諏訪春雄通信 50


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 この通信も今回で50回をかぞえました。昨年、2001年の6月22日(金曜日)に第1回の通信をおおくりして、ちょうど1年2ヶ月になります。その間、毎回、90人前後の方々にお読みいただき、延べで4400人をこえる方々の訪問をうけました。ほとんどは、堅い論文調の内容であるにもかかわらず、このように多数の方々に愛読していただいたことに感謝しています。

 この通信は今後も可能なかぎり、週1回のペースでつづけてゆきたいと願っています。だいたいは、毎週月曜日には更新する予定ですが、旅行などのやむをえない事情で前後にずれたり、休信することがあるときはご容赦ください。

 まず、今年度、すでに決定しているアジア文化研究プロジェクトと私個人の公開講演会・研究会のスケジュールをかかげておきますので、こちらのほうにも多数の方々がお見えくださるようお願い申します。

9月8日(日曜日)午後 於和光大学 「国際比較神話学シンポジウム」
 ここで「中国長江流域少数民族の竜宮伝承」という発表をします。日本の『古事記』『日本書紀』に登場する海幸山幸神話の源流が中国南部の少数民族社会の竜宮神話にもとめられることを、具体例をあげてあきらかにします。この通信の25や30ですでにのべた内容をさらに敷衍・整理して話します。

10月初旬(近く決定します)於学習院大学 公開研究会「中国少数民族の祭りと芸能―狩猟牧畜民と農耕民の比較―
 複数講師をお招きします。私は農耕民を担当し、昨年と今年の夏に実施した中国調査の成果をふまえて、狩猟採集民との相違を検討します。また、今年、8月下旬におこなったトカラ列島の悪石島のボゼ行事を中心とした民俗調査の結果についても、この研究会で報告する予定です。

10月15日(火曜日)午後T時半から 於東京女子大学 公開講演会「日中霊魂観の比較―幽霊・妖怪そして鬼―
 幽霊、妖怪、鬼の三者の特質を中国、韓国、日本の比較をとおしてあきらかにします。

11月7日(木曜日)午後1時から/8日(金曜日)午前10時から 於学習院百周年記念会館
公開講演会・シンポジウム
「日韓越三国古代文化の比較研究」 
 ベトナムから2名、韓国から3名、日本から私のほか1名、計7名の研究者をまねき、中国を中心軸にして、日本・韓国・ベトナムに左右対称に共通の古代文化、民俗が存在することを実証します。私は、日本の演劇、日本の門付け芸、東アジアの来訪神などを2日間にわたって論じます。

11月10日(日曜日)午前10時から 於和泉市桃山学院大学 全国大學同和教育研究大会で「安倍晴明と賎民」の題で講演します。
 本年5月の「日本列島における和泉の歴史と文化」のさいの講演「安倍晴明伝説の成立」とはすこし視点をかえて話す予定です。

11月17日(日曜日)午後1時30分から 於姫路市姫路文学館 公開講演会「日本民族の青春―お夏清十郎ものがたり― 
 私は近世演劇、とくに近松の浄瑠璃の研究からスタートしました。「お夏清十郎五十年忌歌念仏の成立」という論文はいわば私の出世作です。この論文が活字になったとき、それを読まれた指導教授の市古貞次先生が、「このような論文をあと十本書いてみなさい」とはげましてくださったことが、そののちの私の研究生活の大きな支えになりました。

 姫路はお夏清十郎物語の誕生の地です。同市の姫路文学館が今年の10月18日から開催する特別展「お夏清十郎ものがたり」の記念講演を依頼してきたものです。私はこの講演で、お夏清十郎物語を、つかの間おとずれた近世日本人の青春への賛歌として読み解こうと意図しています。

 8月21日(水曜日)から26日(月曜日)まで、6日間、トカラ列島悪石島(鹿児島県鹿児島郡十島村悪石島)の盆行事と、盆踊りの最後に出現する来訪神ボゼについて調査してきました。そのためにこの通信50が大はばにおくれることになりましたことをお詫びします。

