味覚形容詞語彙の歴史と日本語基礎形容詞語彙の類型的構造
―――スシ・スカシの語源の再検討から‐―
On the Lexical Structure of Some Japanese Basic Adjectives Used to Express Sense of Taste and Other Senses; Amai, Karai, Suppai, Nigai and Others.
安部 清哉 (学習院大学)
【要旨】現代語では「五味」として扱われる味覚形容詞語彙とその主要方言語形(カラシ・アマシ・ニガシ・シオカラシ・ショッパイ・スシ・スッパシ・スカシ)の歴史と意味を検討し、古代における四語による語彙構造を明らかにし、それと色彩形容詞語彙・温度形容詞語彙各々の四語体系との共通点について考察する。味覚語彙では、特に諸説ある酸味語彙の語源を再検討し、古代におけるアマシ・カラシ・ニガシ・*スハシ(異音スカシ)による特徴的四語体系を指摘する。また、上記三つの基礎形容詞語彙各四語の構造に、@語幹2音節、A第1音節母音と意味的強弱の関連性、B意味的形態的「語彙の階層性」 C優性語形がより基礎的古語、という類型を指摘し、日本語基礎語彙の基本的構造と位置付ける。(さらに、スカシと中国語・オーストロネシア語との同源[*səg]の可能性を指摘する。)
1、はじめに――五感形容詞語彙
本稿では、味覚形容詞語彙の歴史を、特に、スッパイなどの酸味形容詞の語源、および、ショッパイ・カライなどの鹹味(塩味)と辛味との意味分化と問題として取り上げ、それらの古代語での構造を明らかにしてみたい。そして、古代味覚語彙の特徴と、色彩形容詞語彙、温度感覚形容詞語彙の構造とを比較し、五感という基本的表現における日本語の基礎語彙の構造の特徴について考察してみたい。
日本語の味覚を表す語彙には、アマイ、カライ、スッパイ、ニガイと、シオカライの五つがある。ショッパイという言い方は、最近では西日本の若い人も使うが、近現代語としては東日本の方言形で、西日本方言ではカライになる。シオカライはこれらの標準語にあたる。スッパイも西日本の伝統的方言ではスイ・スイイとなる。他に、シブイも舌での感覚を表すが、エグイと同様に、「食べ物の味の表現」という点では使われないと言えよう。これら五つの味覚表現も、時代を遡ると微妙な変化があり、そこに、味覚語彙と日本人の味覚表現の特徴が見てとれる。
さて、この五語のうち、鹹味(鹹味)のショッパイと酸味のスイ・スッパイ・スッカイの語源には、いくつかの説があり、まだ必ずしも十分明らかにされていないところがある。小論では、まずそれらの語源・語構成を、方言分布の解釈にも言及しながら検討していくことにしたい。またそれらの検討によって、味覚語彙の古い構造を明らかにして見ると、そこには、色彩形容詞語彙、温度形容詞語彙との共通する構造を見出すことができる。それら、五感感覚の一部をなす基礎語彙に、どのような日本語語彙の基本構造が現れているかも、併せて検討していくことにする。
ところで、この味覚の五語と関わる漢語に「五味(ごみ)」という表現がある。これは、「五臓、五音(音楽、聴覚)、五香(体臭、嗅覚)、五悪(気候、温度感覚)、五液(体液)、五竅(五感の機能)、五主(体の部分)」等と同様に、五行思想と関わりもある五つの基本味覚を指すもので、「酸味・苦味・甘味・辛味・鹹味(カンミ、塩辛さ)」の五つの味を指す。現代日本語の上の五つの形容詞はこの五味と結果として一致している。この五味にもやはりシブイ・エグイは入ってこない。上記の五つの形容詞は、漢語「五味」とも一致し、われわれ現代人の感覚からもこの五つの味覚は基本的なものとして納得できるものであるから、この五分類が網羅的で普遍的なものと思われがちである。しかし、歴史的には必ずしもそうでもないらしい。五味ではなく「四味」であったことが語彙史をたどることで明らかになる。
二、鹹味と辛味の分化――「四味」から「五味」へ
まず、カライとシオカライ(ショッパイ)の問題を取り上げる。カライとシオカライ、つまり、辛味と鹹味とは、古くは区別されず、一つの範疇(仮に「辛鹹味」と表していく)であったらしい。そのことは、方言研究では、分布の解釈からほぼ定説化していると思われる。本稿では、方言分布以外に文献例も取り上げ、辛味と鹹味がおよそ中古末以降に分化し、中世には「四味」から「五味」体系になったことを新たに指摘してみる。
初めに語構成上の問題から見ていく。五つの形容詞のうち、標準語シオカライだけが複合語で他は単純語である。一般に、基礎的な語は単純語で後から生まれた語は複合語になる。シオカライの古形シホカラシは、文献では、『今昔物語集』から現れる語で、他の語(後述)よりも新しい。シホカラシは、シホ(塩)+カラシとして生まれた語形で、「『塩』味によるカラサ」を表そうとした語形である。つまり、もとは「カラシ」の類として把握されたもので、鹹味と辛味とは区別されていなかったことがわかる。
一方、鹹味の語形には、東日本方言となっているショッパイがある。語源は、次に見るように、シホハユシ、さらにシハハユシに遡るもので、この「シハ+ハユシ」もやはり複合語であり、他の四味が単純語であるのとは明らかに異なっているのがわかる。
シハハユシの語構成と語源については、シハは、シハブク・シハガル・シハブルのシハと同源で「舌・唇」の意味で、ハユシは語源はカユシと同じで(安部2000)、ハユシも「むず痒い感じがする」(日本国語大辞典)というある種の皮膚感覚的違和感と解釈される。クスグッタイことをいうコソバユシや、目バユシ(眩い)、オモ(面)ハユイ、カオ(顔)ハユイ(→カワユイ→カワイイ可愛)のハユシと同源である。つまり、「舌・唇が(鹹味で)むず痒い感じ」を表したものである。古くシホ(塩)ハユシを語源と見る説もあったが(『小学館古語大辞典』山口佳紀執筆)、シホハユシの例が後の室町末以降であるという、『日本国語大辞典』でも指摘されている難もあるが、むしろ、次の点で古形としての可能性は低い。〜ハユシは、上掲のように、いずれも目・顔・面(=顔)との複合で、全て感じている身体部位を前項にしているから、シハは「舌・唇」と見るのが適切である(コソバユシもコソコソされて感じている場所を前項で表すとも言えよう)。むしろ、シホハユシは、シハハユシのシハが後に不明となり塩(シホ)と語源俗解(民間語源解釈)されたか、あるいは、シホカラシとシハハユシが混交(contamination)(日本国語大辞典)を起こして、室町末に生まれたものと見なせよう。
そのシハハユシの古例は、『大般譬喩経 治安四年点』1024年(日本国語大辞典)に見られ、中古末(『今昔』)のシホカラシよりやや先に現れる。前者は中世末にシオハユシを経て口語化してショッパイにつながると見られ、後者は古辞書にも掲載されシオカラシを経て標準語になる文語的語形と見られる。後代に口語語形になる方が先行し、しかも、意味がやや曖昧なシハハユシという表現をまず口語で取り、次に「塩・辛い」という意味的に明確な表現を生むという、口語・文語での段階差を経て、「辛鹹味」から鹹味が分化していったことがわかる。このように、「辛鹹味から分化した鹹味表現の文語・口語のシオカラシ・シハハユシは、いずれも語形の上で他の単純語四味と異なる形をとりつつ、ほぼ同時期の中古後半に複合語として連続的に派生し誕生することで、鹹味の意味分化を成し遂げた」ことが新たに確認できる。
