諏訪春雄通信 51


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 夏期休暇中の旅行、その他の事情により、この配信が遅れていることをお詫びします。諏訪春雄通信は私が直接ホームページに入力しているのではなく、いったん中継者の手を経て、学習院大学東洋文化研究所のホームページにとりこむという作業をおこなっていますので、関係者のやむをえない事情で遅れてしまうことがおこりがちです。


 今回は8月21日(水曜日)から6日間実施したトカラ列島悪石島のボゼ調査についてかんたんにご報告しておきます。

 沖縄のアカマタ・クロマタ、秋田のナマハゲに代表されるような日本各地の来訪神儀礼の源流については、日本文化人類学の草分けとでもいうべき岡 正雄さんが、はやく昭和3年(1928)の『民族』3巻6号に発表した「異人その他―古代経済史研究草案の控へー」の説が長くそのままに信奉されてきました。ヨーロッパの人類学者が19世紀の末から20世紀のはじめにかけておこなった、南太平洋のメラネシア・ポリネシアの秘密結社儀礼の調査結果によって、日本の来訪神儀礼をその系譜のなかに位置づけたものでした。

 しかし、私は中国各地の来訪神儀礼の調査にもとづき、日本の来訪神儀礼は、長江中流域に起源する来訪神儀礼が稲作とともに西へつたわり、ベトナムを経て沖縄に上陸したという説をとなえ、機会あるごとに、その見解を発表してきました(「除災の信仰と来訪神の信仰」『中国秘境 青海崑崙 伝説と祭を訪ねて』勉誠社、2002年など)。

 しかし、そうした説をとなえる私も、仮面の様式からみて、悪石島のボゼ、硫黄島のメンドン、竹島のメンドン・カズラメンなどは、岡説がいう南太平洋の島々の秘密仮面結社儀礼の影響がおよんでいるのではないかという考えをもっていました。その確認が今回の調査の大きな目的でした。

 仮面の違いをかんたんに説明しますと、(1)中国系の仮面は顔だけをおおう小型のものであるのにたいし、南太平洋系の仮面は頭部から上半身をすっぽりとおおう巨大なもので、(2)耳や目、鼻、口などもすべてグロテスクに誇張され、とても人間の顔とはみえません。(3)中国系仮面が長期にわたって大切に保存されるのにたいし、南太平洋系は祭礼がおわると、破却または焼却されます。(4)その分布も、中国系が北海道をのぞく日本全土、沖縄から東北にまでおよぶのにたいし、南太平洋系は、日本では南九州の鹿児島県知覧からはじまり、薩南、南西の火山帯の島々の一部に限定されています。

 8月21日(水曜日)、鹿児島港発23時50分のフェリーとしま丸にのりこんだ私は、二等船室の寝台におさまったところで、同室の悪石島の中学校の理科の先生福島顕さんと知り合いになりました。先生のほうから声をかけてきたのです。中国調査からもどったばかりで、雑用に追われて島についての予備知識不十分であった私は、話好きの先生につぎからつぎへと質問をあびせて、島についての知識を先生から貪婪に吸収しました。

 島の人口は68名、小中併設の学校が一校、生徒は中学生が2人、小学校が7人だけ。それにたいし、先生は8人。高校になると、生徒は鹿児島に出て、十島村(トカラ全体の行政単位)村立の高校で寄宿生活をつづけること。島の生活は牛の牧畜と漁で維持され、田畑は現在はない、生鮮食料、その他の生活物資は2日に一度の船便ではこばれてくる、島の売店は一軒だけで、缶ジュース、酒、おつまみなどが買える程度。自販機なし。テレビは普及し、学校の先生はすべてパソコンに習熟しているが、一般家庭にはパソコンはない、島に診療施設はなく、急病人が出ると鹿児島の赤十字病院からヘリが飛来する、などなど。その他、ボゼについてもかなりの情報を入手することができました。

 先生の話は延べで3時間を超えました。朝は別室の教え子たちをもよんできて、さらに先生のお話をききました。

 島に到着したのは翌日22日(木曜日)の午前11時でした。12時間の船旅でした。悪石島という島名の由来は誰に聞いても不明でしたが、海上からながめたこの島の断崖、火山岩露出の怪奇な相貌からついた名ではないかというのが、私の第一印象です。島で数軒しかない民宿の一つ、南海荘に一行5名(私のほかに院生・卒業生ら4名)はおさまり、午後からさっそく調査を開始しました。

