諏訪春雄通信 33
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
今回は王権の問題と不即不離の関係にある「右回り・左回り」というテーマで話をします。
私は大學は新潟大學、大学院は東京大学と、二つの国文学科を出ていますが、これらの出身学科はいずれもなくなり、ほかの学科に吸収されてしまいました。私が最初に専任になった大学は学習院女子短期大学の国文学科ですが、この学科もなくなりました。
全国的にみても、国立の大学から国文学科はほとんど姿をけし、私立でも多くの大学で、再編成の波にのみこまれてしまっています。
こうした現象は、多年にわたる理系尊重、応用学優先という日本の現行の文教政策に原因していますが、国文学の側にもかなり大きな責任があります。
国文学の原型は、江戸時代の国学にもとめることができます。古代の文献を研究することによって、儒教や仏教の渡来する以前の日本人と日本文化の本質をあきらかにしようとしたのが国学でした。
儒教や仏教を排除するという、きわめて偏狭な国粋主義をかかげながらも、他方では、歴史、宗教、経済、政治、法制などの幅ひろい学問分野を包摂していました。
国学の主流は、明治になって東京帝国大学の文学部に和文学科としてくみこまれることになり、古文献のなかでも文学作品だけを研究対象とする、きわめて限定された学問に変質してしまったのです。
研究対象をかぎっただけではなく、さらに当時の帝大助教授芳賀矢一が留学したドイツの文献学を導入して骨格にすえたことにより、方法論的にも実証的文献学が主流になりました。
このような自己規制の歴史を、われわれ国文学関係者は反省すべきときにきているのではないでしょうか。国粋的偏狭さはもちろんゆるされることではありませんが、日本人と日本文化の本質を究明するという、国学の根本の精神はいまわれわれが継承すべき貴重な価値であろうとおもいます。
学問の細分化はそれ自体に意味があるのではなく、総合のための細分化であるという認識を私たちはもたなければなりません。
私は国文学者であり、比較民俗学者であり、浮世絵の研究者であり、芸能や宗教の研究もしています。一見雑然としたこれらの学問に関連はあるのか、核心のないディレッタントではないのかと疑問をもたれる方も多いとおもいます。
しかし、私自身の頭のなかではこれらの学問はすべてつながりをもち、それなりに整然とした体系をなしているのです。具体例でお話しましょう。
私のふるい友人に内藤昌さんというすぐれた建築学者で都市史の専門家がいます。私はこの内藤さんと共著で昭和47年に『江戸図屏風』という豪華本を毎日新聞社から出版しました。江戸をえがいた屏風や絵画、絵巻の類を集大成した本です。この共同作業で内藤さんから違う分野の研究方法をふかくまなんだことは、よい勉強になりました。
この内藤さんが江戸という都市の空間構成を「の」の字型つまり時計回りというふうにとらえています。
「江戸城を核にして、ちょうど「の」の字を書くように右渦巻き状の堀を発展させるのです……この都市計画は、きわめて特異なものです。日本はもとより、諸外国でもあまり例をみません。これによって幕府は、諸大名の妻子を江戸に住まわせ、一年おきに参勤交代する制度を安心して実施することができるからです」と説明しています(『江戸の町 巨大都市の誕生』草思社・1982年)。
内藤さんはこの認識を近世初頭の各種の地図から得ました。しかし、この視点で、私が『江戸図屏風』に収録した、寛永ごろの江戸の都市景観をえがいて著名な国立歴史民俗博物館所蔵六曲一双「江戸図屏風」をはじめとする各種の江戸図をみると、みごとに空間構成の本質をとらえていることがわかります。
事実として江戸が右回りの都市構成をとっていたから、それをえがいた絵画の空間構成も右回りになっているということになんの不思議もありません。
しかし、たとえば、天保7年(1836)に刊行をおわった斎藤幸雄ら父子編集、長谷川雪旦画の『江戸名所図会』の空間構成も江戸城からはじまる右回りの渦巻きになっている事実を、右回りの江戸をえがいたのだから当然であると説明がつくでしょうか。
同書は七巻の構成になっていて、一之巻の冒頭江戸城からはじまり、七之巻の船橋でおわるまで、名所を一カ所ずつとりあげて説明をしています。全体を一望におさめる大観ではなく個々に記述しているのですから、どのようにくみかえて構成することも編者の自由な判断力にまかされているはずです。にもかかわらず全体が右回りの渦として構成、配置されています。
同様にバラバラに切られた江戸の区分図である切絵図を全部ならべてみるとみごとな右回りの渦巻きになっています。
江戸という都市をえがくのに右回りにえがくという空間認識の型が確立していたことがあきらかです。
