水素を物理吸着させた希ガス固体表面における電子遷移誘起脱離

自然科学研究科 物理学専攻 博士前期課程 荒川研究室
羽山 彰

1. はじめに


固体中や表面に電子的励起状態を生成すると,その緩和過程の一つとしてイオンや中性粒子等の脱離が起こることがある.この現象は電子遷移誘起脱離 (Desorption Induced by Electronic Transitions: DIET) と呼ばれ,その脱離機構の解明とともに励起緩和の動的過程を観察する手段として研究が進められている.

 希ガス固体での準安定中性粒子のDIETでは,Excimer Dissociation(ED)とCavity Ejection(CE)という二種の基本的な脱離機構があることが知られている[1,2].ED機構は,固体中の分子状励起子が緩和,解離して粒子が脱離する,というものであり,固体のNe,Ar,Kr,Xeのいずれでも起こる.CE機構は原子状励起子の膨張した電子軌道と周囲の基底状態の原子とが反発相互作用をして粒子が脱離する,というものであり,電子親和力が負の固体Ne,Ar(それぞれ,-1.4eV,-0.4eV)では起こるが,電子親和力が正の固体Kr,Xe(それぞれ,0.3eV,0.5eV)では起こらない.

 最近の希ガス固体での準安定粒子のDIETの研究の中で,10-8Pa程度の超高真空中であっても数分程度の間に脱離粒子の運動エネルギー分布が変化したり,満足のできる再現性が得られないなどの問題点がでてきた.これは,超高真空中の残留ガスの試料表面への吸着が脱離の過程に影響を及ぼすためと考えられる.国信らは,Kr固体表面に超高真空中の不純物の主成分であるH2を極微量吸着させると,脱離準安定粒子の運動エネルギー分布が劇的に変化し,かつ,脱離収率が数十倍に増加することを報告した [3].

 本研究ではH2を希ガス固体に吸着させ,そこから脱離する準安定中性粒子の飛行時間分布を測定し,吸着したH2の及ぼす影響,さらに希ガスとH2の混合系におけるDIETでの電子的励起過程とその緩和過程について検討した.


2. 実験

実験装置の概略図をFig. 1に示す.液体ヘリウムクライオスタットによって6K以下に冷却した銅の単結晶(試料凝縮面は(100)面)と,ヘリウムガスフロー型クライオスタットによって約30Kまで冷却したタンタル板または銅板に,希ガスを気相から凝縮させて試料を生成した.試料の膜厚はいずれの実験でも下地の影響が現れないように約300原子層以上とした.電子銃の第1グリッド電極の電位をパルス的に変調して幅10μs,周期2msのパルス化した電子ビーム(エネルギー200eVのときにピーク電流が約10μA)を試料に照射した.電子衝撃によってNe,Ar,Kr,Xeの固体表面から脱離した準安定粒子を口径75mmの二次電子増倍板(MCP: Micro Channel   Plate)と,電子増倍管(EMT: Electron Multiplier Tube)で検出し,希ガス固体表面から脱離する準安定粒子の飛行時間を測定した.正のイオンは検出器の前にある網状電極に阻止電位(30〜150V)を与えて、検出器に入らないようにしている。試料からMCPとEMTまでの飛行距離はそれぞれ200±5,236±5mmである.真空容器内の到達圧力は2×10-8Pa である.
 


3. 結果と考察

3.1 試料温度約30Kの場合
3.1.1 Ar

温度28Kにおいて,Ar固体を生成してから4分後に測定した脱離準安定粒子の飛行時間分布をFig. 2(a)に示す.Figure 2(b)は,その後,6.6×10-5PaのH2雰囲気に85分間さらしたときのAr固体表面から脱離する粒子の飛行時間分布である.飛行時間が0の鋭いピークは試料表面からの発光によるものである.(a)ではtf=160μs(ピークA),560μs(ピークB)にピークがみられ,(b)ではさらに210μs (ピークC)と,20μs(ピークD)にもピークがみられる.また,560μs(ピークB)にあったピークが470μs (ピークB')に移動している.
ピークA(Ek(Ar*)=430meV,Ek(H2*)=46meV)は,Ar* がEDによって脱離したもの,あるいは,H2*がVibrational Energy Exchange[4,5],あるいはCEにより脱離したものと考えられるが,(a)と(b)でピークの位置と強度にあまり変化がないことから殆どがAr*と考えることができる.ピークB(Ek(Ar*)=35〜55meV)は,Ar*がCEによって脱離したものである.(a)と(b)でピークの位置が移動しているが,これは,H2をAr固体表面に吸着させたことで,Ar固体表面の電子親和力がより負の方向へ変化したため,CEによって脱離するAr*の運動エネルギーが増加したものと考えられる.
ピークC(Ek(H2*)=13meV)と,ピークD(Ek(H*)=700meV)は,運動エネルギーの大きさから,それぞれ,Vibrational Energy Exchange[4,5]あるいはCEによって脱離したH2*と,励起状態あるいはイオン化したH2が解離して生成されたH*と阻止電極で追い返せなかったH+と考えられる.

