諏訪春雄通信 64
アジア文化研究プロジェクトへようこそ。
電器メーカーの大手日本電気株式会社の宣伝誌『NECマガジン』に、私は「街道解説」という文章を連載しています。毎回交替する作家との組み合せで、作家が街道についての随筆を書き、私がその街道の解説を書きます。今年の11月に刊行された最新号の159号には、能登の七尾街道がとりあげられ、時代小説作家の戸部新十郎さんが「幻のトキ舞う里は」という文をよせ、私が「日本街道を望む道」を執筆しました。NECのホームページに載せられていて、「諏訪春雄 街道解説」からでもかんたんにアクセスできます。
この連載のいっさいの企画を立て、毎回すばらしい風景写真を10枚近く載せているのが写真家の外山達志さんです。外山さんは、これも私の古い友人である毎日新聞編集部の石倉昌治(『炎環』主宰の俳人石寒太)さんの紹介で知りあった人で、私とは20年来の付き合いがあります。
外山さんの作品のおだやかな抒情はまさに外山さんの人柄そのものです。外山藝術の永年のファンであった私は、今回、外山さんの個展を学習院で開催する計画を立てました。「渡来文化の道」(仮題)というテーマで、数万枚におよぶ外山さんの作品のなかから、渡来文化にかかわる作品を50点ほど精選し、明年、1月9日(木曜日)、10日(金曜日)、11日(土曜日)の3日間、学習院百周年記念会館ホワイエで展示します。
また、11日(土曜日)午後は、あわせて「歌舞伎と中国演劇」(仮題)のテーマで、複数の講師をおよびし、公開研究会も開催します。会員の皆さんが多数おいでくださることを期待しています。
この通信では、62回につづいて「浮世絵」ということばについてかんがえます。
平安時代の『伊勢物語』の82段に有名なつぎの歌が出てきます。
散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき
この歌は通常つぎのように解釈されています。「あっさり散るからこそ桜はますます賞美に価するのだ。そもそもこの辛い世の中に、何が永続きするであろうか」(『新潮日本古典集成 伊勢物語』)。「惜しまれて散るからこそ一層桜はよいものなのだ。このつらい世の中に久しく続くものは何があろうか、咲いた桜が散るのも当然だ」(『日本古典文学大系 竹取物語 伊勢物語 大和物語』(岩波書店・1957年)。「うき世」ということばはつらい世と訳されています。ほかの注釈書や辞典類はすべて、この歌の「うき世」をつらい世、つまり憂世ととって異説はありません。
しかし、この歌は文徳天皇の第一皇子惟喬親王が水無瀬の別荘で、狩をしたあとにもよおした酒宴の席でうたわれた歌です。伴をしていた当時右馬寮の長官であった主人公の業平が
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
と詠んだのにたいする、同席の人物の返しの歌です。「世間に桜というものが全くなかったなら、花の咲くのを待遠しがったり、雨や風に散るのを惜しんだりして気をもむこともなく、春の人の心はのんびりするだろう」(『日本古典文学大系』)という意味です。
この2種の問答の歌を深刻な教訓の歌と解する必要はまったくありません。もともと業平の歌じたいが、眼前の盛りの桜を存在しないものとする、酒宴の席にふさわしい機知の歌です。「栄枯盛衰は自然の道理です。桜だって自然の道理にしたがって散るからこそよいのです。この世に変化しないものなんかありません。無駄な抵抗はやめましょうよ」と、相手の意表をついたはぐらかし、または相手をやりこめた歌とみたほうがはるかに軽妙な味が出てきます。
『伊勢物語』はだいたい深刻な佛教趣味のゆきわたった作品などではありません。近世の小噺にも通じるようなエスプリに満ちた短編を集成したユーモア文学です。現に、このおなじ82段の後半にも、実在の地名の天の河を、七夕伝説にからめた軽妙な歌のやりとりがおこなわれています。
