リサイクル概念と「縁起」について

                        法学科4年 内田 佳奈子 

1.はじめに

「自分自身に十分な背景を持って初めて、人に物事を教える事が出来る。又、人に教える事によって、より深く物事を理解する事が出来る。」

 これは、私が高校の恩師から言われた言葉である。私は教職課程を履修していた為、昨年の9月30日から10月11日にかけての約2週間、母校の高校で、教育実習を行った。私が担当した科目は、倫理と世界史である。どちらの科目も高校時代から大変興味のある科目であった為、担当する事になった時は嬉しさもあったが、その反面、不安な部分もあった。どちらの科目も大学で専門的に勉強した科目ではないからである。倫理は仏教、世界史は第1次世界大戦後のヨーロッパが授業の範囲であった。何か法律関係の事例で授業内容に活かせるものはないだろうか?私は様々な参考文献を調べながら行政法とつながりがある部分を探し出そうとしていた。

そこで、教材研究をしていた時、ある本と出会った。「インドの思想」(日本放送出版協会)である。この本は、インドの人々の風習や伝統、神話など生活全体が描かれていた。なかでも仏教については詳しく解説されており、大変参考になった。その中で、「縁起」という言葉と出会った。実はこの言葉は、行政法ゼミで学んだ事と深く関係があった。それは、私が3年生の時に判例研究をし、ゼミ論文にも書かせて頂いた「廃掃法にいう不要物の意義」に出てくるリサイクル概念である。この判例はおからが産業廃棄物にあたるかが争われた事件である。私は、おからが産業廃棄物にあたるなんてユニークだと感じたのがこの判例に取り組んだ動機であったが、いざ勉強してみると深刻で大変難しい内容であった。

 このおからの判例との出会いが私を大きく変えてくれたような気がする。それは、「本物を得る為の姿勢」である。確かに、判例研究は大変だったが、努力をしなければより良い結果は得られない。何事も難しいからといって途中で諦めてしまっては、その程度の知識しか得る事は出来ない。それは満足度も同じである。努力に限界はない。何事も精一杯取り組む事が大切なのである。こうした姿勢は常岡ゼミで学んだからこそ得られたものであると私は思っている。

 私は今回のレポートでは、リサイクル概念と「縁起」について取り上げたいと思う。私は、仏教徒ではない。宗教を特に信仰している訳でもない。だが、リサイクル概念の根底にある仏教の「縁起」について考える事により、現代の環境問題の一つである廃棄物問題について考えていきたいのだ。リサイクルと廃棄物問題は表裏一体の問題である。このレポートには、法律学的な部分と、哲学的な部分がある。両者は別の学問だが、全くの無関係なものであるとは思わない。私は倫理とは、人間の生活のすべての根底であると感じた。法律も人間社会の約束事なのであるから、その根底には、やはり、倫理的な部分があるだろう。法律は人間がより良く生活出来るように考え出されたものである。そして、仏教も、大昔の偉人である釈迦が考え出した、この世をどう生きるかという考え方の一つなのであるから。

 

2.「縁起」とは何か?

 まず初めに、縁起について述べようと思う。「縁起」とは、仏教用語であり、「えんぎ」と読む。つまり、仏教の創始者である釈迦の教えの1つなのである。これは、俗にいう「縁起が良い」や「縁起を担ぐ」などという言葉の語源であるが、意味は違う。「縁起」は、「すべてのものが、それ自体で孤立して存在する事はなく、他の様々なものを原因や結果として起こる事」という意味である。一言でいうと、「すべてのものはつながっている」という事である。物事は一つ一つばらばらに存在している訳ではないのだ。

 ところで、この「縁起」の考え方に至るには、「四法印」について知らなければならない。これは、「しほういん」と読む。それぞれの漢字の意味を考えてみよう。四つの法の印と書いてある。ここでの法とは、「真理」という意味である。法はサンスクリット語(梵語)で「ダルマ」と読む。「万物の存在や、その存在を貫く法則を表す教え」の意味である。その法が四つの形に表されているという事である。つまり「四法印」とは、この世とはどういうものなのか、その真実の姿そのものを表したものなのである。

