諏訪春雄通信 40
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
この通信も40回をかぞえることになりました。1回の平均アクセス数は95人ですから、まずまずの成績といえます。アジア文化研究プロジェクトの通常研究会で95人参加してくださったら盛会の部類に属します。これまで、この通信の読者になってくださった多くの方々に篤くお礼申します。
この通信の中心テーマは「天皇の比較民俗学」または「王権」です。時折、逸脱しながらも、このテーマを連続して追いかけてきました。今回も古代日本が中国の律令制度をとりいれて律令国家体制をととのえていった8世紀、9世紀、中国から何をうけいれ、何をうけいれなかったのか、安倍晴明に代表される陰陽道を検証することによってあきらかにしようという意図で、40回めの通信文を計画していたのですが、興味ぶかい書物が刊行されましたので、急遽、テーマを「仮面or民族学対考古学」に変更します。
その書物は、佐原真監修・勝又洋子編『仮面 そのパワーとメッセージ』(里文出版・2002年4月)です。
総論 お面の考古学 佐原 真 元国立歴史民俗博物館館長
現代に生きる仮面 吉田憲司 国立民族学博物館教授
日本の先史仮面 春成秀爾 国立歴史民俗博物館教授
日本中世の能面について 脇田晴子 滋賀県立大學人間文化学部教授
以下、全部で10本の論文が掲載されています。なかなか充実した内容といえましょう。
この書がとくに私にとって興味ぶかいのは、直接に私の論にふれた佐原真さんの仮面誕生論が冒頭にすえられているからです。
「お面の分布」という章を佐原さんはつぎのような私の文の引用で終始します。
諏訪春雄さんが日本、韓国、中国そして世界のお面の分布をとりあげています[諏訪・2000]。
日本のお面は北から南へゆくほど分布密度が濃くなります。九州や沖縄の島々に仮面芸能が色濃く伝わっているのに対して、北海道に生まれた仮面芸能はありません[文化庁・1976]。朝鮮半島では、北緯三九度以北には仮面芸能がありません[金・1987]し、中国でも北の方には仮面芸能がないので、諏訪さんは、日本、朝鮮半島、中国を通じて、北緯四〇度がお面の芸能、祭りの北限だと指摘します。
しかし、世界のお面をみると、アフリカでは北緯一五度と南緯一五度との間に、北アメリカではアラスカ湾あたりの北緯六五度あたりまでお面がある[吉田編、1994]ので、世界的な分布は緯度とは係わりをもたないことを諏訪さんはつかんでいます。
これにつづく「狩猟民・牧畜民・農民とお面」の章を佐原さんはつぎのようにはじめます。
諏訪さんの記述[諏訪・2000]によって、狩猟民や牧畜民はお面を作らず、農民がお面を作り出した、という泉靖一さんの理解[泉・1988]、農耕民と一部の狩猟民とがお面を作り、牧畜民はいっさいお面を作らないという木村重信さんの解釈[木村・1994]を知りました。
「狩猟を生業とする民族は、神像や仮面を本来はつくらず、彼らの希求やイデオロギーを洞窟画、岩絵ならびに道具に対する彫刻に表現した」と説く学者もある。
このあとさらに、「欧米の研究を渉猟して世界的にお面を追究した大林太良さんも、お面は主として農耕民のものだと指摘しています」とつづけて、大林さんの説を紹介します。私がこの『仮面』という書に大きな関心をもったのは、このようなこれまでの有力説を否定して、仮面は狩猟民がつくりだしたと主張する佐原さんの論の運びです。
もうすこし、佐原さんの文を紹介します。
いまみてきたように、お面は本来農民のものであり、狩猟民のなかでは北太平洋沿岸の人びとだけが例外的にお面をもち、わが縄紋文化のお面もその一環をなしている。そして遊牧民はお面をもたない。それが今まで主に民族学から追究したお面と生業の係わりとについての結論とみてよいでしょう。
ところが考古学からみると、お面は農業が始まるよりはるか昔に、世界各地の狩猟民のあいだに生まれたものなのです。およそ起源にさかのぼって文化を考えるとき、考古学の成果を無視すると偏った解釈にいたることになる、という実例を今までのお面の研究は示しています。
これはおどろくべき強気の発言です。私もふくめて、これまでの民族学(人類学)者の研究をすべて否定する佐原さんの断言の根拠はどこにあるのでしょうか。
佐原さんが数万年前の仮面の存在を証明するものとしてあげる資料はすべて洞窟や岩にえがかれた絵であって実際の仮面ではありません。「ヨーロッパ旧石器時代の狩人たちが、西アジアで農業が始まるずっと前にお面や仮装の絵を描いた事実は厳然として動かないのですから」として以下のような例をあげます。
T 35000年前のドイツでのライオンの顔をもち、ペニス(今欠損)・陰嚢を出す象牙製の男の像[ライオン人]
U 20000年前のフランス、スペインの動物の頭をつけ毛皮をまとった仮装の姿