 日本の各地の来訪神は中国の長江流域を源流とし、稲作を中心とした農耕とともに日本へ伝来したというのが私の説です(「除災の信仰と来訪神の信仰」『中国秘境 青海崑崙 伝説と祭を訪ねて』勉誠出版 2002年)。しかし、悪石島のボゼはその仮面の様式から判断して、南太平洋の島々の来訪神が黒潮に乗ってながれついた異質のものであろうとかんがえ、中国をはじめ各地の学会などでのべてきました。それを現地調査で確認できたのが収穫です。

 行きにのりこんだ鹿児島港23時50分発のフェリーとしま丸で同室となったのが悪石島小中学校の理科の先生福島顕さんでした。12時間におよぶ長い船旅の間、福島先生からみっちりと悪石島の現況、民俗、生活についてお話をきくことができたのは幸運でした。先生を介して島に一台しかない学校のコピー機をつかわせていただき、貴重な資料をあつめることもできました。この調査の報告はべつの機会にくわしくさせていただきます。

 前回につづいて、タカミムスヒとアマテラスについてかんがえます。前回の通信49の最後で、私は「タカミムスヒは中国の北方原理にもとづく神であり、アマテラスは中国の南方原理に由来する神である。」とのべました。この結論についてもうすこし説明をくわえます。

 タカミムスヒを太陽神とかんがえる溝口睦子さんは、アルタイ・ツングス系遊牧民族、朝鮮半島の古代王国と共通する天帝=太陽神の思想が日本に伝来してタカミムスヒとなった、と主張しています。前回の通信であげたア、イ二つの理由のうちのです。

 この溝口さんの説の大きなより所となったのが、朝鮮神話研究の先覚者三品彰英氏の『古代祭政と穀霊信仰 三品章英論文集 第五巻』(平凡社・1973年)所収の論考でした。三品氏の論考は、朝鮮の古代王権であった新羅の始祖赫居世、高句麗の始祖朱蒙、加羅の始祖首露などの誕生神話を分析し、わが国の天孫降臨神話との共通性をあきらかにした画期的なものでした。

 これらの一連の論文をとおして三品氏があきらかにしたことは、朝鮮古代王国の始祖神話は、A.穀霊(稲魂)信仰の産物であり始祖は穀童として形象されていること、B.彼らは天帝の子すなわち日の御子であること、の2点であり、その2点から朝鮮古代神話が日本のホノニニギの降臨神話の源流になっているという主張でした。

 このような三品説によりながら、溝口さんが強調したのはホノニニギではなくタカミムスヒ神話と古代朝鮮神話との類似でした。そのために、三品説のの部分は無視して、もっぱらの部分をとりあげ、さらに、北方アルタイ・ツングース系遊牧諸民族の王権神話との関係に注目したのでした。溝口さんがAの穀霊信仰を無視したことは、のちにみるように溝口説の重大な欠陥となりました。

 このあたりの溝口さんの論理の展開をわかりやすく整理してみましょう。

  1. 北方遊牧民族の王権は天帝の子(=太陽神)の天下りを権威のより所としている。
  2. 朝鮮半島の古代王国もその思想をとりいれて、同じく天帝(=太陽神)の子の天降りによる建国を、国の統一支配の思想的基盤としていた。
  3. 日本の建国神話である天孫降臨神話は朝鮮古代神話と類似している。したがって、日本の古代王権も、朝鮮の古代王権同様、北方アルタイ・ツングース系遊牧民族の建国神話をとりいれた可能性が高い。

 この箇条書きは、溝口さん自身の整理によっています(『王権神話の二重構造―タカミムスヒとアマテラスー』181ページ〜182ぺージ)。

 でたいせつなことは、天帝=太陽神という観念の存在証明です。草原の牧畜民に天の信仰が顕著であることは、これまで私も中国の北方帝国について説明してきました。天の思想を中心にすえた中国の北方原理の形成には周辺牧畜民の天の信仰も大いにあずかったものとかんがえます。問題は太陽神への信仰の存在証明です。農耕民ではない草原の牧畜民に天の信仰と一体化した太陽神の信仰があったとはかんがえられませんが、溝口さんはその存在証明をつぎの匈奴の国王から漢の皇帝にあてた書簡文を鍵としておこなっています。

