諏訪春雄通信 62
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
永年教師をやってきてうれしいことの一つは、教え子たちが学問の力をつけてそれぞれの道へすすんでゆくことです。今年の3月に、私は2名の博士号(日本文学)取得者を出しました。1人は浮世絵、1人は邦楽(一中節)をあつかった論文でした。さらに、来年の3月までに3名の博士学位取得者が出る予定です。2名は歌舞伎、1名は浮世絵です。昨年までにもすでに3名の取得者を出しています。
今年もおしつまってきて、加藤次直君(学習院大学非常勤講師)が東海大学の専任講師に採用されることに決りました。学部、大学院、卒業後と、長い間、はげましたり、叱ったりしてきた教え子だけに、ようやく、落着き先ができたかと、喜びも格別です。
また、昨日は、中公文庫におさめられることが決っていた田口章子さん(京都造形藝術大学助教授)の著作『江戸時代の歌舞伎役者』の解説文を編集部に送付しました。この本の初版は平成10年に雄山閣出版から刊行され、翌11年には藝術選奨文部大臣新人奨励賞をもらっています。田口さんもどうやら独り歩きをするだけのしっかりとした基盤をつちかったようです。中公文庫は今年の12月に刊行されますので、どうぞ、1冊購入して、私の解説ともども、ご覧になってください。
大学院にかぎっても、大勢の教え子たちのなかには、すでに学問からはなれた者もおれば、学問をつづけていても、その成果を生みだしていない者もいます。消息がさだかでなくなった者も数人います。はっきりしていることは、かならずしも、学問の力だけで、ことが決るのではなく、そこには、本人の運不運が大きくはたらいているようです。その意味では、我々教師が学生にやってやれることなどはかぎられています。
今回は「浮世絵の範囲」についてかんがえます。浮世絵の起源をめぐっては、はっきりと対立する広狭二つの説があります。ひろくかんがえる説は16世紀末の近世初期風俗画とよばれる肉筆画にまで成立をさかのぼらせるものであり、せまくかんがえる説は17世紀後半の菱川師宣の作画活動にまでさげるものです。したがって、初期風俗画派と菱川師宣派の対立といいかえることもできます。
この二つの説はたんに起源の時期の違いにとどまらず、前者は肉筆画を版画とおなじように重視し、謎をのこす岩佐又兵衛の画業や寛文美人画を積極的に浮世絵史のなかに位置づけ、上方絵を高く評価します。それにたいし、後者は版画を中心にかんがえ、岩佐又兵衛の作品や寛文美人画を浮世絵とは異質なものとしてはずし、江戸絵として浮世絵を江戸の流派にかぎろうとする傾向をみせます。両説の違いは浮世絵の本質にたいする見方までを左右しています。
手許の辞典でみますと、まず初期風俗画派は、吉川弘文館『国史大辞典』(1980年)の楢崎宗重氏の解説「浮世絵」です。岩佐又兵衛に言及していない点をのぞけば、浮世絵をひろくとらえる説の特色がよく出ています。浮世とは現世の意であり、現世風俗一般をえがいた画を浮世絵の中心とします。
初期風俗画派といっても、近世初期風俗画をすべて初期浮世絵ととらえるか、そのなかから狩野と土佐の系統にぞくする作品をのぞいて、無所属の町絵師の作品だけを初期浮世絵とみるかの違いをなかにかかえこみながらも、初期風俗画に浮世絵の始まりをみる研究者にはつぎのような人々がいます。
江戸時代末成立『浮世絵類考』の著者
岸田劉生(『初期肉筆浮世絵』岩波書店・1926年)
大村西崖(『近世風俗画史』宝雲舎・1943年)
吉田暎二(『浮世絵入門』画文堂・1966年、ほか)
辻惟雄(『奇想の系譜』ペリカン社・1970年、ほか)
吉田漱(『浮世絵の見方事典』北辰堂、1977年、ほか)
小林忠(『江戸絵画史論』、1983年、ほか)
山口桂三郎(『浮世絵の歴史』三一書房・1995年、ほか)
つぎにせまくかんがえる菱川師宣派の辞典解説としては、新潮社『新潮世界美術辞典』(1985年)の無署名解説「浮世絵」をあげることができます。浮世を遊里と芝居に限定し、美人、遊女、役者などを中心にえがいた木版画を浮世絵の主流とかんがえます。この系統にくわえるべき研究者または解説書の数もけっして前者にひけをとりません。主要な人と書をあげます。
渋井清(「浮世絵之起源」『浮世絵之研究臨時号』日本浮世絵協会・1927年)
藤懸静也(『浮世絵之研究』雄山閣・1943年、ほか)
織田一麿(「浮世絵」『日本文学大辞典』新潮社・1950年)
『日本史辞典』(東京創元社・1954年)
近藤市太郎(『浮世絵 日本歴史新書』至文堂・1966年)
鈴木重三(「浮世絵」『日本古典文学大辞典』岩波書店・1983年、ほか)
『角川日本史辞典』角川書店・1996年)
両派はまさに拮抗しているといってよいとおもいます。共通のテーマで研究する研究者のあいだで、その対象領域にたいする考えが真二つにわれて、その決着がついていないという学問もめずらしいでしょう。研究方法や研究態度の違いではなく、対象そのものにたいする考えが二つにわかれているのです。
ここで、あたらしい視点から浮世絵の範囲をかんがえなおしてみます。
浮世絵ということばの意味についても、じつは、初期風俗画派と菱川師宣派のあいだに解釈の相違があります。「うきよ」は中世以前の「憂世」から近世の「浮世」にかわり、意味のうえで、仏教的な色彩をおびた、つらい苦しいこの世から、浮かれあそぶ現世へ大きく推移したという理解が一般に承認されています。辞典類から代表的な解説を一つあげておきます。
平安時代には「憂き世」で、生きることの苦しい此の世、つらい男女の仲、また、定めない現世。のちには単に此の世の中、人間社会をいう。「憂き」が同音の「浮き」と意識されるようになって、室町時代末頃から、うきうきと浮かれ遊ぶ此の世の意にも使うようになった。(『岩波古語辞典』岩波書店・1990年)
このような「うきよ」ということばの共通理解のうえに、浮世絵については、現世風俗一般をえがいた絵画と解する説と、現世風俗のなかでも、遊里や芝居などの享楽生活にことに中心をおいた絵画とみる説の、広狭二つがあることはすでにみたとおりです。
この間の事情をもうすこし正確に説明しますと、広狭二説が生まれたのは、近世の「浮世」ということばの意味に、A.この世、B.浮かれあそぶこの世、という二つがあるとみられてきたからです。いうまでもなく、初期風俗画派はA説により、菱川師宣派はB説によっています。近世の「浮世」の意味が、この二つだけなら、浮世絵の広狭二つの解釈に決着をつけることはむずかしくなります。しかし、私は「浮世」には、もう一つ、第三のCの意味があるとかんがえます。そして浮世絵の「浮世」はこの第三のCの意味につよく規定されていたと主張します。そのような立場をとることによって、浮世絵の範囲に関する広狭二説の対立にも終止符をうつことができます。
この問題はさらにつづけてかんがえることにします。
17日(日曜日)は、姫路市での講演のために朝7時半に家を出ます。新幹線のなかでは、読みかけの真帆裕一『誘拐の果実』(集英社)を読了する予定です。この書はまちがいなく、『ホワイトアウト』『奪取』などとならんで、真帆裕一の代表作の一つになります。また、最近読んだ推理小説のなかで、文句のない秀作は、横山秀夫『半落ち』(講談社)です。皆さんにもおすすめします。
今回はこの辺で失礼します。