方言分布を確認しておけば、既に『日本言語地図』で知られるように、西日本では「このお味噌汁カライわね。」というように鹹味もカライで表現される。これも、方言研究では鹹味と辛味が古くは「未分化」であった名残とされている。東日本は鹹味はショッパイ、辛味はカライで、この二語体系は、二味を区別するようになった後代のものである。同様の事例には、「明るい」ことをアカイともいう言い方がある。
語形と方言分布の特徴から、鹹味・辛味の区別がなかったことを見た。「塩味がピリッと効いている」と「舌がひりひりと辛い」という表現に、語源的に共通するヒリ・ピリが使われていることにも、その近さが現れている。ところで、現代人の我々から見ると、塩味と辛さとは明確に異なるように思われるが、辛味をもつ古代の食物を考えると芥子菜・山椒くらいであまり多くはない。また、胡椒や唐辛子などが香辛料として一般化するのは中世以降の後代であり、むしろ、海水によるにがりの効いた塩や岩塩などのピリッとした鹹味の方が普通だったことが影響していると考えられる。そのような、ぴりりとする鹹味が、「カラシ」の中心的意味であって、鹹味専用の表現が、シハハユシ・シホカラシとして分化独立して後に、カラシは辛味の意味に特化されていったものと考えられる。カラシの意味史としては、「鹹味重点→辛味重点」の変化も考慮される。
補足すれば、「五味」という語は、漢語が浸透していく鎌倉時代の辞書『伊呂波字類抄』(日本国語大辞典第2版)から見られる。平安末には、カラシと関連付けられたシホカラシが現れるが、それ以降徐々に、カラシとは別の五つ目の味覚として自覚され、鎌倉期には漢語の影響もあって「五味」として把握されていったことがうかがえる。このように、「日本語はもとは酸味・苦味・甘味・「辛鹹味」の「四味」で、概略、中古末から鎌倉以降「五味」体系へと移行した」と位置付けられる。
三、酸味の形容詞――スシ・スッパシ・スカシの語源と語彙史―
三―(1) 主要語源説
酸味を表す形容詞には、共通語スッパイ(スッパシ)のほか、西日本方言スイとその長音化語形スイイ、東北北陸方言ス(ッ)カイがある。酸味形容詞については、特にこれらの方言分布も視野に入れた解釈が必要になる。名詞ス(酢)を元にしてスシが生まれたとするのが通説であり、また、他の語形も同じくそれとの複合語ないし、変化形と解釈されている。しかし、その解釈では、酸味表現より前に酸味を加えるための液体「酢」の存在を前提にしなければならないという点で、味覚と事物の前後関係に疑問がある。これらの語源説と語構成とを、再検討するところから始める必要がある。
さて、酸味形容詞のこれまでの語源説の主用なものを、本稿で検討したものも含めて以下に挙げておく。
○スイ(スシ)――名詞ス(酢)に、形容詞を作る接尾辞シが接続したもの。(従来の多くの語源説はこの解釈を取る。いま『日本国語大辞典第二版』とその語源説欄を挙げておく)
○スッパイ(スッパシ)――
@スッカシ―ショッパシ混交説――スシとスッカシの方言的緩衝地域(関東)で不安定になっいた語形が、ショッパイの影響もあって、〜パイという形態となった――野元1979説、真田1983でも踏襲。
Aス(酢)・ハユシ(映)の複合語説――柴田武1990、『日本国語大辞典第二版』補注
Bスハ(舌の古語・方言形)・ハユシ(映・痒)――小林隆氏案2006.12、ショッパイがシハ(舌)・ハユシ(映・痒)を語源とするのと同様に、スハ(舌)を元にしてハユシが複合して生まれた可能性(小林隆氏ご提示の一解釈――小林氏科研費研究会(2006.12.23)での討論から)
○スカイ(スカシ)(スッカイは、その促音化語形とされている)――
@スシからの派生――(ただし、いずれの説でも派生過程の言語的説明はない)真田1983、佐藤亮一監修2002(担当未詳)
Aス(酢)・カユシ(痒)――柴田1990
Bス・カラシ――本稿で検討した可能性の一つ
Cスカ・シ(カリ活用スカリのスカを元にして再度形容詞化された)――本稿で検討した可能性の一つ
Dスハ・カユシ(痒)――本稿で検討した可能性の一つ
Eスカシ祖語形説――本稿で提示する解釈
以下、これらについて、順次取り上げてみたい。
三−(2) スシ―液体「酢」が先か、味覚が先か――
スシの語源としては、唯一検討すべきものとして、次に代表されるように、古くから名詞「酢」を語源とする解釈がある。
○「『酢』に、形容詞を造る接尾辞『し』が接続してできた語。『新撰字鏡』の「醋 酢也酸也 加良之(カラシ)又 須之(スシ)」から、酸味は、古くは鹹味や辛味と分化されずに『からし』で形容されていたと考えられる。」『日本語源大辞典』(スッパイ・スッカイは項目ない)、『日本国語大辞典第二版』も同様の解釈。
この名詞「酢」説の問題点は、まず、@酸味の味覚よりも先に、調味的液体「酢」が存在していたことになる点である。Aまた、古くから身近にあったであろう味覚であるにも関わらず、他の味覚形容詞と異なって単純語形としてではなく名詞起源の複合語になる点である。
最初の問題点から言えば、酸味のあるものは、例えば、果実や、食べ物の自然発酵などによる酸化食物は、古くから身近に存在していたであろう。酒の過酸化などによって「酢」という液体が特に認識されるより前に、まず酸味が自覚されたであろうことは、容易に想像できる。調味料的液体である「酢」がまず先に作られていなければ、酸味そのものは自覚し得なかった、とは考えにくい。つまり、スッパイという味覚は、「酢」が使用されるまで気づけなかった味覚であるというのはいかにも不自然と思われる。(むしろ、「スッパイ」液体であったから、何らかのその表現から「ス」と命名されたというような、語源と発生過程が逆転しているような場合を一度は検討しておくべきであろうことがわかる。)(◆注1)
次に他の味覚形容詞との比較であるが、アマシ(奈良時代)・カラシ(奈良時代)・ニガシ(平安初期訓点資料)は、ニガシが平安初期の訓点資料に既にあることから見て、すべてほぼ上代からの単純語形と見なせよう。スシの確実な例は中古であるが、上代にある「鮨・鮓」の語源が形容詞スシに求められているので、形容詞スシも上代には同様に存在したと考えられるものの、「酢」先行語源説では、基本的味覚であるにも関わらず、スシのみは名詞派生語として作られたことになる。もちろん名詞派生の形容詞は少なくない。
一方、酸味は、科学的研究においては、人間の舌での味覚として、カラシ以外の他の三語同様に「基本味」と位置づけられている味覚である(◆注2)。そのような科学的味覚機能上の基本的位置付けに比して、語としての位置づけが低くなってしまうという点にも、問題があると言えよう。