天の立てるところの匈奴の大単于は、つつしんで問う。皇帝恙(つつが)なきか。(『史記』「匈奴列伝」 『東洋文庫 騎馬民族史1』)

天地の生めるところ、日月の置けるところの匈奴の大単于、つつし敬んで漢皇帝に問う恙なきか。
                                            (『漢書』「匈奴伝上」『東洋文庫 騎馬民族史2』)

〈単于 ぜんう〉は匈奴の王の自称です。「単于は、天地が生み、日月が命じたという己れの出自を誇り高くうたっている」と、この文について溝口さんは解説します。しかし、『漢書』の文の冒頭は、「天地が生んだ、日月が立てた国匈奴の大王たる自分は」と訳すことができます。「天地日月」が対句表現として大自然の神々つまり神々全体を表現していることになりますが、この表現だけから「天帝=太陽神」という特殊な信仰形態をみちびきだすことには大きな飛躍があります。ならば、地や月にたいする信仰はどうなるのか、「地帝=月神」という信仰は存在しないのかという反問が即座にできるからです。

 についてみます。古代朝鮮に天帝=太陽神の天降りという建国神話が存在することは、三品氏の研究に照合しても確実です。しかし、その神話ないしは信仰が北方遊牧民族からとりいれられたという事実の保証はどこにもありません。

 朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族でした。しかし、この遊牧民族が天帝=太陽神の信仰をもっていた事実はありません。つまり1がくずれてくると、の推定は自動的にすべて成立しなくなるのです。古代朝鮮は半農半牧畜の国でした。遊牧民族が建国しましたが、中国南部から稲作を中心とした農耕文化をとりいれて、経済機構が大きく変化しました。そのさいに農耕文化とともに太陽信仰をもとりいれたのです。

 これまでの通信でくりかえし説明したように、太陽は地上から出て地上に没するために、地上の存在とかんがえられていました。太陽神である日本のアマテラスが記紀神話によると地上で誕生して天界に移住している意味を私たちは重視する必要があります。天帝=太陽神が天降りするという信仰は、本来異質な二つの観念、天の信仰と太陽の信仰が一つに習合した結果でした。

 ここまで説明してくれば、日本の王権神話に登場するタカミムスヒが朝鮮古代国家の建国神話と、さらにその源流となった北方遊牧民族の建国神話と一直線につながるという溝口さんの説が成立しないことは、かんたんな引き算、足し算によってあきらかになります。

北方遊牧民族神話=天の信仰+太陽の信仰

朝鮮古代建国神話=天の信仰+太陽の信仰+穀霊信仰

タカミムスヒ神話=天の信仰+太陽の信仰

 いま、すべて溝口説にしたがって、北方遊牧民族神話とタカミムスヒ神話に太陽の信仰がふくまれていると仮定しても、この三者を=でむすぶためには、朝鮮古代建国神話の中核を形成している穀霊信仰の存在がさまたげになります。まして、私は前回と今回の通信で説明したように、北方遊牧民族神話とタカミムスヒ神話に太陽の信仰の結合をみとめていません。

