「水に『ありがとう』などの『よい言葉』を見せると、きれいな結晶ができて、『ばかやろう』などの『わるい言葉』を見せると、きたない結晶ができる」というのが「水からの伝言」というお話です。 テレビで芸能人が取りあげたこともあるし、小学校の授業の教材として使われたこともあるそうです。
しかし、これまでの科学の知識から考えれば、水が言葉の影響をうけて結晶の形を変えるということは、けっして、ありません。 本や写真集には、実際に試してみたという「実験結果」がのっています。 でも、これは、実験する人の「思いこみ」が作りだした「みかけ」だけの結果だと考えられます。 ただの「お話」と思って聞くならいいかもしれませんが、事実だと思うのはよくないでしょう。
それに、どんな言葉が「よく」で、どんな言葉が「わるい」かは、私たち人間がいっしょうけんめいに考えるべき、人の心についての大切な問題です。 水に答えをおそわるような問題ではないはずです。 また、「きれいな結晶なら、よい言葉」というように、見た目のきれいなものが「よいものだ」と決めているのも、私には、おかしく思えます。 ものごとを、見かけだけで決めてしまっていいのでしょうか?
人の心は、すばらしい力をもっています。 ほかの人たちを思いやる心、愛と感謝の心は、とても大切です。 しかし、それと「水が言葉の影響をうける」という「お話」には、なんの関係もありません。
私たちは、学校の授業など、教育の場に「水からの伝言」をもちこむのは、絶対によくないことだと考えています。
このページでは、「水からの伝言」についての、私たち科学者の考えを、簡単に説明します。 (より簡潔な批判的解説を読まれたい方には菊池誠さんの「水からの伝言をめぐって」をおすすめします。またwikipedia の解説は(2006年11月末の時点では)正確で簡潔にまとまっています。)
ちゃんと実験をして結晶の写真をとっているのだから、本当なんじゃないの?
ともかく、「ありがとう」がよい言葉だと教えられるのだから、それでよいのでは?
科学に「ぜったい」ということはないはずなのに、「水からの伝言」が本当でないと言い切れるの?
「水からの伝言」が事実でないというためには、実験で確かめなくてはいけないのでは?
人間の精神には、すばらしい力があると思います。 それが「水からの伝言」で説明されるのではないでしょうか?
科学的な「事実」よりも大切な「真実」があるのではないですか?
しかし、これまでの科学のさまざまな知識をもとにして考えれば、水が言葉の影響を受けて結晶の形を変えるということは、あり得ません。 そもそも結晶をつくる実験をするのは、言葉を見せた(あるいは、音楽を聴かせた)三時間くらい後ですから、その影響が残るというのは常識で考えてもおかしいでしょう。 「水からの伝言」は、「今の科学ではまだ、わからないことだ」と言われることがありますが、そうではありません。 「今の科学で、まちがっていると断言できるもの」なのです。
「水からの伝言」というのは、上のような「お話」を目で見せるための写真集のタイトルです。 その後、「水は答えを知っている」というタイトルの本も出版されて、ベストセラーになっています。 この本には、「言葉の出す『波動』が水に影響する」といった説明が書いてありますが、科学としてみるかぎり、まったく意味をなしません。
ところで、「水からの伝言」では「水の結晶」という言い方をしていますが、あの結晶は空気中の水蒸気が氷のとがった部分にくっついてできたものですから、別に目新しいものではなく、ふつうの「雪の結晶」と同じものです。 このページの最初の写真のような空からふった雪の結晶の仲間で、形が複雑なことを除けば、冷蔵庫でつくる氷と変わりありません。 実験室で雪の結晶をつくるのは、今日ではあたりまえの技術ですし、みなさんの家庭でもペットボトルを使ってきれいな樹枝状の雪の結晶をつくることができます(ペットボトルで作る雪の結晶)。
私たちは「水からの伝言」での実験がどういうものか、ほぼ理解しているつもりです。 氷のかたまりの温度が、マイナス 20 度からマイナス 5 度程度まであがっていく途中で、多くの氷のうちの少数で、わずかの時間だけ、六角形の結晶が成長します。 気相成長といって、空気中の水蒸気が結晶のもとになる核にくっつくのです(そうしてできるのは、ふつうの「雪の結晶」です。結晶の主な材料は、「ありがとう」を見た水ではなく、空気中の水なのです)。 この実験では、温度や湿度をきちんと一定に保っていないので、実験するたびにバラバラの結果がでてしまうと考えられます。
そういう、ばらつきの大きい結果がでてくると、実験している人のちょっとした思いこみと一致するような結果だけが選ばれて、まるで意味のある結果がでてきたように見えてしまうことが多いのです。 たとえば、「これは、『ありがとう』を見せた水だぞ」と思いながら観察すると、ついつい、きれいな結晶に注目しやすくなるでしょう。 逆に、「これは『ばかやろう』だ」と思いながら観察すると、ついつい結晶をみのがしてしまうということもあるでしょう。 そうすると、結果として、「ありがとう」のときには、きれいな結晶がみつかりやすく、「ばかやろう」のときには、きれいな結晶はなかなかみつからない、ということになります。
「水からの伝言」にでてくる結晶の写真は、「水は言葉を理解する」という思いこみと話が合うよう、じょうずに選ばれたものだと考えるべきだと思います。 写真をとっている人たちは、そういうことを考えず、自分たちの思いこみにあうような写真を無意識に選んでしまっているのかもしれません。
授業のすすめ方は、先生によるでしょうが、だいたい、次のとおりです。 きれいな結晶ときたない結晶の写真を見せます。 そして、それが「ありがとう」と「ばかやろう」を見せた水だと説明し、水が言葉の影響を受けるのだと教えます。 上で書いたように、これは、事実ではあり得ません。 次に、「人の体の70パーセントは水でできている」と説明します(これは、本当です)。 そして、人に「わるい言葉」を使うと、体の中の水が影響を受けてしまうから、「わるい言葉」を使わないようにしよう、という結論にもっていきます。
