諏訪春雄通信 39
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
5月25日(土)・26日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクトは和泉市立人権文化センター、桃山学園大学との三者共催で、「日本列島における和泉の歴史と文化」というテーマの、公開講演会とシンポジウムを開催します。そのため、プロジェクト事務局をはじめ、関係者は大挙して和泉市にくりこみます。私も金曜日午後の新幹線で出発することになっており、それまでのわずかな時間を利用して、この通信を入力しています。月曜日に東京にもどってから全体を完成させることになります。
今回のテーマは「伊勢の斎宮」です。このテーマで、私は日本の神祭りにおける男女の役割分担という大きな、しかも根本的な問題を解明しようとかんがえています。
日本本土の神社祭祀で神職の役割は男性が独占しています。各地の民間の祭りでは、いまだに女性の関与をタブーとしてきびしく禁じているところもけっしてめずらしくはありません。しかし、その他方で、沖縄のお祭りのほとんどは女性の神女(ノロ)主宰で、男性は補助者の地位にとどまっています。
このような現象について、これまでの学説は、本来、祭りは女性が主宰するものであったが、男性中心社会が到来し、しかも仏教や儒教の女性蔑視思想の影響のもとに、男性が祭祀権を女性からうばって独占するようになったと説明してきました。
こうした祭祀における女性差別を赤不浄=血の穢れとして説明した柳田民俗学の学説も大きな役割をはたしています。たとえば、最新の民俗学の成果を集成した『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)の「血穢」の項では、
女性特有の出血である月経と出産時の荒血は、穢れたものとみなされてきた。これらは赤不浄・アカビなどとも称され、死の黒不浄とともに忌むべき大きな穢れとされた。産の穢れを白不浄と呼ぶ地域もある。穢れは火によって感染すると考えられたため、月経中の女性はその期間、産婦は出産が近づいたころから産後の忌明けまで、家から離れて別小屋で忌篭りの生活を送った。別小屋がない場合も、食事を作る火は家族とは別にした。月経・荒血に限らず血を穢れとする観念は、当初、神社・神事の禁忌として現われた。古くは血は豊穣をもたらすものとされたが、死穢を連想させるためか次第に忌まれるようになり、九世紀中ころに至って穢れとされるようになった(後略)。
とのべられています。
この解説は事実の指摘としてはこのとおりなのでしょうが、いくつか疑問がうかんできます。
A 血がけがれているとかんがえられるようになったのはなぜか。
B 血穢が観念されるようになったのは、九世紀中ころとあるが、それ以前の祭りはすべて女性が主宰したのか。
C 古代、女性が祭りを主宰していたとすると、なぜそれができたのか。
このような日本の祭りの根幹にかかわる疑問を解く鍵が、じつは伊勢の斎宮にあります。
伊勢の斎宮は、古代から中世にかけての、伊勢神宮に未婚の内親王または女王が斎王(いつきひめみこ、斎宮ともいいました)として派遣され奉仕したことをいいます。天皇の即位直後に斎王がえらばれ、一代に一人が伊勢で神につかえるというこの制度のはじまりは、天武天皇の代の大伯皇女(おおくのひめみこ)で、中世の後醍醐天皇の祥子内親王を最後に廃絶しました。
斎宮は決定後の一年間は宮城内の初斎院で、ついで宮城外の野宮でさらに一年間の潔斎の生活をおくります。そののち大勢の官人にまもられ、盛大な行列をくんで伊勢にむかいます。これを斎王群行といいました。それ以降は多気の斎宮で精進潔斎の生活をつづけました。
しかし、斎宮の実際の神事関与は、神宮のもっとも大切な祭りで三節祭とよばれる、六月・十二月の月次祭と九月の神嘗祭に神宮に参入して玉ぐしをささげるだけで、それ以外のときは、斎宮で篭りきりの生活をおくっていたのです。
その間、実際に日常的な神事をにない、また三節祭でも重要な奉仕をおこなっていたのは、物忌とよばれた数人の童女(一部は童男)とその補佐役の物忌父を中心とした男女専従神職者たちでした(義江明子氏『日本古代の祭祀と女性』吉川弘文館・1996年)。
この物忌と物忌父の関係は通常の神社祭祀における神子と神主の関係に対応しているとかんがえることができます。童女が奉仕したのは初潮以前の血穢のない女性がえらばれたものとみられます。彼女たちは、月事がはじまると退任しなければなりませんでした。
