ここには、本の情報ではなく、あえて、ごく個人的で偏った(科学者としての)思いだけを書きます。 (「『知』の欺瞞について」に戻る)
その性格からして、これを読むことで、 科学について、あるいは、科学哲学や科学社会学について、 確固たる知識が得られるという本でありません。 (まして、ポストモダン思想について、何かが学べるわけはない。) しかし、科学をめぐるある種の風景を知るためには、格好の本だと思います。 もちろん、公正かつ俯瞰的に風景を描いてみせるわけではない(それはもとより不可能だし、個人的には掘り下げが甘かったり方向が違うと感じるところもないわけではない)ですが、そもそも、その点についての誤解はあり得ないでしょう。
私個人は、狭い視野しか持ち合わせないので、この本を広い意味で科学の「啓蒙」に貢献するものと受け取っています。 上に書いたように、これは知識を伝えるための本ではありません。 しかし、科学について、科学をめぐる諸々の要素について、そして、科学の素晴らしさについて、いろいろなことを考え始めるきっかけになると信じています。
広い意味での「知の欺瞞」は私の専門の(そして私が心から愛している) 理論物理学の分野にも蔓延しています。 低い問題意識と(計算機やルーチン化した手法に頼った)質の低い解析を、 流行の用語や難解な言葉で覆うことによって自らのまわりに 「深遠さ」や「難解さ」のオーラを巡らせる 「理論家」たちのやり方は、そばで見るだに不快なだけでなく、 分野全体の質の低下を誘うものです。 私が常々批判している「複雑系」でこれが顕著なのはいうまでもなく、 お粗末な数値計算を華麗で尊大な言葉で粉飾する一部の(多くの?)人のやり方には、 (悪しき意味での)ポストモダニズムの香りさえ感じられます。 一見、お堅く地味と思われがちな、固体物理の分野の一部にも、 実は同様の傾向はあります。 (これらは、私にとって、比較的身近な分野なので、特に目につくので、 例として挙げました。 他の分野にも似たようなものはあるでしょう。)
念のためにいっておけば、 このような理論物理学における「知の欺瞞」は、 この本で批判されているポストモダニズムにおけるまったく出鱈目でそれでいて恐ろしく尊大な科学の濫用とは、まったく比べものにならないほど軽いものです。 この本に登場するポストモダニズムの「大家」と、 「複雑系」の研究者たちを同じまな板にのせて批判しようというつもりは、 私にはありません。
それでも、 本当に難しく(それゆえに本当に面白い)問題に直面することを避けて、 世間に受ける華麗な言葉遊びに逃避しようとする傾向についていえば、 ポストモダニズムから理論物理学にまで、 どこか非常に深いところで、 脈々とつながるものがあるのではないか --- という感覚はもっています。 そして、私は、この翻訳が世に出ることによって、 少しでもそのような傾向をくい止められたらと願っています。 広い意味で、「当世流行華麗馬鹿噺(ファッショナブル・ナンセンス)」 を恥ずかしいものだと感じる空気を醸したい; 真剣に科学に携わる人が、その勉強や研究の過程で、 ポストモダニズム的なものに心動かされることは全く愚かで非生産的だという当たり前の事実を、 誰もがあらかじめ常識として身につけているような状況をつくりたい (科学の hard core の部分以外で --- たとえば趣味や瞑想の糧として --- ポストモダニズム的言説を活かすことには、なにも文句はいいません。) --- というのが私の切実な思いです。
当然の問い。
「そうやって、何かを否定するだけで、十分な啓蒙が行なえるのか?」
それは、もちろん、無理です。
しかし、
Hal Tasaki
Department of Physics, Gakushuin Univeristy
Tokyo, Japan