V 17000年前のフランスの鳥の頭をつけペニスをたてた男がバイソン(野牛)と対決する姿
W 8000年前のアフリカのサハラ砂漠のマスク絵画
X 牧畜民時代のサハラのアンテロープ(羚羊)の面をつけた人々
まだ例はあげられていますが、このくらいでやめておきます。佐原真さんのような高名な考古学者から、これだけの資料をつきつけられて、「農業が始まる前に、お面と仮装が世界各地の狩猟民のあいだで誕生したことは疑いありません。さきに引いた泉靖一さんの文には、狩猟民が農民からお面をおそわった可能性が出てきます。しかし私は逆に、先にあった狩猟民のお面と仮装をあとから農民がおそわった可能性も考えるべきだと思います」と宣言されたら、黄門様の印籠をつきつけられた悪代官のように、たいていは恐れいってしまうことでしょう。
しかし、私は「学問っておもしろいなあ」というのがいまの率直な感想です。学問は純粋に理論の問題のようであって、じつはそうではなく、そこには人間の本質や入り組んだ人間関係が密接にまつわりついているからです。
じつは、仮面をめぐる民族学対考古学の論争には前史があるのです。
佐原さんが、引用してくださっている[諏訪・2000]という私の論文は、国際日本文化研究センターの日本人および日本文化の起源に関する学際的研究事務局が編集した『日本人と日本文化 ニュースレター11号』(2000年)に掲載された私の「東アジア仮面文化の交流」です。この論文は、その前年の1999年の11月8日(月)・9日(火)の両日、国際日本文化研究センターで開催された国際シンポジウム「東アジアの仮面文化」での私の基調報告をまとめたものです。その前半の仮面の分布に関する部分を、佐原さんが引用してくださっているのです。
その会は全部で8人が研究発表した成果の大きい会でした。そのシンポジウムで、これも著名な考古学者の春成秀爾さんが「日本先史時代の仮面」という題で、またアイヌ文化の研究者として知られる大塚和義さん(国立民族博物館教授)が「アムール先住民の仮面と儀礼」という題で、それぞれ発表されて、今回の佐原さんの論旨とほぼ同趣旨の内容をのべていたのです。両氏の見解に賛成できない私とのあいだに論争があって、議長役の千田稔さん(国際日本文化研究センター教授)が間にはいってその場をおさめたという経緯がありました。「先史時代の仮面の存在例をたくさんあつめてみせます」と最後にいいはなった春成さんの発言を私はおぼえています。
今回の論争で、主役は佐原さんにかわりましたが、論の運びはまったく春成・大塚理論です。その意味では代理戦争です。ですから、佐原さんの文章をよんで、私は苦笑してしまったのです。
佐原さんたちの理論のどこがおかしいのか、以下、逐次説明します。
1 それ自体が神と観念される
2 神の依代として機能する
3 仮装・隠蔽の手段に利用される
という三つの段階を経て、しかもそれらが複雑に交渉しながら、その本質を変化させています。1は神が動かない時代の仮面であり、2は神がうごきはじめた時代の仮面です。そして、仮面の歴史ではもっともおそくあらわれたのが3の仮面です。獲物に接近するための仮装の手段、つまりは狡猾な芸能仮面の利用法を、人類の旧石器時代に想定することなでは、仮面史の常識にてらしてとうてい容認できません。
仮面文化がもっとも多様な発展するのは、2の段階にはいってからです。うごきはじめた神が依代に飛来するのはシャーマニズムの憑霊型の信仰であり、農耕社会に顕著にみられる現象であって、いまも狩猟民社会にはみられません。仮面が農耕社会で発達したとかんがえられるのは、仮面が神の依代の機能をもっているからです。
仮面の分布がシャーマニズムの脱魂型(狩猟民社会)、憑霊型(農耕民社会)の分布とみごとに対応しているという認識が、私の仮面論をささえるもう一方の理論構成です。
日本の考古学者には、禁欲的に発掘の結果に研究範囲を限定しようとするタイプと、積極的に多方面の学問成果を摂取してゆこうとするタイプの二つがあます。とくに佐原さんは、後者のタイプに属し、これまでも考古学を通して各分野に積極的な発言をくりひろげられ、世間にたいする影響力は大きいものがあります。
私も佐原・春成のお二人の著作はのがさず読むようにして、これまでも多くのことをまなんできました。通信38であつかった騎馬民族渡来説では、佐原さんの説を引用させていただきました。また、国際日本文化研究センターの4年にわたるプロジェクトでお二人に接触し、その敬愛すべき人格には尊敬の念さえいだいています。
ことに春成さんには、アジア文化研究プロジェクトの研究会に講師としてお招きし、日本の古代の竜について講演していただいたことがあります。そのお二人が仮面について発言された狩猟民社会誕生説は、みすごすことのできない問題をもち、放っておけば世間の常識になりかねない危険をはらんでいます。あえてこの通信でとりあげた理由です。
この通信の読者の賢明な判断に期待します。
今回はこの辺で失礼します。