物理学には様々な「基礎理論」がある。
物体の運動を記述する基礎理論は、かつては Newton 力学だったという。
しかし、人類が原子の世界での現象を知るようになると、新たに量子力学が生まれ、
Newton 力学は基礎理論としての座を量子力学に譲ったという。
Newton 力学は、ある程度のマクロのスケールだけで成立する近似的な理論に成り下がってしまったのだろうか?
基礎理論であるべき量子力学にも、限界はあるだろう。
ならば、これもまた近似理論として扱うべきなのだろうか?
そもそも、基礎理論だと言って信奉してきた Newton 力学を
あっさり近似理論に格下げして平然としているのだから、
物理学者のいう基礎理論などあてにはならない。
結局は、最新流行を追っているだけの連中なのか?
また、物理学の実際の研究を見ると、「究極の理論」を追い求める研究は
ほんのごく一部に過ぎず、殆どが、物性物理、流体力学、などなどの
マクロなレベルを扱う物理学の研究である。
このような研究は、単なる「基礎理論」の応用に過ぎない
二流の仕事なのだろうか?
「究極の理論」の探索には参加できない「落ちこぼれ」の
物理学者に割り振られた残務処理的な作業なのだろうか?
様々な反科学的な議論の背景には、このような
「基礎理論」や「基礎研究」についての不信感があると感じる。
また、「究極の理論」を信奉する(と称する)一部の科学者のあまりにも
単純素朴な科学観も、そのような不信感を後押ししていると感じる。
以下では、科学における様々な基礎理論を、
あるいは、基礎科学そのものを、どのように認識するのかという
私の個人的な見解を簡単にまとめたい。
(
以下に述べる科学観は、私の個人的な意見ではあるが、
現代の多くの科学者が同様のヴィジョンを持っていると私は感じている。
また、私自身がこのような科学観を明確に意識したのは、
大野克嗣さんの影響を受けたからである。
ただし、以下に述べた考えに大野さんが逐一賛成されるかどうかは
まったくわからない。
)
なお、ここで私は科学論者たちの向こうをはって、自分なりの科学哲学を
打ち出そうなどとしているのではない事ははっきりさせておこう。
私は、よくも悪くも、科学の研究に携わる者であり、また、
それ以前に、素朴に科学を愛する一人の人間である。
山を愛して山に登る人が、ただ「そこに山があるから」登るのと同じ事で、
私にとっては科学の「山」が「そこにある」ことは疑いようのない
事実なのである。
山に登った人が山から見える景色を語るのと同じように、
私は、科学の世界の中をさまよう(少なくとも私という)
人間には回りの景色がどう見えるかを語っているだけのことである。
私は、
Newton 力学も、量子力学も、そして、熱力学も、全てこの世界の何らかの
側面を記述する「普遍的な構造」であると考えている。
この世界では、絶望的なほど多種多様な現象が生じていて、
それらを漫然と眺めているだけでは、人類のささやかな論理能力によって
何かを本当に理解することなどとうてい望みようもないと感じられる。
しかし、世界の中で生じる出来事の中から、ターゲットを絞り、
何らかの特定の側面に注目してやれば、
簡潔な論理的構造を抽出することができる場合がある。
これは、科学の先達が長い歴史の中で見いだした驚異的な経験事実である。
理想的な場合には、そうして抽出された論理的な構造は、
高い普遍性をもつ「普遍的な構造」になっている。
私が「普遍的な構造」というときには、
「普遍的な構造」は、世界にそのままの形で内在していて、人間はそれに
気が付いて「拾ってくれば」よいという性質のものではない。
だからといって、これらの構造は、人間が自分の趣味と都合で勝手に
世界に押しつけたものでもない。(
科学の理論は「客観的な真実」ではなく、科学者が社会学的なプロセスを
経て「作り出した」ものに過ぎないとするのが、典型的な
相対主義的反科学論の主張である。
これらの主張には、科学の実用性を盾に反論するのが常套手段かも
しれないが、「普遍性」を軸にした科学の姿を積極的に提示することも
必要だと筆者は考える。
)
「普遍的な構造」は、徹底的な観察、創意を凝らした実験と、
大胆で緻密な理論的考察の
繰り返しを通じて、長い年月をかけて現実の世界から「抽出」されてくるもの
なのである。
私は、「普遍的な構造」は現実の世界に「宿っている」という言い方が好きだ。(
「土の塊に魂が宿る」といった日本語の伝統的な
表現と同じ意味で、「宿る」という
言葉を使っている。
)
「拾ってきた」のでもなければ、「押しつけた」のでもない。
「宿っていた」ものを、理性の力で見いだしたと思いたいのである。