以上のように、「酢」先行語源説には、再検討の余地があることがわかる。では、他にどのような解釈の余地があるだろうか。まず、名詞「酢」の語源そのものを改めて検討してみたい。古代語における漢語(漢字音)の影響を考慮し、漢字「酢」の音に注目して確認してみると、その呉音が「ス」であることがわかる(酢の中古音はts‘o, 酸の中古音は suan である。藤堂明保『漢和大辞典』)。現在おそらく和語と思われている名詞「す(酢)」と、この呉音スとが、偶然同音であったとは考え難い。われわれは、文化的影響を考慮するなら、名詞「酢」の語源がむしろ呉音であった可能性を疑わなければならないであろう。つまり、渡来文化として調味的液体がある時期に持込まれ、その液体の名称として外来語である呉音「ス」も渡来し、やがて和語のように「す」として定着したという可能性である。呉音スの存在は、「酢」の語源自体が漢語(中国語)である蓋然性の高さを示唆する。なお、『日本語源大辞典』には、漢語(中国語)との関連に触れる説はないが、一方、外来語説としては、吉田金彦1996『衣食住語源辞典』東京堂に「朝鮮語suil, 満州語zuなどに由来するか。」が見られ、やはり外来語起源の可能性が検討されている。どの外来語音が影響したかはにわかに確定しがたいが、当時、呉音の影響が強かったことを考慮するなら、名詞「酢」の語源は呉音ないし広く外来語と考えておくことができるのではないだろうか。
さて、何らかの形容詞より先に名詞「酢」が存在したという従来の説では、呉音(ないし外来語)スを語源として形容詞スシが誕生したということになってしまうであろう。つまり、語源を名詞「酢」に求める説は、(それ以前にスッパシ・スカシなど、スをもつ形容詞をまったく想定していないので)、日本人は呉音「ス」によって液体「酢」を命名し、その後に外来語音を語幹として酸味表現「ス・し」を作りだしたことになろう。しかし、それは、上記のように自然にあった酸味の認識としても、基礎語彙としての古さとしても説得力に乏しいように思われる。
このように、語源や語の派生において、味覚表現として難点が見られるのは、「酢」先行語源説には、名詞「酢」とスシの前後関係に、矛盾ないし無理があることを示唆している。これまで、スカシやスッパシが古い表現であるという視点からの検討がなされていないが、その可能性を一度検討してみる余地がありそうである。では、どのような可能性があるだろうか。
まず、仮に、スカシかスッパシなどの何らかのスシ以外の形容詞が先にあったならば、その語幹の一部から名詞「す」が生じる可能性が指摘できる。名詞「す」がスカ・スハなどの二音節でなく一音節であることを重視するなら、まず、いずれかの形容詞が存在していたところに、漢語「ス」が(例えば大陸起源の調味的液体と共に)受容され、それが形容詞語幹の一部と同音で理解しやすかったゆえに、一音節の「す」として切り離して理解されやすく、いわば和語と漢語との混交形的新語として受容されたのが名詞「す(酢)」であった、と考えられよう。和語「す」が成立した後に、それを元に再度形容詞として、再構成されたのが西日本の「す・し」であると解釈すれば、上記の問題点が解決される。そのような再構成された新しい語形ゆえ、広く拡大するだけの時間がなかったので西日本分布に留まったと解釈でき、それは分布の偏りも矛盾なく説明できることになる。スシが古形でなくむしろ新語形である点は、東日本の東北部などにスシが分布していないことにも現れていると見るべきではないだろうか。(これらの点も、これまでの方言地図の解釈では看過されてきていた点である。)
さらに、この解釈は、周辺部にあって古形と考えられるスッカイの意味上の特徴からも補強される。周辺部に残存するスッカイには、ものが腐ってすっぱいという意味が残っている。より古い意味段階と解釈できる自然発酵に起因する酸味の用法が残っている点にも、スッカイないしスッパイの語形の方の古さが現れていると解釈できる。
以上、「酢」先行語源説の問題点を指摘し、スッカイ、スッパイなどが古形であった可能性を検討した。これらが先行して存在していたなら、スシが生じる可能性は問題なく解釈できることが明らかになった。次に、それらの語源を検討していくことにしたい。
三−(3)スッパイ
三―(3)−1、「スッカイ―ショッパイ混交説」
以下、スッパイの語源説を順に検討していきたい。
野元菊雄1979では、もともとスイとスッカイの2語が分布し、その後、その接触地帯でスッパイが生じたとして次のように解釈する。
「古い分布は、(略)スイとスッカイとが関東西部で接していたものであろう。このため、この地帯で不安定な状態が生じ、意味の近い「塩辛い」を意味するショッパイが触媒となり、その〜パイをとって、ここに第三の新しい語形スッパイが生じたと思われる。」(野元1979)
スッパイの語形からはスッカイがショッパイと混交して生じたとも言えるから「ショッパイ混交説」と呼んでおくことにする(野元1979では、スイ・スッカイについては特に触れていない)。
真田信治1983では、スッパシについては野元氏の「ショッパイ混交説」を踏襲し、また、スイについては、「酢」形容詞化説を取る。スカイ・スッカイについては「スカイの発生年代や由来は不明だが、やはりスイから派生した語形とみなされる。」とあり、スイの方が古いとするが、スカイの派生過程の説明はない。
これらの説で不明なのは、スッカイ・スカイの解釈である。また、「ショッパイ混交説」(類推とも言えるが)は、確かに、文献的には、ショッパイの後にスッパイの登場が確認できるという点で(『日本国語大辞典第二版』)一つの可能性としては考えられよう。しかし、この〜パイが契機となったかどうかの確認は、当時の語源意識に触れるような記録でも現れない限り、確認するのは容易ではないという問題が残る。(それゆえ、スッパイについては、次に挙げる柴田氏の「酢・映し」説を検討しつつ、他の解釈の可能性が皆無かどうかを後で全体的に探っていくことにしたい。)
三−(3)−2 「酢・ハユシ」説
柴田武1990は、学術論文ではないために知られていないが、次のように、スッパイとスカイに関し興味深い語源解釈を示されている。(スイについては「酢」形容詞化説を取り、スッパイについては、やはり三番目の語形とはするが、単純にショッパイに影響されたとは解釈していない点が注目される。)
まず、スッパイの解釈に関わっているので、スッカイにも触れておくが、スッカイは、その「ス(酢)にカユシ(痒し)がついたスカユシ(酢で舌がかゆい感じがする)となり、それからスッカイに変化」したとされる(「酢・痒し」複合説とする)。やがて、このスイとスッカイの「接触地域で第三のスハユシ(酢映ゆし)が生まれ」たもので、「ハユシは、顔がほてって人に見せられないの意味、カユシよりも刺激をさらに柔らかく表現している。」とされ、ショッパイが「シオ(塩)ハユシに由来する」のと同じとする(「酢・映ゆし」複合語説とする)。
柴田氏と同様に、ス・ハユイとする解釈には、他に『日本国語大辞典第二版』がある。
○「『しょっぱい』が「しお‐はゆい」の転とみられるように、「すっぱい」も「す‐はゆい」からと考えられるが、文献上「すはゆし」「すはゆい」の実例は見あたらない。」[補注]欄
文献に確認できないという問題がそこでは指摘されている。それ以外の「酢・映し説」の問題を検討する。
この語源も、「酢・痒し説」と同様に、@「酢(で舌が)映ゆし」という語構成上の問題(要因を格とする・痒い場所が明示されていない)が指摘できる。Aまた、『日本国語大辞典第二版』補注でも指摘するように、「スハユシ」の文献例がないという問題がある(ショッパイの直接の語源となっている語形シオハユシ[←シハハユシ]は中世後期には現れている)。さらに、Bスハユシの方言例も見られない(シオハイイは西日本方言に実在する)。これら文献・方言ともに確認できない点は、ス・ハユシの実在の可能性の低さを示していよう。さらに、それを補強する点として、Cやはり語構成の問題であるが、ハユシの複合語の次のような特徴を指摘できる。この点でもこの語形の実在は疑問と思われる。
