諏訪春雄通信 31


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 3月28日(木曜日)、日帰りで京都の国際日本文化研究センターの研究者会議に出席してきました。私はここ7年間連続して、この日文研の三つの研究プロジェクトに研究員として席をおいてきました。

 今回出席したのは、「怪異・異界・妖怪研究についての現状と展望」というプロジェクトの研究会です。かんたんにいえば妖怪研究です。代表研究員は日文研教授の小松和彦さんです。

 小松さんはこの通信でもたびたびお名前がでました。アジア文化研究プロジェクトの参加者の一人で、最近では、昨年12月1日の特別研究会「千と千尋の神隠しを読む」の講師にお招きしています。

 妖怪研究の第一人者であり、多くの著書を出して活躍しておられますので、ご存知の方も多いとおもいます。卓抜な妖怪論を展開しておられますが、2点、私の考えと異なるところがあります。

 1点は小松さんが幽霊を妖怪のなかにふくめることです。私は幽霊と妖怪は違うとかんがえています。2点めは日本の妖怪や幽霊の本質をきわめるためには、中国の妖怪や幽霊の研究が必須であるとかんがえる私にたいし、小松さんはその必要をあまり感じておられないことです。この2点めは、神話研究のばあいとまったく同様に、小松さん一人にかぎられない、今後の日本の妖怪研究の重要な課題です。

 しかし、日文研の研究会にでてほかの分野の研究者と交流することは、私にとっては他流試合であり、いつも大きな刺激をうけます。

 今回の研究会では、全国に分布している妖怪語彙と山形県の正善院所蔵の「於竹大日如来縁起絵巻」との二つのデーターベースの運用・紹介、そこから派生するさまざまな問題についての討議がありました。

 最先端のIT技術の展示をみせられて、帰京の新幹線のなかではいささか興奮気味でした。


 今回の通信は「采女(うねめ)」についてのべます。采女は通常つぎのように説明されます。

 後宮で主として天皇の身辺の雑役に奉仕した女性。采女は、各地の豪族がヤマト朝廷への服属の証(あかし)としてその姉妹・娘を貢進したのに起源したとみられ、和訓「うねめ」の語源は氏之女、畝女の転・略などの諸説がある。ヤマト朝廷の地域支配の拡大とともに、采女は六世紀に入ると制度化され、一種の伴(とも)として采女造および采女臣に統率・管掌された。(『日本歴史大事典』小学館)

 この説明の前半、「各地の豪族がヤマト朝廷への服属の証(あかし)としてその姉妹・娘を貢進した」という記述の内容をふかく解明したのが折口信夫の「神の嫁」の論でした。

 神の嫁とは、かんたんにいえば、巫女です。日本の伝統的な神祭りの中心にあって、神につかえ、神のことばを人々につたえる役割をはたしたのは女性であり、彼女たちは来臨する神の「嫁」であった、という考えです。

 女性の巫女を、折口はなぜ「神の嫁」とかんがえたのでしょうか。その理由はつぎの三点にしぼられます。

  1. 巫女は処女であった。
  2. 俗世間の男性を隔離して神と合体した。
  3. のちに巫女から遊女が誕生した。

 1.はそののち、真実の処女、離婚した女性、祭りの期間だけの処女、の三者をふくむというように資格を緩和しますが、いずれにしても神と巫女との聖婚をかんがえています。2.はシャーマニズムの憑霊型だけを想定した立論です。脱魂型は考慮していません。3.は、日本の遊女誕生の歴史からの発想です。遊女の源流には、もう一つ渡来人があったのですが、これについても考慮していません。

 折口の神の嫁論の初出は、大正11年の1月から5月まで、雑誌『白鳥』に連載した小説「神の嫁」でした。

 この神の嫁論の形成に大きな影響をあたえたのが、大正10年夏と12年夏の2度の沖縄訪問でした。この旅で折口は、彼の学説の重要な根幹をなした「まれびと」と神の嫁の構想のヒントを得たのでした。

 私は、平成6年(1994)に講談社の現代新書として『折口信夫を読み直す』を刊行しました。そこで、壮大な折口学説の体系の基盤にまれびと論があったことをあきらかにし、まれびと論のあやふやさをつくことによって、折口学説そのものを批判しました。

 折口のまれびと論は沖縄の来訪神儀礼からくみたてられました。私はその原型である中国大陸の来訪神儀礼の調査結果から折口のまれびと論の誤りを指摘したのでした。

 もうすこし柔かな書き様もあったかなと、いまにしておもいますが、当時の折口の権威は隔絶していました。私には、その権威に挑戦しないと、あたらしい芸能史の構築はできないという切実な思いがあったのです。

