諏訪春雄通信 41
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
前回の通信冒頭でちょっと予告しましたように安倍晴明を中心とした陰陽道についてのべます。この問題をとりあげようと思いたったの は、5月25日(土曜日)、26日(日曜日)の両日、大阪府和泉市で、公開講演会・シンポジウム「日本列島における和泉の歴史と文化」が開催され、2日目に「安倍晴明伝説の成立」という題で私も講演したからです。そのときに、配布した要旨は、この通信の後半に紹介していますので、ご覧ください。
この大会は、主催和泉市、協力学習院大学東洋文化研究所・桃山学院大學となっていますが、企画の原案は、桃山学院大學名誉教授沖浦和光先生と私とで立てました。沖浦先生は、アジア文化研究プロジェクトの運営委員の一人でもあり、かねがね、桃山学院大學でも大きな大会を開催したいという意向を表明しておられました。それが、今回、和泉市の予算化で実現したものです。
アジア文化プロジェクトの運営委員4名、事務局関係2名が東京から出向き、ほかに会員その他22名がこの大会に参加されました。2日間にわたって、延べで1000人近い方々が会場につめられ、盛会でした。
和泉市は弥生時代の有名な史跡である池上曽根遺跡、また大和王朝に対峙する河内王朝の巨大古墳が三つもあるところです。隣接する河内とあわせますと、巨大古墳べストテンにはいる古墳が六つあります。そして、旧名南王子村という、いまも全国最大の被差別部落があり、信太妻や小栗伝説ゆかりの遺跡が多く、市中を小栗街道がとおっています。
したがって、今回の講演会・シンポジウムの共通コンセプトは、中央の歴史にたいする地方の歴史、表層の日本史にたいする深層の日本史ということになります。
初日の土曜日午前中は、著書も多く、民俗研究家として著名な乾武俊さんをナビゲーターとして、フィールドワークがおこなわれました。バス2台に分乗して、小栗や信太妻関係の遺跡をめぐりました。私には複数回たずねた場所がほとんどでしたが、土地の専門家の説明は勉強になりました。
乾さんの説明で、もっとも啓発されたのは、小栗街道はそのまま熊野街道とはかさならないというお話でした。小栗街道はハンセン氏病の患者が熊野の温泉(小栗の湯)に湯治にかよった道ですが、一般の熊野詣での人々がとおった熊野街道の裏街道が主であったという乾さんの、実地踏査をふまえた説には納得させられました。
私の講演「安倍晴明伝説の成立」は、ちくま新書の『安倍晴明伝説』(2000年)を、和泉地方との関係に中心をおいて整理しなおしたものです。
この新書版『安倍晴明伝説』には、私なりにいくつかのメッセージをこめました。
1 安倍晴明の実像は職務に忠実な当時の国家公務員である。
2 陰陽道は道教の枠組みにつつまれて中国から伝来した科学、宗教、呪術を総合した先端技術である。
3 晴明伝説は、近畿中心の高級陰陽師系と地方の民間下級陰陽師系とに大きく二分される。
4 信太妻伝説は和泉地方の被差別民の民間下級陰陽師が和泉国の信太明神の縁起譚として生みだした。
6年まえの平成8年10月13日、おなじ桃山学院大學で全国大學同和教育研究協議会全国大会がひらかれ、講師の一人としてまねかれた私は、「中国大陸からやってきた倭人の文化」という報告をしたことがあります。その翌日、桃山学院大學の寺木伸明先生におねがいして、今回のフィールドワークとほぼおなじ場所を案内していただきました。
その車中で寺木先生からうかがった、現代の信太妻伝説とでもいうべき同和地区出身者の結婚悲話の衝撃と感銘が、私の安倍晴明研究の直接のきっかけになりました。そんな思い出から私はこの日の講演をはじめました。