 日本のアマテラス神話やタカミムスヒ神話の成立の筋道は、溝口説に欠如している中国の北方原理と南方原理の2項をとりいれてつぎのように訂正されなければなりません。

朝鮮古代建国神話=北方遊牧民族神話+中国北方原理+中国南方原理

タカミムスヒ神話=中国北方原理朝鮮古代建国神話

アマテラス神話=中国南方原理

 小文字は付随する要件であることをあらわしています。

 最近、中国の太陽信仰に言及した書物が2冊刊行されました。一冊は松村一男・渡辺和子編『宗教史学論叢7 太陽神の研究上巻』(リトン・2002年6月)で、そこには

  池澤 優「中国の太陽(神)祭祀の諸類型―太陽の象徴と象徴としての太陽―」

  森 雅子「太陽神列伝―古代中国における太陽崇拝の残影―」

という2本の論文がおさめられています。

 もう一冊は、林巳奈夫『中国古代の神がみ』(吉川弘文館・2002年3月)です。

 中国の太陽信仰をあつかった日本人による最新の論考として、ここにこの2冊の書物の内用を紹介しておきます。

 まず池澤論文です。「中国においても太陽または太陽神に関して多くの宗教現象が存在したが、一見すると、それらは重要ではあったが、突出した地位を占めていないように見える。」と中国全信仰体系に占める太陽信仰の位置付けをおこなったのち、「しかし、それは太陽の持つ宗教的意義が抽象化され、別の神格に昇華されたためであり、太古において宗教的基盤として太陽崇拝が存在したことを想定することは不可能ではないように思われる。」として、「新石器時代に太陽神儀礼が存在した可能性」「殷代の太陽祭祀と十日神話」「儒家儀礼と王朝祭祀における太陽祭祀」と3節にわたって、中国史を縦断して、太陽祭祀の概説をおこなっています。

 つぎに森論文です。「他の古代文明圏とは異なり、中国には太陽神もしくは太陽崇拝の明確な痕跡は残されていない。」と最初に太陽神の位置付けから出発しながら、文献資料と考古資料によって「僅かにその残影を止めている太陽神を抽出し、その(仮説)列伝を作成する」として、〈羲和〉〈日中の烏〉〈東君〉以下全12種の神々をとりあげ、中日の学者の論考によりながら、それらが太陽神であった可能性をさぐっています。

 この2種の論文に共通する主張をあげればつぎのようにまとめられます。

  1. 中国では太陽神の信仰はさかんではなかった。
  2. しかし、文献や考古資料によって、太陽信仰の痕跡や転化した姿をみることはできる。

 しかし、私はこの通信でくりかえしつぎのように主張してきました。

「中国では新石器時代の昔から太陽信仰はさかんであったし、いまもさかんである。ただし、それは南方の農耕少数民族が主として保持した信仰であり、その実態の把握は文献資料では不可能であって、民俗調査や考古資料によるほかはない」

 このように主張する私にとって興味ぶかい書が、林氏の『中国古代の神がみ』です。林氏は考古資料を駆使して、これまで中国の古代文化について数々の著作を世に問うてこられたすぐれた研究者です。その方法論は本書でも一貫しています。

 紀元前5000年の河姆渡遺跡から出土した二羽の鳥が炎を発する円盤をいだく図様、それをうけついだ紀元前2000年の良渚遺跡から出土した玉器にきざまれた大きな目の怪人の模様は太陽神であったとのべられた氏は、さらに太陽神の系譜を紀元前2世紀後半の山東省の竜山遺跡の渦巻き状の巨大な眼をもった神面にまでたどっています。

 中国南方の考古遺跡の出土品に太陽信仰の存在をたどった林氏の論は、とくに氏独自の見解とはいえませんが、明確に、説得的にかたる氏の論の運びは私にとってはありがたい援軍です。

 ただ私がひっかかるのは、五の「饕餮=帝」の章で、青銅器によくみられる饕餮紋(とうてつもん)を太陽神の後裔とし、「帝」の文字はそこから生まれたと説いている点です。饕餮紋については、私も考察したことがあります(「鬼の図像学―漢代画像石の世界から―」『日中文化研究6 古代伝承と考古学』勉誠社・1994年3月)。この怪奇な神の像が太陽神であり、帝の字形の原型とする論は魅力はありますが、納得できないものがのこります。もし帝が太陽神なら、なぜ天帝や皇帝が星辰の神格化であって、太陽神がその下位に位置付けられたのでしょうか。

 ちなみに、白川静氏(『字統』)は、「帝」について

 神を祀るときの祭卓の形。示も祭卓の形であるが、帝はそれに締脚(くくった足)を加え、左右より交叉する脚を、中央で結んで安定した大卓をいう。最も尊貴な神を祀るときのもので、その祭祀の対象となるものもその名でよんだ。すなわち帝を祀る祭卓の意である。

と説明しています。私にはこの説明のほうがはるかに納得できます。

 長くなりましたが、今回はこの辺で失礼します。


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