ハユシの複合語には、「目映(マハユ)シ→眩しい」「顔映(カホカユ)シ→カハユイ→可愛(カワイ)イ」「面映(オモハユ)シ」「コソバユシ(コソコソされた場所が痒い)」「舌映(シハハユ)シ(→シホ・ハユシ→シオハユシ)→ショッパイ」がある。これらの語源は、前項はすべてその感覚を感じる身体部位かそれに関わる語(目・顔(面)・舌、コソコソされる部位を暗示する擬音語)に限られている。味覚名詞(酢・塩)が付く確例はない。(ショッパイの語源も、先に見たように、シハ(舌・唇)+ハユシが古く、シオハユシは、シハ〜から後代に語源俗解(塩の解釈)にて音変化したものであって、そのシホ(塩)ハユシという語も中世末の新語でしかない)。このような特徴的な語構成から見て、「酢」とハユシとの複合語の可能性は低いと考えられる。
三−(3)−3 「スハ・ハユシ」説
ハユシが感覚を受ける部位と複合するという点で検討されるのが、小林隆氏からご提案いただいた一案の「スハ(舌)・ハユシ」説である。これは、古語のシハ(舌)・ハユシ(鹹味)をヒントに考えられたもので、「舌・唇」の方言語形のスハ(『日本方言大辞典』LAJ)とハユシの複合語として「酸味」を表す語形を想定した一案である(小林隆氏代表科学研究費研究会にて)。
方言を確認しておくと、LAJ「唇」には、スバ・ツバの語形で、山口から九州以南に分布が見られる。ツバは唾液のツバの可能性があり、ハユシを感じる身体部位でなくなるので除外し、スバ(シタスバ)のみを検討すると、スバの方は、特に南九州から沖縄に分布する(「舌」の地図では沖縄のみ)。古代語では有声無声の区別がなかった可能性が高いからスハ(古代語スパ)・スバとも同源として検討される。東日本には確認できない点が問題であるが、九州以南という分布は周圏的でもあり、その古さをうかがわせ、古語としても注目される。この方言スバから見て、身体部位との複合である「スハ・ハユシ」の可能性もあながち否定できないように思われる。
問題点を指摘するなら、一つは、スハハユイ、ないし、縮約したスハユイ・スワイという方言語形も文献例(後代を含めても)、確認できないという問題がある。鹹味の中間語形シオハユシは方言にも残存し、文献例もあるのであるから、酸味の方のこれらの語形スハハユイ・スハユイ・スワイも残存していそうなものである。
また、「舌+ハユシ」という語構成としては、ショッパイ(シハ(舌・唇)・ハユシ)と語源が同じになってしまうという問題がある。同じ語源から、酸味と鹹味の異なる二つの意味が、ほぼ同じ地域(関東)で発生ないし定着したことになる。同じ語源から、語形変化で意味分化する事例は、皆無ではないからそれ自体は絶対的な問題ではない。ただ、酸味・鹹味のように同類の隣接意味範疇を、同語源語によって区別するというのは、意味的混乱が生じやすいから、弁別効率の点から見ても、起こりにくいと考えられる。それが、異なる地域でそれぞれ別に発生しているのなら、方言にまま見られるので理解できるが、関東という同じ地域内で併存したことになる点でも、問題を残すように思われる。
また、北関東以北の中舌母音の地域においては、母音イとウの区別が曖昧であるので、仮にスハハユシが生まれたとしても、ショッパイに転じたシハ・ハユシとの間で、スとシとの語形の相違はあまり弁別的ではなかったと考えられる。ショッパイが広く分布している東日本で、発音が曖昧になるような類似語形が別の意味で定着する可能性は低いのではないだろうか。
このように、スハ・ハユシ説は、語形が文献にも方言にも確認できないこと、語構成上、同じ語源となるシハ・ハユシがほぼ同類の意味として同じ地域に実在していること、関東以北での発音の問題、などの意味と語形上の点から考えて(今後方言や文献の探索など検討の余地は残るものの)、課題が少なくないと考える。
このように、スッパイの説を検討してくると、現時点で確定的な論証をもつ説は多くない。現時点で有力な説としては、確証の得にくい推定説ではあるが「スッカイ−ショッパイ混交説」が、文献と方言的位置から見て、一つの可能性を示していると言えようか。スッパイの新しい解釈については、後のスカシ祖語説の中で取り上げることにする。
三−(4) スカシの語源説
三―(4)−1 「酢・痒シ説」
次に柴田武1990の「酢・痒し説」を検討する。まず、「酢・痒シ説」は、「舌(が)痒シ」なら理解しやすいが、「酢(で舌が)痒い」という語構成はいま類例を見つけがたく、意味的なつながりからも首肯し難い。(類似しているショッパイは、語源としては「舌・ハユシ(映・痒)」が元であって、後にシハ部分が塩(シホ)との音の連想が働いて「シオ・ハユシ」に語形変化して後に「ショッパイ」になったものであって、直接に「塩(で)ハユシ」が語源になっているのではなかった。)
また、異なる観点からであるが、「酢・痒シ」が発生する下地があるなら、「塩・痒し」の語形も生まれていそうであるが、それが見られない点も難点である。語形を確認しておくと、「酢・痒し」説は、鹹味の方の語形と解釈を、次のような連想で、酸味の語形の解釈にも応用させたものと見られる。
ハユシ複合語 →(連想的解釈)→ カユシ複合語説
鹹味 シオ・ハユシ→ショッパイ シオ・カユシ→ショッカイ(天草の語形はシオ・カライから安部)
酸味 ス・ハユシ→スッパイ ス・カユシ→ス(ッ)カイ(東北北陸)
カユシとの複合語形スカユシが、スカシがある東北北陸全体で容易に生まれるなら、同じ類推で、東北にショッカイ(←塩・カユシ)が残存していてもよさそうであるが、東北にはまったく見られない。スカイの範囲が広いにもかかわらず、東北にショカイ・シオカユイが生まれることなく、皆無であることは、カユシが意味的にも、やはりそのような語構成を取り得なかったことを示唆しているように思われる。
柴田1990は、天草で「塩からいことをシオカイカという。このカイはカイイ、すなわち塩気をカユイと受け取っている。」として、カユイの事例として挙げている。しかし、この天草の分布を詳細に検討すると、次のように、カユイからではなくカライからの変化形と解釈するのが適当である。
『日本言語地図』(LAJ)の「しおからい」を見ると、天草と薩摩半島(1箇所)に確かにシオカイカが確認できる。しかし、これらの近辺をよく見ると、KARUI, KARII, KARI, KAI(シオなし)などがあり、それらは、「辛い」の地図のこの近辺の語形であるKARUI, KARII, KARI, KAI,と同じものである。つまり、カユイからではなく「辛い」からの変化である蓋然性が高いことがわかる。実際に、天草の当該のシオカイカの1地点では、「辛い」にもKAIKAがあるから、このシオカイカは、シオカユイからの変化ではなく、シオカライからの変化であると解釈するのが妥当であろう。シオカライはあっても、推定語源シオ・カユイを裏付ける語形は皆無と言える。
このように、シオカユイも、スカユイも確認できないこと、語構成上の問題も残ることは、カユイが、味覚の塩や酢とは複合していないことを示唆すると思われる。
三―(4)−2 ス・カラシ
提示されてはいないが、可能性の一つとして、ス(酢)・カラシ(辛)を検討しておく。それは、スカライという語形が福井に1地点のみであるが実在し、かつ、前項「ス・ハユイ」で取り上げたように、カライの語形変化として、鹿児島付近にカイが実在しているので、併せれば、「ス・カライ→ス・カイ」の成立が理論的にはあり得るからである。
