ビルに突入する旅客機。炎に追われ宙に身を投げる人々。崩れ落ちる摩天楼。身も凍る光景に、世界中のだれもが大きな衝撃を覚えたことだろう。大勢のイスラム教徒たちも、まったく同じように激しい衝撃と苦悩を感じたのだ。
だが、「イスラム社会も一致団結してテロを糾弾する」とみるのはあまりに楽観的である。ここパキスタンの国営テレビは、国をあげてテロを非難する様子を映し出そうと懸命だ。しかし、それは真実にはほど遠い。空港の公共テレビに集った群衆は、世界貿易センタービルの崩壊を見て喝采をあげたという。どうにもやりきれない思いになる。
これまで世界を支えてきた古い規範が通用しない恐怖の時代が訪れつつある。われわれは、理性をもった人間として、「人類は根本的に平等である」という大前提に立ち、道義的な対応を確立する必要がある。それには、何よりも先に、今回の大量虐殺を無条件に糾弾しなくてはならない。虐殺を正当化するような原因や理由を探す必要は一切ない。その上で状況分析をはじめよう。「テロリストの遺伝子」など存在しない。テロリストたちも、ごく普通の人間として生まれてきたはずだ。だが、何かに苦しめられ、彼らは悪魔へと変貌してしまった。
その苦しみを理解しない限り、今回の惨劇は、やがて21世紀を「テロの世紀」と呼ばせることになる多くの悲劇の第一番目となるだろう。現在、テロとの戦いにはおそらく何十億ドルもがつぎ込まれている。しかし、少数のテロリストがナイフだけを武器に何をしたかを見れば、それが全く無意味だったことがわかる。人類が生き残る確率をできるだけ高くするためには、テロリズムの根源にあるものを見出し、そこに立ち向かって行くしかないのだ。
自爆テロリストを金で雇うことや養成することなどできない。テロリストを育てる土壌は、難民キャンプのような、文明から見放され人間が屑のように捨てられていく場所にあるのだ。超大国は、彼らの窮状に対して関心を示さないばかりか、抑圧的でさえあった。その政治姿勢への深い憎しみが、ついに「暗黒の火曜日」の最悪の行為を招き寄せてしまったのだ。だが、「超大国への復讐」に満足感を覚えるのは、愚かで残酷なことだ。
マンハッタンでの惨劇から何を学びとればよいのか。もし、米国は軍事力を示すべきだという教訓しか得られないとすれば、人類の未来は限りなく暗い。軍事報復の準備は着々と進んでいる。だが、何のために、だれを攻撃するのか。アフガニスタンの人々の死体をいくら積み上げても、平和は訪れないし、さらなるテロがおこる可能性も減りはしない。もちろんビンラディンと彼の組織は法の下で裁かれねばならないが、無差別の報復攻撃を行なっても、果てしない殺戮の連鎖を生むだけである。
つきつめれば、米国が安全を確保する道は、世界の人々、殊に米国が虐げてきた人々との関係を再構築することにしかない。米国には、市民の生命と自由を尊重する偉大な国家として、世界中の人々を「人間らしく」扱う義務があるのだ。他方、西欧におけるイスラム共同体も、その閉鎖性を省みる必要がある。イスラム教徒としての自己を捨てる必要はない。しかし、米国の政策がどうあれ、一般のアメリカ人がテロの標的になってもかまわないと思うようなイスラム共同体のメンバーには、多元的な社会に暮らす資格はないのだ。
ブッシュ氏の「間違えないでほしい」という言葉をそのまま返そう。ただ、真の間違いとは、恐怖と怒りにかられ、すでに窮状にあるアフガニスタンの人々をより劣悪な状況へと追いやることであろう。今こそ何十億年にわたる進化に敬意を表し、頭脳と理性を尊重しようではないか。さもなくば人類という種が生き残る保証はない。