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は来にけり
一年にひとたび来ます君待てば宿かす人もあらじとぞ思ふ
「ここは天の河原、一日、狩りですごした私たちは織女に宿を借りましょうよ」「織女は一年に一回訪れる牽牛を待っているのですからだれが宿など貸すものですか」という機知問答です。
近世以前の「うき世」はすべて「憂世」であるという固定観念をもっていると、このような新しい読み方はできません。辞書は役に立ちます。しかし、それは用例をひろってくれているからで、そのことばの意味については、その用例をもとに、自分で解釈しなおす必要があります。
憂世も浮世も出典は佛教ではなく、中国の古典にあります。ただし、憂世は、漢代の『孔叢子(くぞうし)』の「節南山において忠臣の世を憂いるを見る」、後漢時代の『論衡』の「あるいは主を輔(たす)けて世を憂いる」などの用例をみても、いずれも世のなかのことを心配するという意味で、生きることのつらい世というつかい方はありません。私がよく引用する中国の『漢語大詞典』にも立項されていませんので、この意味の用法は日本で生まれた可能性がつよいとおもわれます。
浮世については、中国につぎのような用例があります。
これらの用例に、『大漢和辞典』は「定めない世の中」という説明をあたえ、『漢語大詞典』は「人の世。むかしは、人の世はうきしずみして集散定めないことからこのように称した」と、よく似た説明をしています。ここで、注意しなければならないことがあります。この3例のうち、2をのぞけば、仏教的無常観はうすく、むしろ老荘的な空無感がつよくあらわれていることです。
1の作者の阮籍は三国時代の魏の国の人で老荘思想に傾倒し、竹林の七賢の一人となった人です。また3は『列子』にしるされている、黄帝が夢のなかで華胥氏の国という平和境にあそび太平のさまを見たという故事によっています。ともに佛教ではなく老荘思想をあらわした浮世です。
この老荘思想の浮世とふかくかかわるのが浮生ということばです。日本人には音読されたときに発音の違いを認識できないこのことばは、『荘子』の「刻意篇」のつぎの文に由来しています。
聖人の生や天行、その死や物化、静かなればすなわち陰と徳を同じくし、動けばすなわち陽と波を同じくす。福の先とならず、禍いの始めとならず、感じてしかるのちに応じ、迫られてしかるのちに動き、やむをえずしてしかるのちに起ち、知と故(こ)とを去りて、天の理にしたがう。故に天災なく、物累なく、人非なく、鬼責なし。その生や浮かぶごとく、その死や休(いこ)うがごとし(其生若浮、其死若休)。(金谷治訳注『荘子』岩波文庫)
自然本来の筋道にしたがい、生きているときは流れのままに浮かぶかのようであり、死んでゆくときは休息するかのような、人為を排した自然の生き方、浮生が、前掲の1、3の浮世の基本思想になっています。これはふつうに理解されているつらい悲しい憂世とも浮かれあそぶ浮世とも、そしてたんなるこの世を意味する浮世とも異なる、もう一つの浮世です。
『荘子』ははやく聖徳太子の『十七条憲法』の文にとりいれられていますから、日本への伝来はそれ以前です。平安時代の伝来本の目録『日本国見在書目録』には21部の『荘子』の注釈書の記載があり、中世には日本の知識人の愛読書になっていたことが、兼好法師の『徒然草』や一条兼良の『語園』によってわかります。近世になると、古活字本や整版本として刊行され、文芸や思想、藝術に大きな影響をあたえています。
私は、老荘思想を包括した道教思想が日本文化に深刻な影響をあたえているという観点から、これまでに、『安倍晴明伝説』(ちくま新書)や『北斎の謎を解く』(吉川弘文館)などの著書をあらわしました。
