諏訪春雄通信 57
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
今週10月13日(日曜日)の読売新聞朝刊1面におもしろい記事がのっていました。ご覧になった方も多いと思います。「キレやすいゲーム脳」という題で、読書がいかに脳を活性化し、情緒をゆたかにするか、逆に、テレビゲームが情緒をいかに不安定にするかという、各方面の最新の研究成果を紹介したものです。その一人、fMRI(機能的核磁気共鳴影像法)装置などを使って10年以上も研究をつづけてきた東北大学未来科学技術共同研究センターの川嶋隆太教授(脳科学)の報告はつぎのようなものです。
学生たちに「あすの予定を考える」「トランプゲームをする」「本を読む」など百種類以上の課題にとりくんでもらい、前記の装置で脳内の磁場の微妙な変化をみると、脳のはたらいている部分は画面に赤く映しだされます。その結果、おどろくほど広範囲に赤がひろがったのは、「本を読む」時でした。「あすの予定を考える」ではほとんど変化がありませんでした。
読書の力を川嶋教授はつぎのように説明します。「本を読むと前頭前野(ぜんとうぜんや)という脳の部分が強く活性化される。ここは注意力やコミュニケ−ションなどを担う部位なので、鍛えれば注意力が増し、情緒豊かになる」
その一方でテレビゲームを長時間おこなうとキレやすい性格になるという研究も報告されています。日本大学文理学部の森昭雄教授(脳神経科)の研究によると、テレビゲームを毎日2−7時間する子は、脳の活動状況をあらわす脳波のβ波が前頭前野からはほとんど出ていなかったといいます。森教授はこの状況をゲーム脳とよびます。
脳の前頭前野は、感情をコントロールする役割もあり、ゲーム脳では、この働きが悪く、「キレやすい」性格につながると、森教授はいいます。
この諏訪春雄通信は、図像も挿入せず、無愛想なこむずかしい文章に終始しています。しかし、こういう文とつきあっているときこそ、皆さんの前頭前野は赤々とかがやき、脳が活性化し、情緒は安定するのだとかんがえていただければ幸いです。
やはり、今週10月15日(火曜日)午後1時15分から杉並区善福寺の東京女子大学比較文化研究所主催の講演会で「日中霊魂観の比較―幽霊・妖怪そして鬼―」という題で話をします。予想外に聴講希望が多く、主催者側は、はじめ2102教室で先着350名として広報したのですが、急遽650名収容の講堂に会場を変更しました。
私も、当初はスライドなどをつかって講演をすすめるつもりでしたが、80分間の持ち時間一杯を話だけで終えることにして原稿を用意しました。
この種のテーマをあつかった私の最初の著書は1988年に刊行された岩波新書『日本の幽霊』でした。初版の刷り部数が4万部、そののち6千部ずつ、6版まで版をかさねましたが、そこで絶版になっています。いまの新書の初版はこの半分も刷りません。全体として本が読まれなくなった傾向がこんなところにもあらわれています。
この書がきっかけになり、私も幽霊や妖怪の専門家とみなされるようになり、あちこちで講演を依頼されたり、原稿を書いたりしています。アジア文化研究プロジェクトの刊行物でも、『アジア山民海民の民俗と芸能』『アジアの霊魂観』『訪れる神々―神・鬼・モノ・異人―』『現代日本の宗教事情』『降神の秘儀―シャーマニズムの可能性―』などでこのテーマをあつかってきました。
私の基本的な見解は幽霊と妖怪を区別することです。そして鬼は両者の性格をあわせてもっているとかんがえます。このことについては通信47でもすこしふれました。幽霊も妖怪も神もひとしく霊魂にふくめられます。霊魂のうち、プラスの働きをするとかんがえられるものが狭義の神となり、マイナスの働きをするものが妖怪や幽霊とみなされます。
さらに、プラスの働きをする神、マイナスの働きをする幽霊・妖怪を私はつぎのように定義します。
〈神=人間の本質を補完する霊的存在〉