私の講演にたいし、当日、5人の聴衆の方から質問がよせられました。そのうちの1つだけをここで紹介しておきます。
質問者は、土曜日のフィールドワークのナビゲーター乾武俊さんです。「聖神社と稲荷信仰との関係についてもしお時間があれば、いま少し具体的にご教示ください」というものでした。さすがです。もっとも肝心の点をついておられます。
信太妻伝説の形成に関して、乾さんは、折口信夫説にもどるべきだと、フィールドワークの案内でくりかえし説いておられました。折口説は、大坂の安倍野に居住していた安倍野童子とよばれた芸能集団がこの話をかたり歩いたという考え(「信太妻の話」)です。
しかし、この説の致命的欠陥は、信太妻が和泉の信太明神(聖神社の別名)の化身または使神の狐の物語であるという点の説明がつかないことです。したがって、もし、聖神社と、狐を使神とする稲荷信仰との関係がくずれれば、俄然、折口説が有力になります。
乾さんの質問にたいする私の答えは、情況証拠と直接証拠の二つから成っていました。
情況証拠
A 全国の安倍晴明神社のうち稲荷を神体とするものの数が圧倒的に多い。
直接証拠
B 信太妻伝説の初出文献である『ホキ抄』以降、すべての信太妻関係の資料が信太明神の化身の狐とするか使神の狐としている。狐とかかわる明神社は稲荷神社以外にはない。
C 近世の歌舞伎や浄瑠璃で信太明神は稲荷神社とされている。
この通信で、私は日本の陰陽道が中国の影響下に成立したとき、どのように日本化したかを解明することから視点をひろげて、中国の律令制と日本の律令制の比較研究をおこない、王権の問題につなげる予定でしたが、和泉市の講演要旨を掲載したために、すこし長くなりました。次回の課題とします。
安倍晴明伝説の成立(講演要旨)
安倍晴明の実像
安倍晴明は平安時代の中期に実在した陰陽師である。しかし、彼には数々の伝説がまつわりつき、超人的な能力の持主として日本人に認識され、最近のオカルトブームの波にのって、国民的なヒーローにまでなっている。実像と虚像との差がこれほど大きい人物もめずらしい。しかも、その虚像の形成に、この和泉の地方にすんでいた人々がふかくかかわっている。安倍晴明の虚像の成立過程を解明してゆくと、和泉の歴史の重要なものがみえてくるだけではなく、日本人と日本文化の深層部分があきらかになる。
晴明は安倍氏九代目の益材(ますき)の子で、のちに全国の陰陽師支配をまかされて代々陰陽頭(かみ)をつとめることになった土御門家の祖である。『土御門家記録』や『安倍氏系図』などによると、寛弘二年(一〇〇五)に八十五歳でなくなっており、逆算すると、延喜二十一年(九二一)に生まれた。生地は三か所ほどつたえられているが不明である。
晴明が歴史に登場したのは四十歳のときであってまだ陰陽寮の学生であった。しかし、その後の台頭はめざましく、花山・一条両天皇の信任を得、臣下として最高権力者であった藤原道長ともふかい繋がりをもった。しかし、地道で勤勉な国家公務員であり、技術者が彼の素顔であった。
陰陽師とはなにか
陰陽師は陰陽寮に所属して陰陽道の職務に従事した国家公務員であったが、のちには民間陰陽師が増加した。陰陽道は、中国で陰陽五行思想にもとづいて生まれた方術(不老長生術)、風水説(立地判断)、密教(加持祈祷)、宿曜(天文学)、呪禁(医術)の五種の技術・呪術複合体を総合して日本で生まれた。これらの五種は中国で道教という宗教に総合されるので、陰陽道は、信仰性を薄めた道教の日本版ということができる。日本では、占い、天文、暦の三部門を主としてつかさどった。
伝説上の安倍清明
晴明の伝説は、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』『古事談』『古今著聞集』『私聚百因縁集』などの、平安時代中期から中世にかけて成立した説話集に数多く登場してくる。