 この「四法印」の前提として「四苦八苦」がある。「しくはっく」と読む。これには、人間がこの世に生まれたからには、避けて通る事が出来ない八つの苦しみが表されている。まず、「生、老、病、死」である。「しょう、ろう、びょう、し」と読む。これを「四苦」という。誰でもこの世に生を受け生まれたら、いずれは年老いて、病にかかり、死んでいく。例外はありえない。釈迦は、もともとはゴータマ=シッダルタという名の、カピラ国シャカ族の王子だった。恵まれた生活をしていたが、ある時、城の四つの門から出た時に様々な人の姿を見て、「四苦」を悟ったのである。これを「四門出遊」(しもんしゅつゆう)という。後に釈迦は、この「四苦」に更に四つの苦しみを加えて「四苦八苦」とした。その四つとは、「愛別離苦」(あいべつりく)愛する者と別れる苦しみ、「怨憎会苦」(おんぞうえく)怨み憎む者と出会う苦しみ、「求不得苦」(ぐふとくく)求めても得る事が出来ない苦しみ、そしてその結果、心身の乱れからくる苦しみとして「ゴウンジョウク」が起こる。

 この世が苦しみばかりに満ちていると考えるなんて、何だか暗い考え方だとマイナスに感じてしまうかもしれない。だが、なにも釈迦はこの世に失望して出家したのではない。むしろ前向きに、人生における苦の解決の道を探す為に旅立ったのである。その結果、この世とはどういうものなのかを表した「四法印」、又それを踏まえた上で、具体的にどう実践していくのかの方法論「四諦」(したい)が生み出されたのである。

 それでは、「四法印」について具体的に見ていきたいと思う。まず、「一切皆苦」である。「いっさいかいく」と読む。意味は「人生は思い通りにならず、様々な苦しみに満ちているという真理」である。これが苦の根底にあるのである。例えば、腕が痛いとする。痛いという状態が苦しいのではない。痛いという状態をどうする事も出来ない事が辛いのである。四苦八苦が良い例である。いずれも自分自身ではどうにも解決出来ない問題である。その事で悩んでいるのに、自分で解決する事が出来ない事が苦しいのである。

 では、なぜこの世は一切皆苦なのであろうか。それは、次のように考える事が出来ないからである。「諸行無常」、「諸法無我」の二つである。まず、「諸行無常」は「しょぎょうむじょう」と読む。これは、「すべてのものは常に変化してとどまる事がないという真理」という意味である。この世に常なものなどない。常でないのに常でありたいと思う事から苦しみが生まれてくる。次に、「諸法無我」についてである。これは、「しょほうむが」と読み、「すべてのものは他のものを縁として成り立ち、それ自体の固定的な本体を持たないという真理」という意味である。この意味に登場する「縁」とは、「縁起」と同じ意味である。物事は一つ一つばらばらに存在しているのではない。すべてのものはそれぞれ関係しあって存在しているのである。一つ一つばらばらだと思っているから苦しいのである。

 このように、この世に常なものなどない、すべてはつながっているのだと考える事が出来れば、「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)に至る事が出来る。「涅槃」とはサンスクリット語で、「ニルバーナ」といって、「炎を吹き消す」という意味である。心の中の欲望の炎を消滅させればそこから起こる苦しみも解消され、静かな心の安らぎが得られるという事なのである。

 

3.「縁起」とリサイクル概念の共通点

 さて、「四法印」の中に、「諸法無我」の考え方が出てきた。これは、「縁起」から来る考え方で、「すべてのものはつながっている」といった意味であった。これがリサイクル概念とどう関係があるのであろうか?

 例えば、ペットボトルについて考えてみよう。私達は外出した時に、よく500mlのペットボトルを買う。もしかしたらあまり買わない人もいるかもしれない。逆に、よく購入する方で、自宅でもっと大きいサイズのものを利用している人もいるかもしれない。この持ち運びや保存に便利なペットボトルは、当然のことながら「ペットボトル」として存在している。他のなにものでもない。

 では、ペットボトルは、それ単独で存在しているのであろうか?他のなにかと関係していないのであろうか?もし、「縁起」の考え方に従うとすれば、ペットボトルもそれだけで個別的に存在している訳ではないという事になる。一体何と関係しているというのであろうか?