この語形の問題点を指摘しておけば、@やはり名詞「酢」との複合語になってしまうこと(酸味表現が「酢」の後の成立になる)、Aカイと短縮するのはそのような語末音節の短縮が顕著な南九州の鹿児島付近でしかLAJでは確認できず、スカイのある東日本では皆無であること、Bスカライの文献例が見られないこと、Cスカライが1地点のみで多くないこと、D東北などの周辺部にスカライの残存が皆無であること、などが指摘できる。
なお検討の余地はあろうが、@のように、酸味表現より先に「酢」の定着を前提とするという点では、「酢・シ」語源説と同じ問題がやはり大きな欠点と言えよう。
三―(4)−3 スシのカリ活用の再形容詞化
スシのカリ活用のスカリが、語幹スカとして意識され、再度形容詞化されれば、スカ・シという語形は生まれ得るかもしれない。これは、語構成からあくまで一可能性として検討してみたものである。カリ活用の残存はスカイの分布する東北ではなく九州での特徴であること、また、スシは前述のように新語形でもとから西日本内に限られていると考えられ(九州にスカイがある場合には可能性があるだろうが)、東北北陸でのスカイの語源説としては成り立ちがたいであろう。
三−(4)−4 スハ(舌)・カユシ(痒)
もう一つの可能性として、これまでの指摘はないが、舌の方言「スハ」とカユシ(痒)との複合語説を提示し、検討しておくことにする。
この語形は、語形変化としては、supakayushi > suɸakayusi > suwakayusi > suakayusi > sukayusi を考えるものである。supakayusi > supkayusi > sukkayusi のように、促音化も説明可能となる。酢との複合ではない点でも、一つの候補として可能性はあろう。
一方、スハカユイは、諸説の折衷案として考案したものであるので、方言にも文献にも実は例がまったくない。また、基本的味覚であるにも関わらず、複合語形としての成立を考えなければならないと言う点でも、前述のように課題が残る語形である。
以上、スカイについては、従来の説も含め、複合語と見る限り、有力と言えるような解釈はほとんど見つけがたいことがわかる。スカイ自体が歴史的中央でなく東北での分布ということもあって、文献事例がないと言う点では共通して問題点を残している。これまで、スシ祖語説があるために、スカシはそれを元にした複合語扱いであった。以下では、スカイが周圏的分布をなす特徴などから、単純語の祖語形とみる解釈を提示してみたい。古い文献事例がないという点では,他の説と同様のマイナスを抱えるが、周圏的分布であること、「酢」とは無関係に単純語形として位置付けられること、など検討の余地があるからである。
三−(4)−4 「スカシ祖語説」
ここでは、有力な語源説のないスカシについて、それがむしろ祖語形であるという可能性を検討してみたい。ここで提示する解釈は、スッパイをスッカイの異音と解釈するものであるので、同時スッパイの新解釈を提示することにもなる。(以下、スッカイとスッパイは、諸説と同じく促音化語形は強調と解釈し(アハレ−アッパレと同様)、共に古形はスカシ、スパシ(スハシ=supasi)と表して検討する)
単純語としてのスカシには、次のような複数の特徴から、祖語形として検討する余地がある。@周圏的方言分布をなすこと、A基本味の酸味として「単純語形」が古くからあった可能性があること、B語幹が同源と見なせる関連語形スガシが上代語としてあること(また、関連するスカット(文献は近世)という擬態語もあること)、Cスカシの意味に発酵・腐敗と関係する古い意味が残っていること、Dスカシの解釈に有力な語源説がないこと、などである。
これまで祖語形としての検討がなされてこなかったのは、@文化的中心地の畿内にスシがあること、Aスシ祖語説が「酢」で説明可能と思われ、根強い先入観となっていたこと、A東北の方言形であるために地方独自の訛音的なものとして省みられなかったこと、などが推定される。そのスカシに新たな解釈が可能となれば、それは隣接するスッパイの解釈とも関わってくるであろう。
まず、注目されたのは、@スッカシとスッパシとの音声上の類似である。スカシとスパシとにおけるカ行とハ行の対応は、音声的交替形として扱われることは多くないが、日本語史の中では、カム―ハム(食)のような、カ行―ハ行の音韻交替として知られる一連の語群に位置付けることができる(後述)。
次に、Aその二つの分布(k−p対応)の地理的パタン(分布範囲)が、他のカ行―ハ行の対応をなす語形での分布と、ほぼ共通しているということである(キツ―ヒツ(櫃)、アクト―アフド(踵)、ハイ(灰)の分布領域が関わる(詳しくは別稿を予定))。つまり、酸味語彙のみの偶然の分布パタンではなく、音声的対応を背景に持つスカシ―スパシで一組の分布パタンと解釈できる。
さらに、スカシには、それ自体は古代語での例がない点が問題となるが、B酸味の体感的清涼感という点で意味的に通じると考えられる、清涼・清浄な意味を伴うスガシ(上代)・スガスガシ(上代)の語幹スガや、擬態語スカット(近代)するのスカがあり、それらによって、スカシの語感スカと同源の「2音節語幹スカ(*suka、suga)」の存在が推定可能となる。特に上代文献例のスガ(シ)の存在は、意味的に同源の語幹*スカの存在の可能性を示す。以下、これらのことを、具体的に検討してみたい。
以下、議論が諸方面に及ぶので、まず結論から先に示しておきたい。この2語は同じ語源、理論的推定形*sukwa-si異形態で、強調の促音が生じる前のスカシは北方の方言語形、スハシ(supasi)はより南の方言語形であったと解釈できる。それが、先に述べたように、漢語文化が浸透した西日本で呉音「ス」が浸透するにつれ、日本語の酸味形容詞のス〜(スカシ・スパシ)の第一音節とも共通であったため、言わば和語と漢語の混淆語形の和語、名詞「す」として誕生し、その後、この和語「す」に接尾辞「シ」が付いて形容詞「す・シ」として再構成された、そして新しい形容詞形であったため、西日本の範囲内に分布・定着した、と考えることができる。以下、順に解説していきたい。
まず、右に示したスッパシとスッカシの関係と語源*sukwa-siとは、この二つの語形の類似性と分布パタンから次のように推定できる。この二語が相違するのは、子音のk, pのみであるが、古代日本語においてカ行とハ行(古代の発音ではハ行はP音なのでパ行)との交替形が少なからず確認できる。例えば、
カム―ハム(噛)、ククム・フクム―フフム(含)、ノコギリ―ノホギリ(鋸)、アクト―アフド(踵)、クナト―フナト(神名)、クスベ―フスベ(痣・黒子)、クスブ―フスブ(燻)、キタカミ―ヒタカミ(北上・日高見は同源)
などが既に指摘されてきている。さらに
カカ―ハハ(母)、カユシ―ハユシ(映・痒)
があり(安部2000)、後者は、意味が一見異なるように思われるが、「赤く・明るく映えた感じがしてむずむずとした違和感がある」という共通する意味が見て取れるから、遡源は同一語形のk-p交替形と解釈される(安部2000)。(カユイとハユイの意味的共通性は、コソバユシ(こそこそされて痒い)−面映シ―目映シ(「目がむず痒い」→眩い)―カホハユシ(→カハユイ→カハイイ→カワイイ可愛)等参照)。
