私のように音楽的能力の乏しい者にとっては、これは至難の業である。 それでも、比較的透明な構造の曲を繰り返し聴いたとき、突然霧が晴れ渡るように同時進行する複数の声部の姿が完全に認識されることがある。 それは、我々の中の、知性と感性が未だ分化しない深い所を魅了する素晴らしい体験である。
しかし、そういう例外的な場合を除けば、私に聞こえてくるバッハは、一番覚えやすい「主旋律」と、その背後で漠然と響いている「伴奏」の重ね合わせでしかない。 音楽的な認識能力の不足のために、無意識の内にバッハを安易に再解釈しながら聞いているのだろう。
物理学における多体問題は、数多くの構成要素が互いに対等に振る舞い、相互作用しながら織りなす複雑にして壮大な構築物である。 この構築物の構造を理解し、そこから様々なストーリーを聴き取っていくのが、我々理論物理学者の仕事である。 そのために我々が最初に試みるのは、この交響楽の中から「主旋律」を拾い出して理解するという「一体問題による近似」である。 これによって、楽曲=物理現象の大ざっぱなイメージが得られる。 次の段階は、主旋律を陰から支えている「伴奏」を理解しようとする「平均場近似」だろう。 「伴奏」が「主旋律」と和声的にしっくりと調和していれば、つまり、「平均場」のふるまいが「一体問題」と無撞着であれば、楽曲=物理現象はほぼ完全に理解されたということになる。 実際、多くの物理学者が、多体問題の理論の最終目標は優れた平均場近似を作ることだと考えているようだ。
しかし、バッハの鍵盤曲に中に「主旋律」と「伴奏」の区別が存在しないのと同様に、多体系の中にも特別な「一体問題」と「平均場」の区別は存在しない。 「一体問題」と「平均場」という区分は、多体問題をあるがままに解析できない人間が作り出した便宜的なものにすぎないのだ。
人間には多体問題の中で同時に生起する複数の出来事を、そのまま知覚し、理解することができるか? あるいは、「一体問題」と「平均場」という便宜的な区分に頼らずに、多体問題をあるがままに解析することは可能か? これが、この解説のテーマである。 はじめから壮大な交響曲に挑戦するのは無謀だろう。 まずはなるべく透明な構造を持った Hubbard 模型という鍵盤曲を繰り返し聴くことからはじめよう。
(固体物理、1996年3月号、「Hubbard 模型の数理と物理」より抜粋)
田崎晴明