諏訪春雄通信 25


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 この通信は学習院大学計算機センターのパソコンをとおしてホームページにくみこんでいます。この一週間、学習院大学が入試を実施しており、その間、計算機センターが閉鎖されていたために通信をお送りすることができませんでした。2週間ぶりの通信です。

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。

 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。

 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、

 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。

 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。

 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、

  1. 水界訪問
  2. 水界の女性との結婚
  3. 水界の女性との結婚
  4. 水界よりの呪宝の将来
  5. 呪宝による水の支配
  6. 兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。

 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。

 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。

 すこし長くなりましたが、今回はこの辺で失礼します。


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