これらのように子音k−pが交替形を生じるのは言語学的には世界的に知られていて、その共通する遡源として、唇音と軟口蓋の二重調音である唇軟口蓋音*kw(wは小文字で上付き)が、理論的に設定されている(例えば、高津春繁1954、p.60以降参照)。そのような言語学的解釈を踏まえるなら、sukasi、 supasiの理論的共通遡源形は、*sukwa・si(強調形は *sukkwa・si)となる(◆注3)。2語は異音という関係になり、東北ではk、関東でpのスッパイで(スシが広がる以前は関東以南全域と推定される)現れたことになる。(kwがパになる事例としては、キリシタン資料『日本大文典』に記録された長崎方言における「菓子」(古い発音はkwasi)がパシになる例が知られており、南でのp傾向が確認できる)。
次に、k−p対応での異音が、地理的に南北で分かれて分布する事例には、同様の例として、k−p交替形をもつヒツ(櫃)に対するk語形であるキツが挙げられる。キツの方言語形は、『日本方言大辞典』の報告例を地図化することで分布を確認でき(地図は別稿予定、上記小林隆氏科研研究会で発表済)、k語形のスッカイとまったく同じ範囲に分布し、この解釈の妥当性を言語地理学的にも裏付ける。
また、スカシ・キツの事例の分布とは、完全に一致するものではないが、同様に南北でk-pの語形が現れるものとして、アクト―アフド(踵)の分布がある。これは、アクト−アフド・アド(←アウド←アフド)のk-p対応語形をなすと解釈できるものである。その分布においても、p形に由来するアフド・アドが中部以南(中部と九州)に分布し、「酸っぱい・櫃」での境界線の南側にのみ分布している(アクト形の一部が中京にも残存する点が、酸っぱい・櫃と異なる)。これらの一致は、偶然ではなく、何らかの歴史的地理的な条件によるk-p対応の地理的分布傾向と位置付けられる(安部2007予定参照)。
以上から考えて、西日本など関東以南はかつてスハシ(*supasi)であったと推定される(スッパシは後代東日本で促音便化したもので、アハレ(憐)が中世に東国語の影響でアッパレを生み出したの同じ)。そのスハシと漢語「酢」から一音節名詞が誕生し、形容詞ス・シが出来たというのは、先に記した通りである。
もう一点、意味の上で、このようにスハシ・スカシを古形と見ることの優位性を補足すると、東北のスカシには、特に食べ物が腐ってきて酸っぱくなった時の味や匂いに使われるという特徴が指摘できる。(例えば、「宮城県『葡萄ジャム作ったけんど、砂糖すくなかったか、すかくなりした』、秋田県『酒が腐敗するとしけぁぐなる』」『日本方言大辞典』の例や、執筆者(
一番の問題は、この2語形に古い文献例がない点であろう。東国の方言語形が後代まで文献に現れないのはまま見られることであるが、それが祖語形の候補となれば問題は別で、間接的でも文献事例の裏付けが求められよう。その点で、可能性があるのが、スカシの語感スカと、形態的にも意味的にも類似する上代の形容詞スガシ、スガスガシである。スガシは『古事記』に「須賀志売(清女)」の例があり「すがすがしい(女)」の意を持つ。スガスガシは、「さわやかで気持がよい。さっぱりとしている。」(日本国語大辞典)の意である。2語に共通して、心身的清涼・清浄感のある語感をもつ、suga ないし清濁未分化の段階の*sukaを想定することができる。酸味も、果物や酢などは、ある種の心身全体での清涼感を伴う味覚と言えるから、このスガシ・スガスガシと近似する意味領域を持つと見なし得る。味覚のスカシと、これらのスガ〜とが同源*sugaに遡る蓋然性は決して低くないと思われる。
一方、このような、味覚と心身の感覚とを重ねる解釈を疑問視される向きもあるかもしれない。しかし、例えば、現代語にもある「スカっとする」(近代例)という表現は、心身の感覚と同時に飲み物(清涼飲料)の感覚をも表現し、しかも、語幹がsukaという点でも、当該の形態と一致している。このことも、これらに共通する形態*suka・sugaが、心身や味覚などの清涼感を表現する語幹として古くから共有されていた可能性を示唆する。(さらに同様の例として、清涼感に近接する「サッパリする・サバサバする」の子音[s-p-、s-b-]が、一方のスッパイにやはり類似していることも、これらの音の持つ身体感覚の近さを示していると言えるだろう。)
以上、スカシ・スハシが、方言分布と言語学的理論的再構成、そして、上代の同源語形によって、祖語形として十分に推定可能であることを示した。これまで、スシを祖語形と見る解釈は根強く、スカシを語源と見る見方そのものがなかった。そこには、文献例が皆無と考えられてきたことのほか、文化的中心地にある語形スシが古く、一方、関東や東北の語形は、後代の地域的変化形・派生形にちがいないという先入観がありはしなかったであろうか。
四、味覚語彙「四味」――四語による表現の特徴
四―(1) 基礎形容詞語彙の四語構造
三では、スカシ・スハシを、酸味形容詞語彙の祖語形と見る解釈を提示した。スカシ・スハシは、少なくとも異音と解釈できる可能性があることが明らかとなった。上記のように、*スカシ・スハシ(supasi)を古形と見ることが可能であるとすると、一方で、他の基礎語彙との類似点が新たに明らかになってくる。そして、それら基礎語彙との類似点自体も、上記の酸味の新解釈の妥当性を、間接的に補強することになる。この節では、味覚形容詞語彙と、色彩形容詞語彙、温度感覚形容詞語彙(以下、形容詞を略す)の構造を比較してみることにしたい。(なお、以下での酸味語形は、関東以南に広く分布するスハシ(スパシ)の方で代表させる。)
三までに見てきたところから、日本語の味覚形容詞は、古くは、アマシ・カラシ・ニガシ、そして、スハシの四語であったことになる。ところで、味覚語彙と同様に、五感を表す形容詞のうち、視覚、触覚の感覚に関わる、色彩語彙、温度感覚語彙の古代語の語彙をそれぞれ見てみると、それらも古代では四語からなる語彙であった。色彩語彙は、よく知られているように(佐竹昭広、柴田武など)、アカシ・アヲシ・シロシ・クロシの四語、温度感覚語彙は、アツシ・サムシ・ヌルシ・スズシの四語(安部1985)であることが明らかになっている。これら基礎的語彙が、同じように四語体系をなすという点は、興味深い一致である。さらに、それぞれの四語の形態と意味とを検討していくと、そこには、次のような興味深い共通点が認められる。
四−(2) 語幹の二音節
味覚語彙の四語は、その語幹アマ・カラ・ニガ・スハが二音節という共通性を持つ。これは、色彩語彙、温度感覚語彙が、上代において、いずれも語幹二音節の四語語彙という構造をもつことと一致している。
色彩語彙は、シロ・シ、クロ・シ、アカ・シ、アヲ・シの構造をもつ。温度感覚語彙も、アツ・シ、サム・シ、ヌル・シ、スズ・シの四語構造であった(安部1985)。これら視覚・触覚の表現が、語幹二音節という共通性をもつことは、同様の基礎語彙である味覚語彙も二音節であった蓋然性が高い。この点でも、これらの五感の語彙の語構成として、語幹二音節のスハシ・スカシ祖語説を補強している。
四−(3) 母音の構成