3.1.2 Kr

温度28KでKr固体を生成してから5分後に測定した脱離準安定粒子の飛行時間分布をFig. 3(a)に示す.Figure 3(b)は,その後,1.3×10-4PaのH2雰囲気に80分間さらしたあとに得られた飛行時間分布である.(a)では,tf=110μs(ピークC),300μs(ピークA)にピークがみられ,(b)では,さらに500μs(ピークB)と26μs(ピークD)にもピークがみられた.

ピークA(Ek(Kr*)=200meV)は,以前の実験結果でのEDによるKr*の運動エネルギー[6]に一致している.さらに,脱離収率が増加したことについては,H2がKr固体表面に吸着したことによりKr固体表面の電子親和力が正から負に変化し,CEによりKr2*が脱離した後,Kr2*が解離したと考えている.ピークB(Ek(Kr*)=70meV)については,H2を導入した(b)のときのみ観測されている.これは,H2がKr固体表面に吸着したことで,Kr固体表面の電子親和力が正から負に変化し,CEによるKr*の脱離が起こるようになったためと考えることができる.

 ピークC(Ek(H2*)=34meV)とピークD(Ek(H*)=700meV)については,Arの場合と同様にそれぞれ,H2*とH*とH+が脱離していると考えられる.ピークCが(a)においても観測されているのは,この時点ですでにH2がかなりKr固体表面に吸着していることを示している.

3.1.3 Xe

Xeの場合,H2を吸着させることによって,脱離収率(大部分がH2*)は全体で30倍に増加したが,Krでみられたような,H2の吸着によって引き起こされると予想されるCEによるXe*の脱離は検出できなかった.この原因として,Xeの電子親和力が非常に大きいので,本実験でのH2吸着量では表面の電子親和力を正から負に変化させるには充分でなかったため,あるいは,Xe*に対する検出器の感度が低いために,実際には脱離しているはずのXe*の信号がH2*の信号に埋もれたためと考えている.

3.1.4 脱離収率のH2露出量依存性


Fig. 4は,約30KのAr,Kr,Xe固体表面をH2雰囲気 (H2分圧はそれぞれの試料で5×10-5Pa,2×10-5Pa,3×10-5Pa) にさらしたときに電子衝撃によって脱離する全ての準安定粒子の脱離収率の時間変化である.縦軸はH2を導入するまえの脱離収率で規格化してあり,横軸は水素分圧×露出時間である.これをみると,準安定脱離粒子の収率は,H2の吸着によって,Kr,Xeでは,1桁以上増加したが,Arではわずかに増加しただけであった.希ガス粒子の脱離については,電子親和力が正であるKr,Xeでは,H2が希ガス固体表面に吸着することによって,固体表面の電子親和力が正から負に変化し,Kr*,Kr2*,Xe2*のCE脱離が起こるようになったためと考えることができる.また,H2の脱離については,H2の吸着量に依存していると考えられる.H. Abeら[7]によると,約30KではKr,XeにはH2は吸着するが,Arには殆ど吸着しない,そのため,本実験ではArではKr,Xeの場合と比較してH2*,H*の脱離が少なくなったと考えている.

3.2 試料温度6K以下の場合

試料温度が6K以下のときに,3.1と同様の実験をおこなった.準安定粒子の脱離収率はKrとXeにおいて1.5倍から数倍に増加したがNeとArでは逆に減少した.また,Ar,Kr,XeでH*と考えられる粒子の脱離も観測された.

4. まとめ

希ガス固体のDIETにおいて表面に吸着した水素の影響は,試料温度約30Kの場合,以下のようにまとめられる.
Ar : CEで脱離するAr*の運動エネルギーが増加し,H2*,H*,H+の脱離が観測された
Kr,Xe: Krでは,表面の電子親和力が正から負に変化することによって,CEによるKr*とKr2*の脱離がみられたが,Xeではみられなかった.また,両方でH*,H+の脱離が観測され、さらにH2*の脱離収率が増加した
上の結果は電子親和力の変化やH2の吸着量によって,説明することができる.しかし,試料温度6K以下での実験結果は現段階では充分に説明することはできない.今後は,水素原子または水素分子と表面の希ガスとの電子的な相互作用や水素と希ガスの構造について,さらに研究を進めていく必要がある.


[参考文献]
[1] T. Kloiber, and G. Zimmerer, Radiat. Eff. Def. Solids. 109 (1989) 219.
[2] S. T. Cui, R. E. Johnson, C. T. Reimann, and J. W. Boring, Phys. Rev. B39 (1989) 12345.
[3] T. Kuninobu, A. Hayama, T. Hirayama, and I. Arakawa: Surf. Sci., 390 (1997) 272.
[4] H. Shi, P. Cloutier, and L. Sanche, Phys. Rev. B52 (1995) 5385.
[5] H. Shi, P. Cloutier, J. Gamache, and L. Sanche, Phys. Rev. B53 (1996) 13830.
[6] I. Arakawa, M. Takahashi, and K. Takeuchi, J. Vac. Sci. Technol. A7 (1989) 2090.
[7] H. Abe and W. Schulze, Chem. Phys. 41 (1979) 257.