 ペットボトルの原材料は何か?石油である。その石油は何から作られているのであろうか?原油である。原油の元の形は何であるのか?それは、恐らく太古の昔に地球上に存在していた生物「恐竜」の死骸から出来たものであると考えられている。ではその恐竜はどこから登場したのか?地球に出来た海から誕生した微生物が進化をとげ、陸上に上がって生活をし始めた姿である。「ではその前は?」と考えていくと際限なく疑問が出てきて、その答えは、昔へとさかのぼっていく。もうお分かりであろう。普段何気なく飲んでいるペットボトルも、ただの「ペットボトル」と考えればそれまでだが、視点を変えてみれば、こんなにも沢山のものと関係して存在しているものなのである。

 さて、今まではペットボトルから「それ以前の姿」を見てきた。言わば「過去」を見てきたのである。現在の姿がペットボトルだとする。ここで、物事のつながりは切れてしまうのであろうか?もしつながるのだとすれば、「ゴミ」としての最後だけなのであろうか?そんなことはない。現在は過去を原因として存在し、現在は過去の結果である。そして現在を原因として未来は存在し、未来は現在の結果である。このように物事は限りなく続いていく。だとすれば、ペットボトルに過去が存在するのであれば、当然未来もあるのである。それでは、ペットボトルの未来とは、何なのであろうか?

 数年前、ある会社の「フリース」という商品が話題になった。フリースにもウールやポリエステルなど様々な素材を原料としているものがある。ペットボトルとフリースは一見、何の関係もなさそうである。ところがなんと使用済みのペットボトルを原料としているフリースもあったのである。かつて、飲み物の入れ物だったペットボトルは、衣服のフリースへと姿を変えて存在していたのである。

 仮に恐竜をすべての始まりとしてみると、恐竜→原油→石油→ペットボトル→フリースと実に様々な形に変化し、物事はつながっている。やはり、物事は常にそのままの形で存在しているのではなく、形を変え、他のものと関連しあって存在していくものなのであろう。

 ところで、ペットボトルの未来は、果たしてフリースだけであったのであろうか?もしかしたら他のものに加工されて新たに利用されているかもしれない。それはそれでよい。だが、もし他に使い道を見出せなかったらどうなっていたであろうか?ゴミとなっていたであろう。もし、ゴミとなれば、ペットボトルの未来はそこで止まってしまう。又、どんどんゴミはたまっていき、環境問題へと発展していってしまう。

 それを食い止めるのが、リサイクルなのである。不要物とされ、ゴミとなってしまう所をなんとかして再生利用が出来るよう良い方法を考え出す。それは、この世に存在するものを生かす考え方である。例え姿を変えてもますます進化をとげていく。まさにそれは、「縁起」と重なる部分がある。ペットボトルは、今は生き物ではない。だが、かつては、恐竜などの生物だった時代もあったのである。生物が自然の流れと無関係であるという事はない。再生利用する事によって今まで存在してきたものの存在をつないでいく事が大切なのである。そして、その事によって、少しでも限られた貴重な地球資源を有効に使う事にもつながっていくのである。私には、この「縁起」の考え方は、リサイクル概念の根底に存在しているように思われる。

 

4.「おからが産業廃棄物にあたるか?」の判例について

 今回、私がこの「縁起」とリサイクル概念の関係について比較するに至ったきっかけは、やはり、おからの判例の存在である。本当におからが産業廃棄物にあたるのであろうか?結論から言えばあたるのである。この事件について触れる前に、少しおからについて説明しておこうと思う。

 おからとは、豆腐の製造の際、大豆をすり砕いて作った豆汁を布漉しして豆乳を搾ったときに残る固形状の物質である。水分含有量が約85パーセントと実に多く、非常に腐敗しやすい為、早急に処理しなければならないが、その一方で、大豆使用量の約1.4倍ものおからができるので、なかなか処理については難しい点がある。おからは、お惣菜やおからケーキなどとして再生利用されている。このおからがなぜ産業廃棄物にあたるのであろうか?

 この判例は、最高裁平成11年3月10日第2小法廷決定である。この事件の被告人金武司は、従来から、大阪府知事による産業廃棄物の収集、運搬及び中間処理業の許可を得て、大阪府内に工場を設け、「おから」などを収集乾燥させて飼料を製造する事業を営んできた。その後、岡山県内に工場を新設し、京都府及び兵庫県内の豆腐製造業者から処理料金を徴収して「おから」の処理委託を受け、同工場において乾燥処理して飼料及び肥料を製造した。ところが、被告人は、大阪府知事からは産業廃棄物処理業の許可を受けていたのにも関わらず、他の地域からは許可を受けていなかったのである。もっとも、これらの肥料や飼料は、その品質に問題があった事などから、ほとんど売却出来ず、多くは特定の肥料業者に無償で引き取られていたという。