〈幽霊・妖怪=人間の本質をあばく霊的存在〉
人間が神と交流しようとするのは、人間の弱さを神の完全さでおぎなうためであり、幽霊や妖怪に関心をもちつづけるのは、彼らによって自分たちの真実の姿をあばきだしてもらうためです。
このような考えを基礎にすえて、当日は、霊魂ということばの意味が日中共通であることからはじめて、1.中国人の霊魂観、2.神と精霊、3.妖怪と幽霊、4.幽霊と妖怪の区別、5.中国の神々、6.日中妖怪観の比較、7.日中幽霊観の比較、8.日中の鬼観念、9.幽霊・妖怪・鬼の存在意義、の順序で話をすすめます。
「伊勢神宮と出雲大社」のテーマにもどります。出雲大社は大社造りとよばれる建築様式をもち、伊勢神宮は唯一神明造りという様式をそなえています。
大社造りのもっとも重要な特色は心の御柱とよばれる巨大な木柱を中心にすえて、その周辺に社殿を構築した建築様式であることです大社はもともと文字通りに大きな社の意味で、現在の本殿は2間、1辺10.9メートル四方、高さ24.2メートルですが、古くは現在の2倍以上の高さであったことについてはすでにこの通信でふれました。屋根は山形の切妻造りで妻入り(屋根の妻の側を正面とする)です。この屋根をささえて9本の円柱がたてられています。このうち中央の柱を心の御柱といい、直径が約110センチのまさに大黒柱です(青木義脩他『神社建築』山川出版・2001年)。
伊勢神宮が唯一神明造りとよばれているのは、同社の正殿とまったく同じ形式の本殿を、他の神社の神明造りで建てることはできないからです。正面3間、側面2間で、本殿の規模としては大きくありません。掘立て柱、屋根は切妻造り・平入りで茅葺きです。正面・側面ともに左右対称です。床下には心の御柱(忌柱)がおさめられています(前掲『神社建築』)。
心の御柱は出雲大社でも伊勢神宮でも建築の文字通り中心を占め、両社の信仰体系の中核をなしています。心の御柱をもつ神社はこの両社の他には群馬県の貫前神社だけです(千家尊統『出雲大社』)。
伊勢神宮の心の御柱建立の祭儀は、式年遷宮にあたって、特別に杣山から用材を伐採するための木の本祭と、これを建てる心の御柱祭が、いずれも夜間の秘儀として執行されます。参加者も禰宜、大物忌など特定の神職に限定されています。柱は地上3尺3寸、地中2尺ほどに埋め立てられます。ご神体の真下にあたる位置といわれています。しかも注意すべきことは、高床式の正殿とはまったく無関係な柱であるということです。建築物の構造と関係なく地面に埋めこまれています。
にもかかわらず、伊勢神宮においてもっとも重要な柱なのです。普通の神社ではお供え物(御饌)を献進するときには本殿内部の祭壇のまえか社殿のまえにそなえます。ところが、伊勢神宮では、九月の神嘗祭、六月・十二月の月次祭などのさい、正殿床下の心の御柱のまえにそなえます(田村円澄『伊勢神宮の成立』)。
という4点が伊勢神宮の心の御柱の特質です。この4点がすべて出雲大社の心の御柱とは異なります。出雲大社の心の御柱は、神社建築本体をささえる中心の構造柱であり、祭神の依代ではない、20メートルをはるかに超える巨大柱である、永久柱である、という正反対の本質をもっています。
以上の4点は、いずれも日本の樹木にたいする信仰の重要な特質をしめしています。もっと厳密には、山の民(縄文系採集狩猟漁労民)と野の民(弥生系農耕民)のそれぞれの樹木信仰の違いをあらわしています。
山の民は山の樹木を山の神として崇拝する傾向があります。その段階では神はまだ動きまわりませんので、樹木そのものが崇拝の対象になり、その樹木をあちこちに移動させることはありません。山の民が神祠をつくるようになっても、樹木がそのまま神祠と合体します。出雲大社は基本的にはこの段階の信仰をあらわしています。すでに大国主命に代表される農耕民の支えをうけながらも、基層に採集漁労民の信仰が保存されています。前回の通信で10段階に分類した日本の祭壇推移の1と4の重層構造です。
