諏訪春雄通信 17
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
前回は特別研究会「千と千尋を読む」の私の発表原稿のレジュメUまでを掲載しました。今回はもう一回この特別研究会の報告をさせていただき、後に、当日お見えになれなかった方々のために、レジュメのV以下を添えます。
12月1日の特別研究会は、会員、社会人、学生がつめかけ、最近では稀にみる盛会でした。入口がいくつもあって、受付けでも実数の把握はしていませんが、あの中央大教室がほぼ一杯であったところから判断して、300人近くは入ってくださったのではないでしょうか。
私をふくめて4人の講師、それぞれに興味ぶかい発表でした。小松下和彦さんの妖怪論や神隠しの理論は宮崎監督も勉強していて、今回の映画にも構想の理論的枠組みとして取れいれられているふしがあります。山本政人さんは発達心理学の専門家ですが、小説も書いている幅の広い方です。前田監督は私たちのプロジェクトの運営委員として、創立当初から活動をささえてきた方です。主として記録映画を撮りつづけられ、今年の10月に永年の日韓文化交流の功績が評価され、韓国文化勲章を受章されました。日本人としては最初だそうです。
最後の座談会でも多数の質問が会場から寄せられ、海の中道、魔女の姉妹、千尋の螺旋的発達、隠れ里、顔なし、児童へのメッセージ、遺伝子やハイテクが新しい妖怪となった現代、照葉樹林文化などなど、興味ぶかい話題をほりさげることができました。
例によって、目白の揚子江でおこなった2次会には講師以外の飛び入りもあって盛り上がりました。
いずれ全記録を一冊にまとめますので、その節はよろしくお願いします。
「千と千尋の神隠し」の神々たち
V アニミズムの神々と妖怪
「千と千尋の神隠し」に登場する神々はいずれも奇怪な容貌をしており、行動様式もグロテスクである。彼らをこれまで神とよんできたが、彼らは人間の祈願対象となるせまい意味での神なのかそれとも妖怪とよぶべき存在なのか。この問題についてここで検討してみる。
妖怪については、柳田國男の、妖怪とは〈信仰が失われ、零落した神々のすがた〉(『民俗学辞典』東京堂)という著名な定義がある。この柳田の定義によれば、この映画に登場してくる神々はまさにおちぶれた神々であって妖怪とよばれるべき存在である。
しかし、この柳田の定義については、人間→妖怪、動植物→妖怪、妖怪→神など、その他の可能性をすべて否定する「一系的妖怪進化説」としてつよく否定する小松和彦氏の論(『憑霊信仰論』ありな書房)などを生んだ。氏は妖怪を、
人びとが社や祠を建てて祭祀する「神霊」のカテゴリーから排除された、どちらかといえば否定的なイメージを付与された霊的存在・現象である。(『妖怪学新考』小学館)
と定義されている。この小松氏の定義にしたがっても、この映画に登場するキャラクターのほとんどは妖怪である。わずかに、春日大社の紙の面からイメージされた春日さま、翁の面の顔に蛇の胴体をもつ河の神などが崇拝対象としての狭義の神の範疇にはいる存在である。
私自身は、妖怪を人間に悪意をもつ広義の神とかんがえ、「人間以外の存在」、「生」という二つの視点から妖怪を説明している(岩波新書『日本の幽霊』、「日本の幽霊」『別冊太陽 幽霊の正体』平凡社、その他の論文)。その要点をくりかえせば次のようになる。
妖怪は人間をとりまく環境がうみだした自然神である。その意味では自然物に霊的存在をみとめ神とあがめるアニミズムの産物である。じつは、すでに釜爺や頭の例でみたように、人間もその能力の一部が肥大化されて環境とみなされ、信仰対象となり神とあがめられたり、祈願の対象からはずされて妖怪となることがあるが、それは完全人格の人間が信仰される人格神ではなく、アニミズム段階の神なのである。また、妖怪は生者である。死者としての妖怪もまったく存在しないわけではないが、それは妖怪の二次的変化であって、本質ではない。
民俗社会の妖怪について、私は「人間に悪意をもつ神」と規定してきたが、それでは説明できない事例が多くあることを見のがしていた。たとえば、日本全国にひろく分布している異類婚姻譚の「鶴女房」の鶴である。若者に命をたすけられた鶴が女房になって機を織って若者に恩返しをする話である。結局、正体を見られた女はもとの鶴となって若者のもとを去ってゆく。蛇女房、狐女房、鯉女房など、この種の話は数が多く、主人公の動物は妖怪とかんがえるよりほかはないが、しかし、この妖怪は人間にたいしてむしろ好意をもっている。
このような事例をふくめて、現在、私は狭義の神と妖怪をつぎのようにかんがえている。
神……人間の方から接触する霊的存在
妖怪…自分の方から人間に接触してくる下級の霊的存在
狭義の神は人間の祈願の対象である。祈願とは弱い存在である人間が、霊的存在である神と接触して、自己の弱点をカバーしようとする行為である。神のほうから人間に接触してくる稀な例がないわけではないが、その人間はシャーマンその他、神にえらばれた特殊な人間や事象にかぎられる。それにたいし、妖怪は弱い人間にたいして自分の方から接触してくる。
このように妖怪を定義したときに、千尋は自分から湯屋にはいりこんだのであって、湯屋の側から千尋に接触したわけではないのだから、湯屋の神々は妖怪ではなく狭義の神なのかという疑問が当然おこってくる。しかし、私は、つぎの三つの理由によって、湯屋の神々は妖怪であると断定する。
1.千尋は自分のほうから湯屋の神々に接触したのではなく湯屋の側の働きかけでひきよせられたとみられるふしがある。たとえばハクの役割など。
2.千尋は湯屋の神々を祈願の対象にはしていない。
3.湯屋の神々は人間の本質をあばきだしている。
じつは、私が「千と千尋の神隠し」に登場する神々の基本的性格を妖怪とかんがえるのは、主としてこの3の理由による。
W 妖怪論の視点から「千と千尋の神隠し」を読むと―人間の自分探し―
私は、神と妖怪のそれぞれの機能をつぎのように規定する。「神は人間の本質を補完し、妖怪は人間の本質をあばく」と。
人間は弱い存在である。人間が神に祈願するのはその弱者である本質を神の完全さによって補完し、すこしでも神の完全さにちかづくためである。それにたいし、妖怪が人間に接触してくるのは、弱者としての人間の本質をあばきだすためである。人間は妖怪と接触することによって、己の弱さ、ずるさ、悲しさ、みにくさを自覚させられる。そしてときには、自己の強さ、賢明さ、美しさに気付かされ、可能性にめざめる。
「千と千尋の神隠し」の神々の行動に私たちは自分と自分をとりまく社会の姿をみてとっているのである。それは、この映画のキャラクターが神ではなく、妖怪だからである。
妖怪は人間の想像力の産物である。妖怪をつくりだしたことによって、人間は己の本質をうつしだす鏡をもつことができたのである。妖怪とのつきあいは、人間の自分さがしの旅である。
人間が己の本質を知りたいという謙虚な欲求をもつかぎり、妖怪は生息しつづけることができるし、人間が自分たちこそ宇宙の支配者であるという横暴な自信をもったとき妖怪は死にたえるであろう。
妖怪の跋扈する社会こそじつは健全なのである。