しかし、重大な疑問は、9世紀半ば以降、女性の血の穢れがことさらに忌まれた時代になぜ、日本の神社の総元締めともいうべき伊勢の斎宮(そして賀茂の斎院も)で成人女性が重大な祭祀に関与しつづけたのでしょうか。
この疑問を解決するのに役立ちそうな学説を提出している研究者がいます。重要なものを整理してつぎに紹介しておきましょう。
a 神懸りする巫女とそれを聞いて神意をうらなう男性との男女ペアの専従神職者で祭祀をおこなうのが日本の祭りの原型である。(岡田精司氏『古代祭祀の史的研究』塙書房・1992年)。
b 古代祭祀で専業神職者が男女ペアで奉仕したのは、一つは模擬的生殖儀礼をおこなうためであり、ほかの一つはそれぞれの生業の成果の捧げ物をするためであった。中世以降でも、伊勢神宮では、神饌調備や養蚕・御衣織成には成人女性が一貫して神事に関与した。(義江明子氏前掲書)。
c 弥生時代の前期・中期ごろまで、耕起から収穫までの一連の農作業では、播種以前の労働は男性、その後は女性を中心にいとなまれた。(小笠原好彦氏「国家形成期の女性」『日本女性生活史T 原始・古代』東京大学出版会・1982年)。
これらの学説を参照しながらも、それとは異なる視点から、以下に私の考えをのべます。
日本の古代祭祀の専従神職者は、
(1) 男性のみ
(2) 女性のみ
(3) 男女ペア
の3種があり、基本的にこの形態は現代にまでうけつがれています。このように、多様な専従神職者の形態があったのは、祭りの原理そのものが多様だったからです。
日本の祭りの主宰者における男女の性差を決定してきた原理は、
経済原理
神懸りの能力
仏教・儒教
の3種がありました。この3種を総合してかんがえないと日本の祭りの本質はみえてきません。先に参考としてかかげた、岡田、義江、小笠原三氏の従来説と私の論の立て方の相違をよく検討してみてください。
生活物資生産形態または経済原理の相違によって祭祀の形態が決定されるという法則は日本にかぎらず普遍的にみとめられることです。日本でもつぎのような例をあげることができます。
狩猟型 東北マタギの熊祭りなど
採集・雑穀型 沖縄八重山諸島のプールなど
稲作型 大阪住吉神社の御田植祭など
漁労型 沖縄本島国頭のウンジャミ
混合型 長崎県長崎市の長崎クンチ
熊祭りはアイヌのイヨマンテが著名ですが、アイヌは狩猟経済にとどまらず、女性もかかわる採集経済にはいっていましたので、イヨマンテには女性も参加しています。むしろ東北にいまものこるマタギの人たちが山中で執行する熊祭りが、純粋に男性だけの祭りとしての性格をのこしています。これは経済原理が男性中心の狩猟段階にとどまっているために祭りも男性中心になっている例です。
沖縄の各種の祭り、たとえば典型的には、久高島のイザイホーなどに男性が関与できないのは、女性の神懸りの能力を前面におしだした祭りだからです。総じて、女性が祭りに専従者として参加することができたのは、その神懸りの特性によるものが多かったとおもわれますが、各地のお田植祭りなどで女性の参加する例は、経済段階における役割分担によるものといえます。
本土の各種の祭りから女性が排除されたのは、通説のように、仏教や儒教の差別観念の影響とみることができます。日本における血穢の観念を育成したのも奈良・平安仏教でした。日本の仏教が、女性も成仏できるとする女人往生を教理でみとめるようになったのは、鎌倉仏教の浄土宗や浄土真宗、日蓮宗まで待たなければなりません。
沖縄や日本の神道祭祀の総元締め伊勢神宮(賀茂神社)で、のちのちまで女性が祭りで重要な役割をはたしつづけることができたのは、女性も生活物資生産に参加して役割を分担した経済原理と神懸りの能力によって、女性が祭祀の主宰者となった古代の遺制をそのままにたもちつづけることができたからです。
そのさい、沖縄は本土をはなれた地理的文化的環境よって、そして伊勢の斎宮や賀茂の斎院は、まさに王権の力によって仏教の影響をうけずにすますことができたからです。
今回は、先週の24日(金曜日)から28日(火曜日)まで、いずれも私が企画にかかわった
日本列島における和泉の歴史と文化 大阪府和泉市
雅楽公演 学習院百周年記念会館
芸談 私の歌舞伎 5世中村富十郎 学習院百周年記念会館
という大きな会が連続してあったために、通信の入力が大はばにおくれました。次回から通常のペースにもどしたいものです。
今回はこの辺で失礼します。