鬼を見る 前世を見る 瓜の毒を占う 病気を占う 寿命を変える 笑わせる 算術
などなど。
式神伝説
晴明伝説は式神によって生彩をくわえる。蛙を殺す、身の回りの世話をさせる、他人の式神をかくす、呪詛の犯人をつきとめる、呪いを返すなどの話が各種の説話集にみえる。
式神は式占という占いで祈願の対象となる十二神将、三十六禽とする説があるがみとめられない。式神は『今昔物語』などでは識神ともしるす、ものの魂、精霊の意味である。1.物に内在する呪力、2.下級の眷属神、という二つの性格をもつ。1.は草の葉、紙などを式神としていることから推定され、2.は仏教の護法童子(感応型+使役型)の基盤に中国道教の役鬼(使役型)を応用して生まれた。
晴明伝説の形成
晴明伝説の直接の母胎は中国道教の神仙譚であった。仙人にかかわる伝承は書物をとおして当時の日本に輸入され、日本の説話集の素材にもなっていた。
伝説の形成者・担い手は、1.近畿周辺で活躍した陰陽寮に所属する上級陰陽師と2.地方で活躍した民間下級陰陽師に二大別できる。1.は賀茂・安倍の二氏につらなり、のちには土御門の直接支配をうけた人々であり、2.は渡来系陰陽師と土御門の末流の二種があった。
もう一つの安倍晴明伝説
安倍晴明伝説が膨張してゆくうちに狐の母と人間の父とあいだに生まれて異常能力を身につけたという新しい伝説が中世の末から形成された。この伝承が最初に文献上で登場してくるのは、『ホキ抄』という注釈書である。この書は『三国相伝陰陽カン轄ホキ内伝金烏玉兎集』というながい名の陰陽道の秘伝書の注釈書で、その冒頭に、安倍晴明を狐の子とする伝承が登場してくる。この狐の子とする伝承は、近世のはじめに仮名草子『安倍晴明物語』として集成され、近世以降の安倍晴明伝説の母胎となってゆく。この伝説は民間陰陽師系統の安倍晴明伝説の到着点であった。
民間陰陽師系安倍晴明伝説の成立
民間陰陽師系晴明伝説の特色はつぎのようにまとめることができる。
和泉地方と安倍晴明伝説
民間陰陽師系の晴明伝説はきまって信太明神との関係を強調している。信太明神は現在の大阪府和泉市王子町の聖神社の別称である。聖神社の祭神が稲荷大明神と観念されるようになった平安時代の末までには、神域の信太森にちなんでこの別称が定着していた。昭和二十五年に国の重要文化財に指定された。そのときの整理された神社の歴史によると、天武天皇の白鳳三年(六七五)、勅願によって渡来氏族の信太首(おびと)が聖神をまつったことにはじまる。信太首は百済国の人百千(ももち)の子孫とある(新撰姓氏録)。また和泉市の旧南王子村の人びとが信太明神の氏子であった記録が村方文書としてのこされている(庄屋奥田家文書)。渡来人と被差別部落の人々が信奉する信太明神の縁起として狐の子としての安倍晴明伝説はそだてられた。
被差別民が中世以来従事した職業に声聞師があった。声聞師は大きな寺院に所属して雑役奉仕をする人びとであったが、のちに放浪の門付け芸人となり、また下級陰陽師として土御門家の支配下にはいる人々も出てきた。そのような人々が安倍晴明伝説を生みだした。
晴明はなぜ狐の子なのか
晴明伝説は異類婚の一種である。日本の異類婚の形態は二十二種もの多数がある。なぜ狐なのか。聖神社は平安時代の末には信太明神とよばれ稲荷神社とみなされていた。稲荷信仰の本質はつぎのように推移した。
信太明神を信仰し、稲荷信仰を信奉するようになった下級陰陽師たちは、自分たちの先祖として安倍晴明の誕生を異類婚姻譚にくみこんだとき、必然的に狐女房を選択することになった。
参考 諏訪春雄著『安倍晴明伝説』(ちくま新書・筑摩書房・2000年)
今回はこの辺で失礼します。