右回りの空間把握は、これが肝心なことなのですが、江戸にかぎられるものではなかったのです。
たとえば京都です。平安のむかしに都市として造成された京都の空間構成の原理は、中国伝来の風水思想にもとづく四神相応でした。
左方(東)は青竜にふさわしい流水(鴨川)、右方(西)は白虎の大道(周山街道)、前方(南)は朱雀の湿地(巨椋池)、後方(北)は玄武の丘陵(船岡山)が位置する地勢のなかを碁盤の目状に街路をとおして都市が形成されました。
この空間構成は事実として右回りの渦巻きとは無関係です。にもかかわらず、京都の空間について記述する記述者はきまって右回りの原則にしたがっているのです。
明暦4年(1658)に刊行された『京童』は近世最初の京都の名所案内記です。洛中洛外87ヶ所の神社、仏閣、名所、旧跡を説明しています。この書の空間認識が、巻一の内裏にはじまって巻六の太秦におわるまで、きわめて荒っぽいものですが、右回りの渦巻きになっているのです。近世中期に刊行された『都名所図会』は『江戸名所図会』の手本ともなった京都の地理案内です。この書は京都の全体を四神に区分していますが、その記述の順序は、
巻1・巻2 中央平安城
巻3 左(平安城にむかって右)青竜
巻4 右(平安城にむかって左)白虎
巻5 前朱雀
巻6 後玄武
となっていて、右から左、下から上へという大まかな右回りになっています。
このような例はまだあげることができます。私たちが子供のころになれしたしんだ絵双六は、いまはほとんど目にすることがなくなりました。この絵双六の廻り方がきまって右から左へとまわりはじめる右回りです。
定型は右下隅に出発点の「ふりだし」が設定され、渦巻き状にめぐって、終点の「上り」はかならず中心にもうけられます。いま、私は幕末に刊行された「新大坂名所名物案内」という一枚の絵双六をみています。
右下隅の天王寺がふりだしとなって、以下順次に住吉、今宮戎、生玉とまわって、終点の上りは中心の浪花錦城(大坂城)となっています。大坂という都市にたいする江戸人の空間認識もまた右回りなのです。
北斎の名作「富嶽三十六景」。例の「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」で知られる北斎の代表作ですが、この作品、現存46枚の空間配置についてはまだ研究はおこなわれていません。漠然と、江戸からはじまって東海道を西へ、冨士のみえる場所をたどったとかんがえられているようです。
もしこの作品を関東を「ふりだし」に冨士登山を終点とした右回りの上り双六とかんがえたらどうなるでしょうか。そうした想定をゆるすような現存作品の空間配置になっています。
この46枚のうち、基本線が藍色ですられた36枚が最初に刊行されたと、小林忠さんによって推定されています。その36枚の空間構成を検討しますと、おおよそつぎのようになります。
ふりだしの「常州牛堀」にはじまり、右巻に江戸を通過し、冨士を右手に見ながら東海道を左(上り)にむかい「尾州不二見原」までいって、おりかえし、「信州諏訪湖」までゆきます。そこから再度右に転じ、冨士を中心に「甲州犬目峠」、「甲州三島越」、「甲州石斑沢」、「甲州三坂水面」と周辺をまきます。これに、基本線が墨ですられた第二次出版の10枚をくわえますと、いっそうこの渦は形をなしてきます。そしてこの双六の上りは巡拝者が冨士にのぼる「諸人登山」です。
北斎が右回りの渦を意識していた証拠がないではないかという反論が出そうです。伝統の型は個人の意識をこえた集団無意識または遺伝子の働きとだけいっておきます。人間を意識よりもはるかにつよい力でうごかす衝動です。
右回りの空間認識の例証はまだあげることができます。そしてここまでは美術史の視点で問題提起ができます。しかし、なぜ日本人の空間認識に右回りがあるのかという問いにこたえるためには、比較民俗学や宗教史、ときには、神話学の視点が必要になるのです。それらの知識を総動員しないと、この問題は解けません。
じつは、日本人の空間認識には、もう一つ、時計回りとは逆の左回りがあるのです。美術作品でいいますと、大群衆の踊りの輪や舞台役者の登場をえがいた「豊国祭礼図屏風」、「歌舞伎舞台図」、「能狂言絵巻」などなどです。
右回りと左回りの問題は、右と左のシンボリズムにむすびつきます。そして、この問題は、この通信でたびたびふれてきた、洪水神話における、人類の祖先である兄妹の柱をまく旋回につながっています。
一つの問題を真にふかくひろく究明するためには、これまでのこまかに区分された学問の枠組みでは、もう手も足も出ないのです。
私はこのテーマで、今年、6月30日(日曜日)に、学習院大学で開催される国際浮世絵学会の大会で研究発表をする予定ですので、解答はずるいようですが、それまで伏せさせていただきます。
もし会場でお目にかかれたら幸いです。
今回はこの辺で失礼します。