山の民が平野におりて野の民となって農耕をいとなむようになっても、彼らの山の神の信仰は保持され、山の神が田の神の性格をあわせもつようになります。その段階では神は動きまわるものと意識され、神の象徴である樹木は山で伐採され里へ移されて、田の神に変質した山の神の依代と意識されます。2です。
ここで注意しなければならないことは、田の神に2種類あることです。この問題は、10月5日(土曜日)のアジア文化研究プロジェクト主催の公開研究会での私の報告で論じたことですが、ここで要点をもう一度くりかえしておきます。
日本人の民俗信仰に田の神と山の神の交替という現象があります。農民の信仰する山の神は春に山から里に下って田の神となり、秋の収穫がすむと山に帰って山の神になるというものです。このばあい、山の神がそのままに田の神に変るのだとする説と、田の神には、穀物にやどる穀霊と穀物の外にあって稲の生育を見守る神の二種類があり、山の神と交替する田の神はこの外部にあって見守る神であるとする説との二つが現在あり、議論されています。
私は中国の事例などもかんがえあわせて後者の説が正しいとかんがえます。そして、伊勢神宮の心の御柱もまた広義の山の神と田の神の交替信仰とみます。杣山から伐採されて伊勢の地に移される心の御柱はもともとは山の神を象徴するものでした。他方、穀霊としての天照大神はこの山の神とは本質を異にする田の神です。山の神は農耕を外部から見守る神に性格を変えますが、その依代である心の御柱と穀霊である天照大神の本殿とは一つに合体しながらも(前回の通信の10段階分類での5と9の重層です)、なお、山の神の象徴である柱は、天照大神をまつる伊勢神宮の構造柱とはなりえないのです。1です。
このあたりの私の論理の運びは、お正月に山から木を切ってきて家の門にかざる民俗、いまも松飾とか門松とかよばれて形骸化しながらも維持されている習俗をかんがえあわせていただければ納得がゆくはずです。
3について検討します。日本の縄文時代には顕著な巨木信仰があります。出雲大社の巨大な柱の信仰もこの縄文につながる巨木信仰とかんがえられます。ところが弥生時代になりますと、依然、樹木や柱の信仰は継続していますが、全体としては鳥竿信仰などに代表されるような小ぶりな樹木や柱に変化します。3は基本的には弥生以降の小型となった樹木信仰で説明できます(諏訪春雄編『巨木と鳥か竿』勉誠出版・2001年)。4については前回の通信でくわしく説明しました。
出雲大社も伊勢神宮も基本の信仰構造はつぎのように要約できます。「山の神は里へ降りて里の神に変るが、しかし、里には山の神と別種の神がいる」。ただし、この共通構造をもちながらも、出雲大社の山の神は動きまわらず、伊勢神宮の山の神は動きまわる、という相違があります。
出雲大社とおなじように、縄文系の巨木信仰をうけつぎながら、山の神が動きまわる弥生系の信仰を重層させているのが諏訪大社四宮の御柱祭りです。出雲大社と伊勢神宮の中間型です。
御柱祭りは七年に一度、八ヶ岳、霧が峰から樅の大木を各宮4本ずつ、計16本を切りだし、麓の神域である各宮の境内に一直線に曳行し、それぞれ4本の柱を立てるという、単純な、しかし含蓄する内容のふかい祭りです。
この祭りで山から木を曳くときの木遣りにつぎのような文句があります。
奥山の大木 里に降りて神となるヨーイサ
山の神様お帰りだ 皆様無事におめでとう
大木はすでに山の神の依代となっています。山の神はこの柱に乗って山を下り、柱が諏訪大社4宮の境内に立てられたあと、諏訪明神やその眷属神と交替して山へもどります。以降、この柱はもろもろの神々の依代として、本社の諏訪明神その他の神とともに大社の神域を一つの聖空間として秩序づける機能をはたすことになります。
出雲大社や伊勢神宮の信仰構造をかんがえるうえで諏訪の御柱祭りは参考になります。
今回はこの辺で失礼します。