これまでの歴史の中で、人類はたくさんの普遍的な構造を世界から抽出し、
それらを論理的、数理的にに記述してきた。
たとえば、日常スケールから天体スケールまでにおける
物体の運動という側面から、Newton 力学という普遍的な構造が得られた。
原子の構造をはじめとしたよりミクロな世界での現象からは、
量子力学が得られた。
そして、種々のマクロな物質が「熱」に関わって示す様々な現象から、
熱力学が得られたのである。
熱力学が完成した 19 世紀の半ばには、
量子力学は全く知られていなかったばかりか、
物質が分子や原子からできているという事実さえも
万人の認めるところではなかった。
それでも、様々な観察や実験に基づいて、精密科学としての
熱力学が作られた。
その後、統計物理が生まれ、分子論が確立され、さらに、
物質のミクロな構造は量子力学に支配されていることが明らかになったのだが、
驚くべきことに、これらの「革命」がおきても、
熱力学は全く安泰だった。
分子論さえ仮定しないで作られた熱力学は、
何の修正も加えないまま、固体の量子論や場の量子論と共存できる
ことがわかったのだ。(
歴史的には、Planck らによる電磁場の熱力学についての考察が、
量子力学の誕生に本質的な役割を果たした。
)
熱力学が、まさしく「着目していない詳細や未知の要素の影響を
受けない」という「普遍的な構造」ならではの
力強さを持っていることを見事に示している。
普遍的な構造の一つ一つが、独立して存在し得ることを強調してきたが、
それならば、科学とは多数の普遍的な構造の寄せ集めなのだろうか。
もちろん、そうではない。
陳腐な言い方かも知れないが、確かに科学は究極的には一つの存在だと思う。
なぜなら、数多くの普遍的な構造の間には、実は
密接な論理的な関係があるからだ。
たとえば量子力学という普遍的な構造は、スケールの大きい極限で
Newton 力学という構造を再現する。
流体力学というまた別の普遍的な構造は、流体を構成する粒子についての
Newton 力学から何らかの極限操作で得られると信じられている。(
これは、未だ研究途上の問題で決定的な答えは得られていないが、
多くの傍証は得られている。
)
このように、純粋に数理的なレベルで
多くの普遍的な構造が密接に関連し合っている。
普遍的な構造は、必ずしも Newton 力学や場の量子論のような
大きな枠組みの理論である必要はない。
世界の様々なレベルに実に多様な形で普遍的な構造が宿っている。
たとえば、Newton 力学の枠組みの中でも、基本的な粒子の運動方程式の
他に、剛体の運動方程式というものがある。
剛体の運動方程式は、剛体を構成する粒子の個数や形状、粒子同士を
結びつける力の種類などによらず、実に簡単で普遍的な形をとる。
これ自身、完結した数学的な構造を持っており、普遍的な構造の典型例である。
しかも、剛体の運動方程式は、構成粒子についての運動方程式から
厳密に導くことができるのだから、Newton 力学との間には完璧な
論理的な関係がある。
より洗練された例としては、様々な磁性体や流体における臨界現象は、
もとになる系の詳細にはほとんど依存しないある普遍的な構造で記述される
ことがわかっている。
しかも、この普遍的な構造は、場の量子論の構造と数理的なレベルでは
等価だという予期しなかった論理的な関係さえも見いだされている。
様々な普遍的な構造と、それらの間の関係の総体こそが、
基礎科学なのではないか。
基礎科学の発展は、新しい普遍的な構造の発見によってもたらされることもあれば、
異なった普遍的な構造の間の新しい論理的な関係の解明によって
もたらされることもある。
あるいは、この二つのタイプの発見が相伴って行われるというのが、
もっとも自然な成り行きかも知れない。
こうして、様々なレベルでの論理的に理解可能な
普遍的な構造が互いに論理的な関係で
有機的に結び合わされた
複雑にして精妙な網の目のような構造としての基礎科学
の姿が浮かび上がってくる。
現実の世界がこのような認識を許してくれるというのは、
実に驚くべきことではないだろうか?
人類が経験と理性で織りなした普遍的な構造の網の目が、
かつては理解不能だった現象たちをも徐々に覆い尽くしていく。
そして、
人類の認識の進歩につれて、この網の目はより広大に、そして、
より精緻になっていく。
このような科学観は、
世界は一つの究極の理論で理解できるはずだという素朴な科学観などよりも、
少なくとも私には、はるかに魅惑的に感じられるのだが。
といった性質を持つものを想定している。
田崎晴明
学習院大学理学部物理学教室
田崎晴明ホームページ