 まだ8年前にすぎませんが、私の書が出たことによって、折口学説にたいする熱病的な信仰はきえたといってよいとおもいます。すくなくとも沈静化しました。その結果、客観的に折口学説を検討する雰囲気が生まれたのです。

 私は『折口信夫を読み直す』で、まれびと論から発展した「翁と三番叟」「依代」「鎮魂」「常世・他界」の論は批判しましたが、もう一つの系列をなす「神の嫁」「水の女」「貴種流離」については、分量の関係もあって、まったくふれませんでした。

 いまだに信奉者が多く、日本民俗学の基本学説の一つになっている「神の嫁」論についてすこし検討してみます。

 神の嫁論の根底にもまれびと論があります。折口はまれびととしての神は具体的な人間の形をして出現するから、むかえる巫女とのあいだに聖婚が成立するという論理を展開しました。

 たしかに、始原の状態にもどる祭りの場で、祭りに参加した人々が解放されて性の自由を享受するという例は、一般的にみられますが、しかし、人間の形をとって来臨した神と人間が現実に性の交わりをするという例はみとめられません。

 憑霊型のシャーマニズムで神が人間の巫女の肉体にやどるという普遍的な宗教現象を根拠にして、受肉化した神と巫女が結婚するという信仰形態が現実に存在するというふうに論理を展開する折口の論にはあきらかに飛躍があります。

 神と人がまじわり、誕生した子が異常な能力をもち、偉大な氏族や王国の祖となる神話や伝承は数多く存在します。いわゆる神人通婚または神婚です。三輪王朝の祖先の誕生にまつわる三輪山伝説、安倍晴明誕生にからむ信田妻伝説などなどです。

 しかし、注意しなければならないことがすくなくとも2点あります。1点は、そのとき神は素性をかくして、人間としてふるまっていることです。神の素性があきらかになったときにその結婚は破局をむかえています。2点めは、神人通婚は伝承であって史実ではないということです。

 この2点めについてもうすこし説明をくわえます。折口の神の嫁論のヒントになったのは、沖縄旅行だと申しました。しかし、じつはもう一つ、重要な示唆をあたえた先行の論文がありました。師である柳田國男の「玉依姫考」(大正6年)です。

 玉依姫は「古事記」、「日本書紀」、「風土記」などの神婚伝承に登場してくる女性です。たとえば、海幸彦・山幸彦神話では、海神の娘でトヨタマビメの妹として登場し、姉ののこしたウガヤフキアエズを養育し、のちにウガヤフキアエズと結婚して神武天皇を生んでいます。「山城国風土記逸文」では川上からながれてきた雷神の変身である丹塗り矢で懐妊し、賀茂氏の祖を生んでいます。

 柳田は、玉依姫は神と結婚して神の子を生んだ神聖な巫女の開祖の伝承であり、巫女の霊力の由来を説明する、一種の宣伝の物語と解釈しました。しかし、その影響下に神の嫁論を構想した折口は、祭りでくりかえされた現実の習俗と理解したのです。私は柳田に軍配をあげます。

 おなじ民俗学の二大巨人ともいうべき存在でありながら、柳田学説は一戸建て住宅の集合であるのにたいし、折口学説はピラミッド型の建物です。一軒や二軒つぶされても、柳田学説は生きのびますが、折口学説は土台がくずれたら全体が崩壊します。その土台のまれびと論がいかがわしさを露呈したからには、そのうえに構築された一見壮大な折口学説も倒壊せざるをえません。

 ただ折口学説の建築に使用された材質に有効利用できるものは数多くあります。受肉化された来訪神の儀礼から芸能や演劇が生まれるという折口の発想自体は貴重です。通信28にご報告した「東アジア演劇形成過程の比較研究」という私のプロジェクトの基本にはこの発想があります。

 折口の神の嫁説は数々の誤りを世に流布させています。通信27で紹介した大嘗祭における新帝と采女との聖婚という学説はその最たるものです。その他、祭りや歌垣における参加者の性的解放を神と神の嫁の結合で説明し、後宮における采女の役割を性的奉仕に限定するなどです。

 ただ、ヤマト朝廷に各地の豪族が貢進した姉妹や娘は地方の高級巫女であり、巫女をたてまつることは地方の神を中央に服属させることであったという折口の神の嫁からみちびかれた学説は、前回の通信であつかったヒメ・ヒコ制の本質論を先取りしていました。

 ヒメ・ヒコ制の理論が深化した背景には、折口の神の嫁の学説がありました。采女はあきらかにヒメ・ヒコ制の産物です。

 今回はこの辺で失礼します。


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