これらの二音節四語には、母音の構造と機能においても共通性を指摘できる。3つの基礎語彙を母音の特徴と意味との関係に着目して整理すると、下図のようになる。意味的により強い語、より度合いの強さを表すとみなし得る語彙(表の上部)では、重要度の高い第一音節(頭音法則が働く等)の母音に、開口度の大きく聞こえの大きい(印象の強い)ア母音が現れ、意味的に補助的語彙では対極的な狭いイ・ウの母音が使われているという共通性が例外なく認められる。単なる偶然というよりも、一定の共通性をもつ現象と解釈できる。推定したスハシも他の11語と共にこの特徴を担っており、この整合性を高めている。
「五感形容詞語彙」における四語による「2項十字分類構造」
第1母音 |
意味機能 |
視覚(色彩語彙) |
触覚(温度感覚語彙) |
味覚(味覚語彙) |
広母音a 狭母音i/u |
陽(強) 陰(弱) |
aka−awo │ │ siro−kuro |
atu (熱暑)−samu(寒) | | nuru (温) −suzu (涼) |
ama (甘)−kara (辛塩) | │ supa (酸)−niga (苦) |
語彙体系の特徴 @語幹2音節 A第1母音と意味的強弱の関連性:「意味的優性=a」⇔「意味的非優性=i/u」の対立 B意味的形態的「語彙の階層性」 C優性語形がより基礎的古語 |
[3つの基礎語彙に同じ構造がある。二音節四語の対比的母音構造が基本構造の1パタンと見なし得る]
四―(4) 意味的形態的対応と「語彙の階層性」
補足すれば、これらのうち上部の語彙が、その意味的な優位性から見て、より基本的でより古いものと推定される。色彩を表すものとしては、アカには、意味上、赤と明の両義が含まれ、アヲには青・緑のほか灰まで含まれ、それぞれ白・明・顕、灰・漠の色彩領域をカバーして広い(◆注4)。
温度では、初め温度のプラス・マイナスのみの把握があって、中間的温度の「温・冷涼」を分けるのは次の段階であったと推定される。そのことは、形態上、定着度の高い語に現れる重複形が、アツアツ・サムザムという広母音の二語にのみにあって下位の二語にヌルヌル・スズスズがないことにも現れれている。
これらは、語彙の中に現れる優性・下位と劣性・下位のレベルの差を示すもので、「語彙体系の階層性」とでも呼べる現象である。
このような「語彙の階層性」は、味覚四語の意味的関係にも認められそうである。まず、甘−辛鹹では、食物として共にプラスの要素と位置付けられる。年齢を問わず甘味は肯定的に受容され、甘いものはエネルギーとしても重要性が高い。辛鹹の、塩分やミネラルは生物に欠かせない最重要要素である。また辛味は、塩味が重要であるのと類似して、主食に辛味があってもむしろ食欲をそそる美味として受容される(例えば、カレーや韓国料理。酸味や苦味が強い主食は皆無でないがむしろ稀)。そのように、甘―辛鹹は、むしろ必要なエネルギー要素、主食において肯定的積極的に関わる味覚として位置していることがわかる。それに対して、酸−苦はやや脇役的味覚であろう。味覚語彙でもア母音のアマ―カラの方がより重要性が高いことがわかる。(補足すれば、表の縦の甘−酸の対応は、果実(の一部)の熟未熟の関係の中に味覚の対応が認められる。辛−苦は香辛料を含む「野菜・山菜類」の中に認められる。身近な食料の、より重要性の高いものによって味覚表現が発達したことを投影していよう。)
五 おわりに――ショッパイ先行説への反論およびアジアの[*sək]
味覚形容詞語彙の検討を踏まえて、基礎語彙の類型的構造についても検討してみた。酸味の祖語形と見たスカシ・スハシは、方言解釈の一つの可能性に過ぎないように見えたかもしれないが、基礎語彙としての類型的特徴に適合している語形であった。その点も、従来説のように、複合語と見なす必要が必ずしもなかったことを示している。
ところで、スカシはともかく、スッパイについては、やはりスイとスカイの中間地域でのショッパイとの混交語形では、と見る向きも、なお根強くあるかもしれない。ここで提示したキツやアフドなどk-p対応の方言分布の解釈よりは、「混交説」の方が「馴染み」があろう。そのような従来の説支持に対しては、看過されている視点を、基礎語彙構造を提示した後に、ここで提示しておきたい。それは、従来説のショッパイ先行説とは反対に、スッパイがむしろ先で、ショッパイはスッパイの類推のためにシオハユイから促音化した可能性の方が高いという解釈である。(これまで、この逆の発想がなかったのは、スッパイの別解釈がなかった、ということに根本の理由があろう。)
そのような解釈のヒントは、これまで述べてきた、@鹹味独自表現の方が、酸味より後代の語形であること、Aスカシ・スッパイの分布境界は(本文で触れた)他のk−p対応と同じ位置を保持していて、背景に音声の問題があることが明らかであること、B一方のショッパイは東日本全域に及び、こちらの方が新語としての統一的拡大を示唆すること、という点に見出せる。以下、簡単に解説しておきたい。
まず、従来説の問題として、ショッパイにひかれたとするならば、スッパイは上記のような一定位置で留まらずショッパイのある限り、より北部まで拡大してもよかったであろう。が、実際はスッパイは音声対応上意味がある範囲を特徴付けていた。逆の発想の解釈は次のようなものである。アハレがアッパレになっていたのと同様に、スハシから既に方言スッパシになっていた関東に、室町末以降の新語シオハユシ(ショッパイの直前の語源)が伝播し、東にも「五味」目の口語語形を新たに伝えると、既にあった「スッパイ」の類推によって(さらに所謂子音性的優位の方言語彙の特徴(お茶引き→オチャッピイほか)も加担して)、ショッパイが誕生し、こちらは新しい五味目の概念であったため(音声的制約もないので)一気に東日本全域に定着することになった、と解釈できる(スッパイとショッパイの文献例は現在いずれも1800年ごく初めで近接している)。この新混交語形説は、スッパイの境界の一定位置、および、ショッパイの分布との大きな相違とを説明できるが、従来の説ではそれらの説明は不十分であろう。
ここに、スッパイも、ショッパイからの影響で生まれたというだけが唯一の解釈ではないことを示した。これまで、この反対の発想がなかったのは、単にスッパイ自体に別解釈が提示できなかったに過ぎなかろう。(さらに、中国語、オーストロネシア語、朝鮮語との関係からもスカシ祖語説を位置付ける余地があるが、それは◆注5にて触れる。)
さて、まとめにもどるが、四章の最後に触れた「語彙の階層性」については、紙幅の関係で、今回は詳しくは取り上げられなかったが、語彙は、基礎・基盤となる既存の構造に、新たな語(語彙)をあたかも「層」を増築して重ねるように積み上げ、あるいは、合体させてより複雑な構造を構築していく傾向が見られる。
温度形容語彙は、中古になると四語に加えて、アタタカ・ヒヤヤカという形容動詞形によって中間の意味の層をそれぞれ加えてより複雑化した。
色彩形容詞も、四語についで、黄色・茶色、緑ほかの語彙を増やし、細分化していくが、それらの中にも、意味(の重要度、優位性)と形態(語構成)の上で、段階的階層性が示されている(別稿で触れたい)。
もはや紙幅が尽きたが、語構成、語彙の構造、語彙の階層性、方言語彙などから、語彙の歴史を再検討する方法を実践してみた次第である。
【注】(本文◆印あり)