また、全校集会での校長先生や PTA 会長のお話の中でとりあげられたことも多いようです。
これがなぜ困ったことなのかについては、以下の二つの項目をご覧ください。
ところが、「水からの伝言」のばあいには、実験でみつかった事実として紹介されているのです。 そもそも、「これは、ただのお話です」と言ってしまったら、「水からの伝言」をつかった授業はうまくいかないと思います。 生徒といっしょに道徳について考えるために、本当でない話を本当だと言ってしまうというのは、とても困ったことではないでしょうか? (言うまでもないでしょうが、「『お話だ』と言えば、どんな題材を道徳の授業で使ってもいい」と主張しているわけではないですよ。)
また、科学的なことは別にしても、「きれいな結晶ができるのは、よい言葉」などと教えていいものでしょうか? 見た目のきれいさ、汚さだけに、とらわれてはいけないということも、道徳で習うことですよね。
そして、もっとも大事なことは、なにが「よい言葉」でなにが「わるい言葉」かというのは、人の心についての、とてもむずかしい問題だということです。 こういう問題については、私たちが、人として、いっしょうけんめいに考えて、少しずつ答えをみつけていくべきなのです。 「水の結晶」なんかに答えを教えてもらうべきではありません。
しかし、科学のなかには、長い時間をかけて、とてもよくわかっている部分もあり、そういうことについては「ほぼ確実に正しい」と言いきることができます。 たとえば、「地球がほぼ丸い形をしている」ことは、むかしは、大胆な仮説でしたが、今では、たくさんの証拠に支えられており、ほぼ確実に正しいといえます。
逆に、ほぼ確実に正しいことがわかっている科学の事実と比べることで、「ほぼ確実に正しくない」と言いきることができるような考えもあります。 たとえば、「大地は平らで、カメの背中に乗っている」といった考えです。 「水が言葉の影響を受けて、結晶の形を変える」という考えも、同じように、ほぼ確実に正しくないと言いきれるのです。
だからといって、すべての考えを、いつでも実験して確かめなくてはいけない、というわけではないのです。 科学の知識がある程度まで増えてくると、新しく実験しないでも、何がおきるかが、ほぼ確実に、わかるようになります。 過去の実験の結果についての知識と、総合的な理論をもとに考えることができるからです。 たとえば、「あしたの朝、太陽はのぼらない」と言われても、これまで太陽がのぼってきたという観察事実と、なぜ太陽がのぼるのかという天体の運動についての知識を組み合わせれば、「いや、あしたも太陽はのぼる」と言いかえすことができます。
「水からの伝言」についても同じようなことが言えます。 これまで、科学の長い歴史の中で、水を使ったさまざまな実験がおこなわれています。 その結果、水のもっている性質が、言葉や人の心の影響を受けないことが、ほぼ確実に、わかっています。 そのことは、水やさまざまな物質のふるまいについての物理学の理論から考えても、なっとくできることです。
上で書いたように、「水からの伝言」の「実験」はまったく信頼できないものですから、それが「本当でない」というために、新たに実験をする必要はないのです。
念のために断っておきますが、「ニセ科学」と呼ばれている物すべてが、これと同じようにあっさりと否定できるわけではありません。 「水からの伝言」は、「わかりやすい」例だと言えます。
もし、「実験に対しては実験で反論するのが科学のルールじゃないのか?」と思われている方がいらっしゃれば、それは、まったくの考え違いです。 上のような事をていねいに書いたのは、ほとんどの読者のみなさんが(そして、「水からの伝言」の実験をしている人たちが)科学者ではないからです。 もし、これが科学者どうしであれば、話は単純です。 これまでの考えとは違う新しい説が本当かどうかが問題になるときには、新説をだしている科学者の側に、説得力のある証拠をだす責任があります。 仮に(私は、そうは思っていませんが)「水からの伝言」に「科学のルール」をあてはめていいとすれば、「ともかく、温度と過飽和度を一定に保ち、全サンプルについての統計を取ってください。話はそれからです」で終わりです。
もちろん、美しいと思います。 上で紹介した、Libbrecht 教授のフォトギャラリーなんて、見ているだけで感動しますよね。
そういう「わあ、きれいだ!」という感動が、科学者にとっても、研究を進めていくための、たいせつなきっかけになります。 今では、どんな条件で、どんな結晶ができるのかも、かなり詳しくわかっています。 でも、まだまだ、わからないことはたくさんあって、研究はつづいています。 ごく単純な水の分子が、たくさん、たくさん集まって物理学の法則にしたがうだけで、こんな美しい形ができてしまう! そう考えるだけで、わくわくするのが科学者なのです。
自分自身の気持ちの持ち方や他人からお思いやりだけで、体の調子も含めたいろいろなことが変わってしまうのは、誰もがしばしば経験することです(とはいえ、「ジャンプ」のマンガではありませんから、気合いだけで、すべてが何とかなるわけではないですが)。 文化や芸術を生み出す精神の力は、本当にすばらしいものです。 そして、人がお互いを愛し合い大切にしあう心は、真に尊いものだと思います。
わたしは、そんな人の精神のすばらしさが、そう簡単に説明できるとは思っていません。 説明できなくても、すばらしいものはすばらしいと素直に受け入れればよいのです。 まして、「水からの伝言」をもちだして説明する必要など全くないと思います。
事実だけにもとづいては語れないような何かを語ろうとするのは、尊い考えだと思います。 しかし、そうであれば、わざわざ本当ではない(可能性がとても高い)「水からの伝言」をもちだす必要はないと思います。 「真実」を語るための、もっと正直な方法をさがすべきではないでしょうか?
