諏訪春雄通信 42


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 律令制度が日本に施行されたとき、大陸の律令制をどのように継承したかという問題は、当時の中国社会と日本社会の相違を知るためには、絶好の手掛りとなります。また、私がこの通信で追いかけてきた天皇制における中国の北方原理と南方原理の摂取の問題を解明するためにも、必要な手続きですので、参考文献をよんだり、資料をあつめたりしています。

 今回はその結果を報告するつもりでいましたが、これまで準備をかさねてきた大きな3つの出版計画が、ここにきて同時にうごきはじめ、さらにアメリカから突貫小僧のような3歳の孫が里帰りして身辺にわかに風雲急を告げはじめました。

 やむなく、これも、急遽、田口章子さんから梅原猛さんの代役を依頼されて18日(火曜日)に京都造形芸術大學で講義することになった「壬生狂言」のレジュメを掲載します。

 この種の比較的まとまりのある課題についてかんがえるとき、私は、歴史と構造の両面を意識して内容をまとめます。歴史は時間的に変化してゆく面であり、構造は時間にかかわりなく変化しない面です。

 つぎのレジュメでいいますと、TVは主として歴史を、UWXは構造的な説明を重視しました。


壬生狂言五つの視点

T 壬生狂言とはなにか
 京都市中京区壬生の律宗別格本山壬生寺につたわる念仏狂言。四月二十一日から二十九日までの大念仏会の期間中、境内の狂言堂(大念仏堂とも)で毎日数番の狂言が演じられる。寺の伝えによると、鎌倉時代の正安二年(1300)、天下に疫病がはやり、それを鎮めるため当時中興の
円覚上人が、大和三輪山の狭井(さい)神社や京都紫野の今宮神社でおこなわれてきた鎮花祭(花しずめ祭)の作法と融通念仏の作法とを合わして三月十四日に壬生寺で、鎮花法会をもよおし、鬼の「棒振り」や「湯立て」をおこなったのがはじめという。

 また上人は、本尊延命地蔵菩薩の慈悲と念仏の功徳をひろく民衆に知らせるために、口で念仏をとなえる「正行(しょうぎょう)念仏」にたいする、身振り手振りで仏の教えを解説する「乱行念仏」を考案した。口中に地蔵の真言をとなえ、身振りと運歩に地蔵の種子(しゅじ)をあらわし、また、ひろい境内に群集する人々すべてに理解させるため、セリフをいっさいもちいない黙劇にしたてたという。

 演目は約三十曲。地蔵の功力を説くもの、人間愛憎の宿業を説くものなど独特の狂言のほか、能や狂言から材をとったものも数多い。結願日に演じる「棒振り」以外全部仮面をつけ、セリフも結願日に演じる「湯立」以外まったくもちいない。

U 壬生狂言原型のねらいはなにか
 壬生狂言の母胎となった
花しずめは律令の神祇令に規定のある祭祀で、春の花びらの散るときに疫神も分散するのでそれをしずめるための祭りである。また融通念仏は自他のとなえる念仏がたがいに融通しあうという融通念仏宗にはじまる教えである。円覚上人がはじめたという花しずめの法会は、念仏をとなえることによって自己と他人の災害をはらうことにねらいがあった。

 そのときに最後(結願日)に演じた鬼の「棒振り」「湯立て」はどのような意味をもっていたのか。「湯立て」はいまも最後の一番まえに上演される。本尊が地蔵菩薩である壬生寺では、鎮守神として日吉山王七社のうちの十禅寺権現(本地は地蔵菩薩)をまつり、禊ぎとして湯立ての行事をおこなっている。その行事を法会の最後に演じてみせたものといわれる(小寺融吉「壬生狂言の起源と発達」『民俗芸術』一巻五号・1928年)。

 また最後に演じた「棒振り」は、壬生の地から祇園祭の棒振り役(先払い)を出す慣習があったので、それをしつばら後払いの形式になおして狂言化したものと解される(新井恒易『日本の祭りと芸能』ぎょうせい、一九九〇年)。しかもそれを鬼に演じさせたといわれている。念仏の功徳によって改心した鬼が後払いとなっていっさいの災害をおくりだして、この法会はめでたく終結していた。

V なぜ狂言か
 仏教と芸能のむすびつきはふかい。寺院の法会のあとに演じられた延年舞はもとより、能、宴曲、幸若舞、琵琶語り、説教をはじめとする話芸などが、仏教とのつながりをもつ。そのなかで、ことに狂言が選択されてのちにつたえられたのはなぜか。

 狂言の成立事情はあきらかではない。集約すれば、「猿楽の滑稽な物真似芸の要素が洗練されて、室町時代に成立したセリフ劇」といった程度のことしかいえない。壬生狂言の誕生が寺の伝えのように正安二年(1300)だとすれば、まさに狂言の形成期であり、壬生狂言の原型と狂言は双子の兄弟ということになる。狂言の写実劇としてのわかりやすさが、花しずめの法会の目的を表現するのにふさわしいものとして選択されたものとおもわれる。

