい。外国語は苦手だから外国文学系統ではないし、面倒くさいことを考えるのはいやだから、哲学とか思想とかではないし、ということで残ったのが美術史でした。

Q:最初に読んだ美術史関係の本は?
A:中学2年の頃に読んだ、ゲオルク・シュミット(中村二柄訳)『近代絵画の見方』(教養文庫)です。この本は今でも時々ページをめくってみます。美術史との最初の出会いとしては、良い本だったと思っています。

Q:卒論、修論ともテーマはカンディンスキーですが、選んだ理由は?
A:これもまた全く偶然の出会いです。最初の海外旅行は、属していた合唱団のドイツ演奏旅行だったのですが、たまたま、そのとき、ミュンヘンでレンバッハハウスを訪れたのがきっかけです。ミュンヘンへ向かう途上、ウルムでごく短い休憩をとったのですが、そのとき、何故か書店に入って、何故か年鑑『青騎士』の新版(ランクハイト編)を買ったのも、本当に不思議と言えば不思議です。買った本に購入日を書き込む習慣など全く無いのに、扉に「1970.2.28 Ulm」と書いてあります。

Q:では、カンディンスキーは好きな画家でしたか?
A:特別好きというわけでもありませんでした。とりわけうまい画家でもありませんし。そうした画家との付き合いが、一時期、いやになったこともありました。7年程前、ミュンヘンを訪れたとき、そのわだかまりが消えて、カンディンスキーと楽に対面できるようになりました。

Q:では、好きな画家というと、誰になりますか?
A:高校生の頃から好きなのは、クレー、モネでしょうか。あと、ベラスケスは凄いと思うだけではなく、やはりとても好きです。でも、他にも沢山好きな人、好きな作品があります。音楽でもそうですが、好きなものに、明瞭な統一性があるわけではありません。

Q:これまで、どんな仕事をしてきましたか?
A:書いたものとしては、カンディンスキー、クレー、表現主義といったところが中心で、デューラーについて書いたこともあります。国立西洋美術館での学芸員時代に手掛けたり、関係した展覧会としては、ゴッホ展、ベックリーン展、クリンガー展、オーストラリア絵画展などがあります。11年前に学習院大学へ移ってきてからは、種々の理由が重なって、学外へ向けてのアウトプットはあまり積極的には行なっていません。大学という新しい場を与えられ、学生という刺激的なパートナーを得て、自分なりにいろいろと新しい領域に取り組んできた結果、少々、収拾がつかなくなったということもあります。近年の授業としては、 講義「ドイツ象徴主義絵画考」、「日本の芸術」、「風景画考」、「モダニスムの画家たち:モネ」、大学院演習「美術と旅」、「Representation について」などがあります。

Q:今後の研究計画は?
A:これまで関わってきた芸術家たちについて、自分なりに形を与えなければならない時期です。具体的には、カンディンスキーとゴッホとブラームスをテーマに、一冊の本を準備中で、今年は、彼らにゆかりの地を、あちこち回ってきました。2002年中に何とかと思っていたのですが、いろいろなことがあって、まだ出来上がっていません。数年来、目次の状態で止っている未完の大著(?)『西洋絵画全解』というのも、何とかしなくては....。



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