(1)この議論は、より厳密に言えば、酸味の「認知」と、語としての必要度・存在意義との問題としては、もう一段階の検討が必要である。例えば、本論部分での議論は、「酸味」の自覚が液体より優先していたことまでは論じているとしても、その表現(形容詞)の必要性がいかがであったか、ということまでは含めていないことが、厳密には指摘可能である。例えば、酸味を自覚してはいたが、表現としての必要度が低かったので(酸味の強い果物は好まれず、発酵した食物も不適であったのであえてその表現は生まれなかったか、あるいは、他のカラシなど代用されていた、など)、表現されず、むしろ、酒の過発酵過程や熟れ寿司的食品生成過程などから保存食に関わる「酢」が、特別に有用な液体と意識され、その液体とその利用法の「有効性・意義」が自覚されることによって、その味覚もはじめて、特別に表現することが社会的に求められて、形容詞「スシ」が生み出された――だから、「酢」の誕生が先行するということは、絶対あり得ないとは言えない――という考え方も、あり得るであろう。つまり、「味覚」の「認知」という問題と、語の誕生という社会的要求とは別の段階があることも、当然ながら考えられることになる。ここでは、やや議論が煩瑣になることもあって、この注にて述べたが、このような解釈にたった場合でも、「酢」先行語源説を積極的に肯定しにくい理由は、本文にも触れるように、「酢」と同じ程度に古いことが推定されるスシが東日本に周圏的な分布すら残していないこと、また、酢の語源として呉音「ス」の影響が考えられること、スカ・スハの同語源などが本文のように説明可能であること、スガシ(スガスガシ、スカット)などの酸味と関わる語幹スガが上代に既に存在していること、など、他の解釈の可能性の方がより検討されたことによる。
(2)例えば、「美味しさと味覚の科学の最前線」『ニュートン』(2007.1)1月号などに、わかりやすい解説がある。舌の「味雷」が味覚受容体で感じる「基本味」の5つは、甘味、うま味、塩味、酸味、苦味という。辛味は、それらとは異なり「三叉神経」によって伝達される痛覚や温覚と同じ感覚になる。
(3)ここで祖語形として*kw(ここのwは上付き小文字)を設定した。一方、日本語には本来合拗音[kw]は存在せず、漢字音としてのみ後に入ったというのが通説である。ここではk−p交替形におけるあくまで言語学上の理論的語形であり、日本国内での現実音としてはsuka-とsupa-であったと解釈しておく。(ただし、今後の研究のために次の点のみ付言する。方言分布における合拗音の残存状況は、言語地理学の研究水準に照らして、漢語が中世以降に庶民にも徐々に普及していったとされていることを考慮しても、この時期以降の漢字音(しかも特殊で、江戸では発音されなかったような音)が、果たしてこれほど全国の周辺地方隅々に、普及していくことが果たして可能であっただろうか、と思われるほど特殊な周辺残存分布を示している、ということは注意しておく必要があろう。その分布パタンには、これまで注目されていないが特徴的パタンが認められ、焼畑農業の多い地域の分布状況と、「平家落人伝承の残る村落の分布」に酷似している。いまはこれらを指摘するに留める。)
(4)詳細はいま紙幅の関係で略すが、アヲに黒が含意されないのは、黒が闇と同じで物体・空間として知覚が遅れたゆえであろう。事物の色彩としてのシロ・クロの語は、それらが明暗から切り離され、色として独立に把握されてからのものと考えられる。イロという名詞とこれらの〜ロという形態が共通するところは、イロとシロ・クロの誕生段階の近さ(他のイロ⇔シロ・クロ)を示唆している。
(5)最後にもう一点、アジアの史的言語学というまったく異なる視点からスカシ祖語説の持つ一側面を補足しておく。中国語の名詞・形容詞「酢」の上古音は、[*dz‘a^g 去]『上古音韻表稿』、[*ts‘ag]『藤堂明保 漢和大辞典』と推定されている。この語形は、日本語祖語形と類似する。日本語のサ行はts-とも推定されており、清濁未分化を考慮すると、祖語形スカは実際には[*tsuka, *tsuga,*dzuka, *dzuga]などの範囲も想定可能となるから、スカは、中国語上古音と酷似しているのがわかる。ところで、拙論による限り、東アジア言語(モンスーン・アジア言語)の基礎語彙には、いくつかの共通した祖語形の可能性が指摘できる(河川名、火(ホ)*apui、糸(カナ)*kan、麻(ソ)*tsoなど。ABE2006、安部2007予定、ほか安部HP参照)。そのことを踏まえれば、母音は保留すると、中国語と日本語における共通祖語形として、[*ts-g](あるいは、[*s-g])を設定できることがわかる。中国語との酷似は、これがモンスーン・アジア(MA)の基層語(ABE2006)である可能性を示唆する。改めてその視点から検討すると、[g・k]は、MAの南では、[g・k−b・p]の対応として、pあるいはbで現れる傾向が指摘できるから(安部2007予定)、オーストロネシア語祖語PANにおいて[*ts−b](あるいは、*s-p)として現れることが、理論的には推定できる。そこでCAD1994によってsour(酸味)のPANを確認すると、果たして[*sem]が確認できる(PANでは[*qal+sem]とあり、ヘスペロネシア祖語形PHNには[*la+sem]とある。複合語の前部要素を別として、これらに共通する*semが確認できる)。音節末でのm−bの交替は生じやすいから、このPANの語形[*sem]は、上記日本語と中国語の共通語源と同源として説明可能であることがわかる。よって、これら三言語とMA言語研究からは、モンスーン・アジア祖語形PMAとして、[*səg](南方語形として[*səb])が、理論的には設定定可能となる。そして、これらの語形の一致は、スカシ祖語説を支持することになる。(現代朝鮮語のsida, sikum-hada (酸っぱい)の語幹にも類似音を確認でき、現在その古語形も調査中である。)この注では、モンスーン・アジア言語研究からスカシ祖語説を支持し、併せて新たな遡源形として[*səg]を提示してみた。
【参考文献】(ほか関連するものはHP参照;http://www.geocities.jp/abeseiya2005/
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柴田武(1990.2)「食の言葉」『ヴェスタ』2号、味の素食の文化センター
高津春繁(1954.7)『印欧語比較文法』岩波全書
野元菊雄(1979.3)「酸っぱい――第三語形の採用――」『日本の言語地図』中公新書
吉田金彦(1996)『衣食住語源辞典』東京堂
【付記】
(1)本稿の味覚語彙は、はじめ安部清哉(2000.12)で部分的に取り上げ、@古代語での「四語」体系、A色彩形容詞語彙・温度形容詞語彙の四語体系の類型、について結論のみ簡略に言及している。本稿では、その後見出した柴田1990を含む語源の諸説の検討、および、方言分布の新解釈を含め(下記(2)の安部2007.2で紙幅の都合上略したことも含め)全体的に詳述したものである。
(2)本稿の内容は、成稿過程で結論の一部を次の一般向けの企業広報誌に公表している。安部清哉(2007.2)「変わる日本語――アマイ・カライ・ス(ッ)パイ・ニガイの「四味」の世界」『ヴェスタ』65、(法)味の素食の文化センター、pp.28−31、
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