 あわせて考慮しなければならないいのは、念仏の法会に狂言をとりいれた念仏狂言が、ほぼおなじ時代の京都の各地で誕生していたことである。

  上京区千本 引接寺(いんじょうじ)(閻魔堂)   右京区嵯峨 清涼寺(釈迦堂)

などであり、嵯峨の清涼寺の念仏狂言の開発者は壬生狂言とおなじ円覚上人とつたえられている。当時、念仏法会と狂言をむすびつける風潮がさかんであったことがわかる。これらの寺の念仏法会には専門の猿楽や幸若舞の連中も勧進興行として参加しており、それらの芸能が利用されたとかんがえられる。

壬生狂言の演目を分類すると以下のようになる。

能によるもの
 安達ケ原 烏帽子折 大江山 熊坂 大仏供養 玉藻前(殺生石) 土蜘蛛 道成寺 鵺 橋弁慶 舟弁慶 堀川御所(正尊)
 紅葉狩 夜討曽我 羅生門 

狂言によるもの
 酒蔵金蔵(棒縛) 節分 花折 炮烙
(ほうろく)割 花盗人

壬生狂言独自のもの(ただし清涼寺との共通演目がほとんど)
 愛宕詣 大原女 桶取 餓鬼角力 餓鬼責め 蟹殿 大黒狩 棒縛り 本能寺 山端とろろ(芋汁) 湯立

 これらの演目のほとんどは、のちに壬生狂言にくわえられていったものであろう。

 念仏狂言の演じては、近世では在地の信者たちであった。壬生狂言では、仏門に帰依した「壬生郷士」が境内に居住していて、講の組織をつくって役割をになっていた。また、狂言堂は能舞台にならったものであったが、二階建てで演者の膝下が見えないこと、橋掛りが舞台と直角についていること、橋掛りの前面に猿や怪物の演出に利用する、舞台の天井に張った二本の綱で曲芸の技をする「飛び込み」の特別の装置をもっている。この狂言堂の構造は清涼寺と共通である。  

W なぜ仮面で黙劇か
 壬生狂言は、結願日に演じる「棒振り」以外はすべて仮面をもちい、しかも「湯立て」以外はすべて黙劇である。黙劇については、境内の大観衆に見せるための工夫という説明が寺の伝えにあり、仮面はその黙劇とむすびついて、登場人物の役柄や演目の意味をわかりやすくつたえるための工夫であったとおもわれる。あわせて、仮面については、仏教が
偶像崇拝の宗教であったことを考慮しなければならない。

 すでに、総論の「日本の伝統芸能六つの視点」で説明したように、仏教の母胎は多神教のシャーマニズムである。トランス状態にはいって神霊と交流するシャーマンが支配する呪術、宗教のうち、神霊がシャーマンにのりうつる憑依(ポゼッション)型とよばれる形態に属する宗教が仏教である。したがって、仏教では多様な仏たちを仏像または絵画、仮面として表現する。そのさいに、仏像や絵画は仏そのものであり、各地の仏教寺院でおこなわれる来迎会などで阿弥陀や菩薩の仮面をつけてお練りするときにはその仮面が仏のよりつく依代として機能したとみられる。

X なぜ炮烙割か
 大念仏会の期間中、毎日、最初の演目に「炮烙割」を演じ、その最後に、その年の節分に参詣客が厄除けに奉納した炮烙を割る習慣がある。炮烙は素焼きの土鍋である。壬生狂言の「炮烙割」は、新しい市で、先に店を出そうとする鞨鼓売りと炮烙売りとがあらそい、最後に鞨鼓売りがならべたたくさんの炮烙をすべてうち割ってしまうという筋で、先行する狂言の「鍋八撥」の書替えといわれている。
 日本の民俗に、
厄落としとしてわざと高いところから炮烙をおとして割る習俗がある。通常、厄おとしには二つの論理がある。

 a 身代わりの論理 人形・櫛・手拭・銭などに、災難を負わせて身代わりとしてはらい捨てる。
 b 
代替の論理  小さな難を甘受して予想される大難を避ける。

 炮烙は割れやすいものの代表であり、そのためにあらかじめ炮烙を割って大難を避けるものであり、おそらくbの論理によるものであろう。

 壬生狂言の講衆については、明治にはいって、北川智海和尚が持斎念仏のきびしい立場から、明治三十三年(1900)に講の改革と再編成を断行した。その結果、離反者たちはべつの組織をつくり、神泉苑(内裏内部の天皇の遊覧用庭園)で伝統の狂言を演じるようになった。(ビデオ参照)


 今回はこの辺で失礼します。


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