「愛と感謝」を大事にしようというメッセージにしても、「水が言葉の影響を受ける」などという話とは切り離して、人の心のあり方、人の生き方への提言として、発していく方がずっと素晴らしいと思います。
「水からの伝言」を固く信じている人たちには、そうするだけの理由があるのだと思います。 また、「科学的事実がどうかという問題ではなく、自分は、信じたいから信じている」という人たちもいらっしゃいます。 こういった人たちは、そもそも、私の書いたものなど読まれないでしょうし、たとえ読まれても不快に思われるだけでしょう。 私は、そのような確信をもっている人たちの考えを、容易に変えられるなどとはまったく思っていませんし、あえて変えなくてはいけないとも思っていません。
しかし、中には、「ありがとう、ばかやろう」の実験が科学的なものだと誤解したため、「水からの伝言」を信じている人たちもいるでしょう。 そういう人たちに、「科学者が理由をあげて、そうでないことを説明している」という事実を知ってもらうのは、意味のあることだと思います。
私がメールのやりとりをした人たちの中には、「日頃から、人間の心の素晴らしさを強く感じている。『水からの伝言』で、それが説明されると思った」とおっしゃる方もいました。 しかし、私だって人の心は神秘的で素晴らしいものだと思っていること、その素晴らしさは別に説明を要するものではないこと、そして、「水からの伝言」の実験は(科学としては)信頼できないことを詳しく説明したところ、その方は、とてもよく理解してくださいました。
そして、「水からの伝言」について半信半疑の状態の人たち、あるいは、まだ「水からの伝言」に接したことがなかった人たちには、ここにまとめた色々な考えは、何らかの意味をもつはずです。
このページを発表したとき「これだけでは問題は解決しない」というようなご指摘がたくさんあり、実は、びっくりしてしまいました。 もちろん、こんなホームページ程度で物事が大きく変わるはずがないと最初から思っていたからです。 しかし、幸いにも予想以上に多くの読者(ほとんどの方は、「水からの伝言」を信じていないと思いますが、それでいいのです)に目を通していただけたことは、長い目で見て、決して無意味ではないと確信しています。
この文章のタイトルは、「『水からの伝言』を信じないでください」です。 もちろん、強く信じている人の考えは簡単には変わらないでしょうが、それでも、「このお話を頭から信じてしまわないでください」とはっきり言いたいのです。 では、その後に、「かわりに科学を信じてください」と続けたいのかというと、そんなことはありません。 科学というのは、世界をより合理的に理解しようと努力し続ける営みのこと(そして、私たちの生活の大部分を支える基盤)ですから、信じるとか信じないとかいう性質のものではありません(もちろん、信頼すべき科学者のことは、信頼してほしいですが)。 「信じないでください」の後に何かを続けるとしたら、「私たちのまわりの世界を虚心坦懐に見て、色々な事を自分の頭で考えてください」といった事になると思います。 そのために、小説など色々な本を読むのもいいでしょうし、ただ自分で沈思黙考するのもいいでしょうし、あるいは、気が向けば、科学が何を達成してきたかを学ばれるのも素敵ではないでしょうか?
このページ(と、ここからリンクした「詳しい説明」のページ)に書いたことのほとんどは、私が何人かの仲間たちから教わったことです。 私は、言ってみれば「まとめ役」をしただけで、実質的にものを調べたり、よくある質問への答え方を考えたりしたのは、私以外の多くのみなさんです。 とくに、菊池誠さん(大阪大学)、天羽優子さん(山形大学)には、たくさんのことを教えていただきました。 また、小波秀雄さん(京都女子大学)、斉藤完治さん、佐藤大さん(東北大学)からは、ページの内容について貴重なコメントをいただきました。
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