諏訪春雄通信 26


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、

  1. 周辺遊牧民との抗争・軋轢
  2. 商業を中心とした経済の発展
  3. 農民勢力の台頭
  4. 潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。

今回はこの辺で失礼します。


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