『荘子』の浮生が日本の浮世のもとになったという考え方を最初に指摘したのは、じつは、江戸時代の本居宣長でした。彼は、随筆『玉勝間』の巻四でつぎのようにいっています。
うきよは憂き世といふことにて、憂き事のあるにつきていふ詞也。古き歌どもによめるを見て知るべし。然るをからぶみに、浮生(ふせい)いふこともあるにまがひて、つねに浮世とかきならひて、ただ何ともなく世の中のことにいふは誤り也。
浮世が中国の浮生によってあてられた文字であるという指摘はさすがですが、それ以外の説にはしたがうことができません。
しかし、浮世に『荘子』の影響を否定できず、したがって、中世以前、以後の浮世に、『荘子』の《無為自然》という意味の用法の存在をみとめないわけにはゆきません。前述の『伊勢物語』の浮世も無為自然の浮世であり、ほかにも類似の用例を見出すことができます。ここでは浮生の例をあげておきます。900年に成立した菅原道真の『菅家文草』巻三「舟中に宿る」です。
孤舟の上に寄宿す 東風は行(たび)に便あらず 客中重ねて旅客たり 生分竟(つい)に浮生たり
語ること得たり 塩商の意 随(したが)わまく欲(ほ)りす 釣叟(ちょうそう)の声 此の間塵染断つ
更に家に情(ありさま)を問うに嬾(ものう)し。
主人公が瀬戸の船旅をしたときの作品です。詩のなかの生分については、通説(『日本古典文学大系 菅家文草 菅家後集』、『大漢和辞典』など)では不和、仲たがいとし、「土民たちは争いをこのむがそれも浮世のさが」と訳し、旅の見聞としていますが、それでは詩趣が死んでしまいます。こまかな考証は省略しますが、ここの生分は生き別れの意味です。「風の便りが悪く、一隻の舟の上で日数をすごし、親しい人と生き別れになっているのも自然の成行き」と解し、俗界の塵や汚れを超越して、京の家族のことまでをわすれてしまった主人公の、自然にさからわぬ心境をうたった作と解します。
『伊勢物語』はいま知られている「うき世」の初出例です。平安時代の前期、まだ楽天的な雰囲気をもっていた「うき世」や「浮生」も、浄土信仰の浸透とともに急速に憂世に統一されてゆき、その傾向は中世の末ごろまでつづきます。そして、一種の世紀末的な風潮のなかで、こだわらずに自然に生きる『荘子』ブームが到来し、日本人の浮世は『荘子』の浮世観にふたたび染めあげられます。
おなじ16世紀でも10年代の『閑吟集』には憂世の感じがつよいのですが、それより10年ほどのちの『隆達小歌』になると、憂世、浮世ともにすでに無為自然風です。
憂世は夢よ 消えてはいらぬ とかいなう とけてとかいの 夢の浮世よ 露の命の わざくれ 成り次第よの 身は成り次第よの
浮世絵に広狭両説があって決着のついていないことについては、通信62でくわしくのべました。この問題に解決をあたえることはそれほどむずかしくはありません。初期風俗画派と菱川師宣派とを問わず、高い評価をあたえるのが菱川師宣です。師宣は貞享4年(1687)の江戸の地理案内書『江戸鹿子』に「浮世絵師」として紹介されており、その時代の人たちが浮世絵師としてみとめていたことに疑問はありません。
『国書総目録』(岩波書店)は、彼の生涯の作品、版画、肉筆、絵本など、全部で158種を登録しています。その作品は、遊里、芝居などにかかわるもののほかに、春本、道教画、佛教画、和漢古典画、故事人物画、名所絵、物語絵、武家風俗画、花鳥画、児童画、職人尽し絵、動物画などの多方面におよんでいます。これらがすべて浮世絵師菱川師宣の画業だったのです。
浮世絵は近世初期風俗画に起源をもつひろい範囲を包括する絵画でした。ただ強調しておきたいことは、その浮世絵の浮世は、この世のすべてをありのままにうけいれる『荘子』の思想に裏打ちされた浮世だったということです。時代の好尚にあわせて自然に推移してゆく浮世絵の歴史は、無意識裡にそうした思想にささえられていたのです。
今回はこの辺で失礼します。