 この事業について、被告人は、岡山、京都、兵庫の各県知事及び京都市長の許可を得ておらず、得に岡山県からは、周辺住民による悪臭への苦情を契機として、「おから」の乾燥処理には産業廃棄物処理業の許可が必要である旨の通知を受けていた。

 この為、無許可で産業廃棄物の収集、運搬及び処理を業として行ったとして、廃棄物処理法及び清掃に関する法律(廃掃法)14条1項及び4項違反として起訴されたのがこの事件である。

 産業廃棄物の収集、運搬及び処理業を業として行おうとする者は除外事由のない限り、地域を管轄する都道府県知事(保健所を設置する市にあたっては市長8条1項)の許可を受けなければならず(廃掃法14条1項、4項)、無許可での収集、運搬あるいは処分は刑罰の対象となる。(同法25条1項)この罰則は、5年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金と定められており、かなり厳しいものである。

 簡単にまとめてみよう。廃掃法2条4項1項とそれを受けた施行令2条4号によれば、食品製造業において原料として使用した植物に係わる固形状の不要物は産業廃棄物にあたる。また、廃掃法には、廃棄物に対して、通達による行政解釈がある。これは法令に疑義がある場合に行政部が定める統一的解釈である。それによれば、産業廃棄物とは、「占有者が自ら使用し又は他人に有償で売却する事ができないために不要になったものをいい、これらに該当するか否かは、占有者の意思、その性状等を総合的に勘案すべき」とされている。つまり、産業廃棄物の持ち主がそれを有価物(価値あるもの)と思えば産業廃棄物にあたらず、不要物だと思えば産業廃棄物となる。

 結局、この事件の被告人は、産業廃棄物処理業の許可を受けていなかったばかりに、訴えられる事となってしまった。だが、この人物は、悪事をしようとした訳ではない。おからを再生利用しようとしていたのである。もちろん、事業を行っている地域から許可をきちんと受けていなかった事には重大な問題がある。近年、産業廃棄物の原野への不法投棄などの悪質な事件が多発している。それを防止する為に厳しい罰則が設けられているのであるから、正当に事業を営もうとするのであるのなら、法律に違反しないように行動すべきである。この人物は、おからのリサイクルという素晴らしい試みを自らの不手際で潰してしまったのである。もし、法律に従って行動していたら、この人物の行為の結果は犯罪行為ではなく、良い結果につながっていたかもしれない。

 

5.まとめ

 最近、NHKの番組で、埼玉県の久喜市に、生ゴミを堆肥化する事により有機肥料にする施設が建設された事が紹介された。国内最大規模のプラントで、全国に先駆けて、久喜市が行った試みである。生ゴミの回収は今年の1月中旬からスタートし、作業は順調に進んでいるそうだ。区分けもきちんとしている。例えば、ソースは塩分が、マヨネーズは油分が含まれている為、生ゴミには出せない。有機肥料を作る為に徹底して生ゴミの収集を行っているのである。

 これは大変良い試みであると思う。生ゴミといっても農薬を使った野菜の皮や、無農薬の野菜の端など、様々なものが含まれているのであるから完全な有機肥料という訳にもいかないだろうが、この大地で育ち、野菜として収穫され、人間が食べた野菜が、有機肥料として再利用され、土に帰っていくのは、実に立派なリサイクルである。

 「物事はつながっている。」こう考えるのは、もともとは東アジアの思想である。私は今回、「縁起」とリサイクル概念の関係についてのレポートを通して、やはり、リサイクルの根底には、この「縁起」の考え方があると感じた。人間もこの地球上の生物である。自然と共に生きている。今存在するすべてのものは、過去からつながっている。生命あるものを未来へとつなげて行く為にも、地球資源を大切にしていかなくてはならない。そして、産業廃棄物問題について規定する廃棄物処理法をはじめとする法律も、廃棄物となるべきものだけをゴミとし、再生利用の可能性のあるものはリサイクルする事が出来るような社会と技術を作り、支援する形のものであって欲しい。法律は、いつの時代でも、一人一人の人間が安心して生活する事が出来るように作られた社会の決まりであるべきなのであるから。

 最後になりましたが、私に、このレポートを執筆する機会を与えて下さった常岡孝好教授に感謝の気持ちを申し上げたいと思います。