 調査対象は、仮面作りからはじまるボゼ行事、並行して進行する盆行事、島の民俗、の三つでした。くわしい報告はべつの機会にゆずり、今回は私の気のついたことの若干を、メモとしてしるしておきます。

 ボゼは旧暦の7月7日、七夕の日から16日までつづく盆行事の最後に出現します。もともとはトカラの各島で、冬のヒチゲーという節替りの夜に出現していましたが、いまは悪石島だけ、盆行事としてのこっています。日本の温帯と亜熱帯の境界をしめす渡瀬ライン(東京大学の教授で動物学者であった渡瀬庄三郎が大正元年に提唱した動物分布地理学上の境界線。屋久島・種子島と奄美諸島とのあいだにある)はこのあたりを横切っています。植生ともかさなり、このラインの南の亜熱帯地方は冬作地帯で農作物は冬にみのり、季節の交替する節替りはお盆の頃となり、来訪神もそのころに出現します。ラインより北方の温帯地帯では、夏作であり、来訪神は年末・年始の行事になります。悪石島はその境界にあたるため、行事を冬から盆に変更しても抵抗がなかったのだと思います。

 ボゼは現在は三体あらわれます。その役割分担は明確ではありませんが、昔は四体つくられ男女の別もあり、牛の面もつくられたといいます。来訪神はもともと先祖の神々が子孫に文化をさずけた世界の始まりの時間を再現するものであり、祖父母、親夫婦、子供などの役割分担のあるのが普通です。しかも農耕などの文化伝授の場を再現するために、牛なども登場することがあります。そうした本質が今はすべてわすれられてしまっています。

 ボゼはにげまどう女性や子供たちを追いかけ、朱泥をつけたり、マラ棒と称する棒で女性の尻をたたいてまわったりします。このあたりには、中国南部系田植祭りの生殖儀礼の影響がみられます。

 悪石島の民俗には全体として、沖縄と本土の中間に位置するための両者の混交現象がみとめられます。盆行事が、死者供養、盆踊りその他、本土の佛教行事と類似性があるのはそのためであり、墓の形態にも本土の墓石形式、沖縄の亀甲墓形式、その混交形式などが存在します。

 今は牧畜と漁業が島の経済をささえていますが、本来は焼畑農耕と漁業が主要な生産活動でした。したがって、悪石島本来の民俗祭祀はこの農耕・漁労の生産活動と密接にむすびついていたはずです。島の祭りの中心の担い手が男性であり、女性が補助者の位置にとどまっているのは、儒教や仏教の影響も皆無とはいえないでしょうが、生産活動の担い手が主として男性であったことに由来すると思われます。

 島にはあちこちに神々がまつられています。島建て世建ての神など、沖縄の神々に通じる神格をまつっている神社がある一方では、西之宮若エベス、コトシロヌシ、釈迦守仏など、本土系の神々もまつられています。神社の形態も沖縄風の矩形の祠形式本土系の鳥居をそなえた切妻屋根の神社形式と二つの様式がみとめられ、全体として本土風に移行しつつあります。

 トカラ列島にはネーシー(内侍の訛り)とよばれる神女(巫女)の組織があり、死者儀礼、病気療養、各種占いなどに活躍していました。しかし、悪石島では今はネーシーは廃絶しているようでした。島の公的な祭祀は男性の神役が担当し、私的・個人的な悩み事の解決は女性のネーシーが担当するという、一種の分業がおこなわれていたのですが、近代的な医療制度の導入などで、そのバランスがくずれてしまったのです。

 時間がゆっくりとながれた島での4日間はたのしいものでした。カメラとビデオ・三脚をかついで汗をふきながら動きまわるよそ者の私たちを島の人たちはあたたかくうけいれ、調査にもよく協力してくださいました。ことに資料のコピーや調査のための車の提供その他でお世話になった悪石島小中学校の先生方、ありがとうございました。地域の人たちとの自然な融合、教育にたいする熱心な取り組みなど、多くのことを先生方から学びました。

 悪石島の調査報告は10月5日(土曜日)午後2時からの開催に決定した公開研究会「日中祭祀の形態―狩猟牧畜民・焼畑農耕漁労民・農耕民の比較―」(仮題)でビデオを使用しておこないます。多数のご参加をお待ちしています。

 今回はこの辺で失礼します。


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